蝉時雨が、遠く聞こえる。
汗ばんだポロシャツの背中に、気温の為ではない汗が伝ったことは、諏訪も気付かないふりをしたかった。
「……そうかよ、いつからだ?」
「夏休みが終わったら、もうこの街には居ません。夏休み明け早々転校ですよ。私もう高三なのに」
世間は、夏休みムード一色である。
何を見ても、夏休み企画と銘打った様々なものが目に飛び込んでくる季節だ。
ボーダーも、平日の昼間からランク戦に興じる中学生や高校生の姿があちこちに見えていた。
夏休みが終わる日は、随分と近い。
あまりにも急な話に、諏訪も三白眼を見開いた。
「おい、すぐじゃねえか。どこまで行くんだよ」
「なんと、市外どころか、県外です。私の家族、この前の新型トリオン兵の侵攻で、相当近界民が怖くなってしまったみたいで」
なまえが、おどけたような表情で肩を竦める。
その話は、諏訪にとっても他人事ではないから、黒と金のあわいに手をやって、息を吐いた。
「まあ、そりゃそうだろうよ。お前はよく平気だよな。自分の先輩が自分の目の前で、近界民の手でよく分かんねーキューブにされたら、普通ビビるんじゃねえの」
アフトクラトルによる、大規模侵攻。
新型トリオン兵によってトリオンキューブにされた顔ぶれの中には、諏訪も混ざっていた。
それも、なまえや日佐人が見ている目の前でのことだったのだから、諏訪としては、とりあえずはその後後遺症も何も無かった自分よりも、ショッキングなものを見せられた後輩達のメンタルの方が心配だった。
実際は、あの侵攻を戦う兵士の側として、戦いを全て目の当たりにしたなまえ本人よりも、無事を祈っていたなまえの家族の方が耐えられなかったのだから、皮肉な話だが。
「それを言い出したら、あの侵攻の後もボーダーに残った全ての人が普通じゃないですよ。私を含めて」
「……それが、ボーダーの普通になっちまったな」
「私も、そのボーダーの普通側だったんですけどね。家族が、私も連れて三門市を出ていくって、聞かなくて」
普通。
警戒区域に佇む白い要塞の中には、街中の普通とは、また違う概念が、常識、或いは普通として存在している。
なまえは、その普通から逸脱しつつあるのだろう。ボーダーの普通を抱えたまま、日常に連れ戻されようとしている。
ボーダーの普通は、時に一般人から見た異質とイコールで結ばれる。
そんな環境に身を置かなければならない後輩の今後を考えれば、諏訪は苦い感情がこみ上げるのを感覚のどこかで感じる。
「……お前ももう、来年は大学生だろ。家出てひとり暮らしするのも、アリなんじゃねえの」
「……それも、許さないって、怒られて。……ごめんなさい、私、家族の方が、大事だったみたいです」
ずっと、困ったように、おどけたように笑っていたなまえの声に、初めて嗚咽が滲んだ。
なまえの家族がとった手段は、確かにあまりに酷で、理不尽で、横暴だ。
だが、そんな理不尽で横暴な手段をとらなければいけないと思う理由も、分からないとは言えなかった。
アフトクラトルによる大規模侵攻が発生したのは、今年の冬のことだ。
なまえの家族の引越しが、季節がぐるりと巡った夏に決まったのは、それだけなまえが引越しを渋り続けたからだろう。
半年も引越しを止められた家族の側としても、この理不尽は最終手段だったのかもしれない。
全ては諏訪の想像でしかないのだが。
「……そういうモンだよ。ボーダーにも、家族を守る為に戦ってる奴らはごろごろ居るだろ。普通、家族って捨てられねえもんなんだよ」
「……それって、ボーダーの普通ですか。一般の人の普通ですか」
「さあ、どっちだろうな。……おら、荷造りとか色々あるんだろ。ボーダーの方にも辞める手続きあるんだぞ」
少し悩んで、諏訪の手が、なまえの頭に乗った。
酔った拍子の戯れで同期の頭を適当にかき回した時の感触とは、似ても似つかない。
頭蓋骨の小ささや、指を掠める髪の柔らかさに、まだ大人に成りきれない少女性がありありと感じられて、諏訪は何も言えなくなった。
なまえは、まだ子どもだ。
「……そう、ですよね。ねえ、諏訪さん。私の引っ越す時、見送りに来てくれますか」
「当たり前だろ。後輩の旅立ちくらい、きちんと祝いに行くわ」
「ふふ、嬉しい。私、泣かないように頑張らないと」
「昔っから泣き虫だったな、てめーは。……笑ってサヨナラなんざ、ハナから期待してねーから気にすんな」
「何ですか、それー!」
目尻の涙を拭って、なまえが笑う。
それが何とも痛々しくて、諏訪はただ、後輩のちいさな頭をそっと撫で続けた。
彼女が泣けないように、この瞬間が永遠になって欲しかった。
なまえよりも一足先に大人になってしまった諏訪は、永遠なんてものがこの世に存在しないことも、もうずっと昔に知っているのだが。