分け合った夜を信仰にする

 ひぐらしが、郷愁を誘う声で黄昏時を歌う。
日が傾いたとはいえ、決して盛夏の夕方は涼しいとは言い難い。
停留所の簡素なベンチに腰を下ろしたまま、片桐はバスを待つ。
夕日が、停留所の屋根の影を長く引き伸ばして、ゆらゆらと揺らした。

「……暑いな」
甲高い蝉時雨と、時折吹き抜けるぬるい風。
これ以上無いくらい、夏だった。
ハンカチで汗を拭っていたなまえも、小さく頷いて、あつい、と零した。

 髪が首筋にかかって暑いし鬱陶しいからと、なまえの髪はひとまとめに結われている。
少し横を向けば、汗が滲む白いうなじが目に入ってしまいそうで、片桐は頑なに前だけを見続けている。

「……三門市まで、遠いね」
「そうだな、遠い」

 制服姿のまま、市外に出てきた。
互いに防衛任務は非番で、ボーダー隊員としての活動には何の影響も無かった。
日が沈みきるより前に帰ろうと言い出したのは片桐で、なまえも不服そうではあったが、最終的には片桐に同意した。

 なまえのプリーツスカートにひっそりと縫い付けられたポケットのその中に、トリガーが入っていることは、片桐も知っている。
トリオン体に換装してしまえば、生身の人間に害されることなんて、無いに等しい。
でも、そういうことではないと、片桐は思う。

 実際は誰もなまえに手を出せないかもしれないが、実際のところがどうこうと言うよりも、もっと感情的な部分で、なまえを日が沈むより前に帰してやりたいと思った。
だから、渋るなまえを言いくるめて、日が沈むより前に、三門市まで帰るバスが出る停留所まで連れてきた。

「……ねえ、片桐くん。今日は、楽しかったよ」
「……それなら、良かった」

 放課後、バスで市外まで出かけて、宛も無く適当なお店を見て回り、ファストフードで小腹を満たして、帰る。
そこに意味があったかどうかなんて、関係無かった。
夕日に照らされて仄かに輝くなまえの頬の輪郭線だけが、片桐にとって今日という一日の真実だった。

「私達、普通の高校生に見えたかな」
「きっと、平気だよ。知り合いも見なかったし、誰も気付けない」

 制服のポケットに押し込まれた、トリガー。
ふたりがボーダーの防衛隊員であることを、何より如実に語るもの。
ただの高校生だったはずのふたりが、近界民やトリオン兵なんてものとの戦う為の武器。
ふたりを、『普通の高校生』から隔ててしまうもの。

 一日だけでも普通の高校生になりたいと泣いたなまえの手を引いたのは、片桐だった。
片桐もろくに『普通の高校生』なんて知らないくせに、それでもなまえの手を離せなかった。
即興で拙いプランを組み立てて、三門市の外まで連れ出した。

 なまえに、普通を見せてやりたかった。
ボーダーに入らなければ知ることも無かっただろう苦しみで、泣いて欲しくなかった。
片桐を突き動かした衝動は、そんなものだ。
それで、良かった。
今、なまえは片桐の隣でほんの少し笑っている。
それが、全てだった。

 なまえの熱い手のひらが、ベンチの座面を辿って、片桐の手に触れる。
視線を動かさず、片桐は伸びてきたなまえの手を強く掴んだ。
指を絡めるように、強く手を繋ぐ。

 あつい、となまえが再び呟いた。
片桐も、短い同意の声を上げた。
「……帰りたくないなあ」
陽炎が揺らぐアスファルトの彼方、三門市へ向かうバスが、熱風を起こしながら停留所に向かって走ってくる。
片桐は、今度ばかりは何も言えずに、黙り込んだ。

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