タイムトラベラーの友達
鳥の囀りが聞こえる。硝煙のにおいも、血のにおいも、土煙のにおいさえしない風が、頬を撫でた。
優しい陽射しが、麗らかに、その場にそぐわない出で立ちの男にも注いでいる。
ローブと呼ぶには襤褸切れに近いような、煤けた上着のフードを上げれば、とうに失われたはずの穏やかな日常に涙が出そうになった。
(……そうか、今日だったんだ)
十年前の、にわかには信じがたい記憶。――十年後の自分と入れ替わり、タイムトラベルをした記憶。
その運命の日が、まさに今この瞬間であることを悟って、入江正一はゆっくりと並盛の町を歩き出した。
十年ですべてが変わってしまった世界を、正一は見てきた。こんなに平和で穏やかな故郷の町は、もう正一の記憶の中にしか残っていない。
ここには、クラスメイトの家も、学校も、店も、何もかもがある。正一が失ってしまった、全てのものがある。
懐かしさと、それが近い未来に失われると知っているが故の痛みが、正一の胸を締め付けた。
タイムトラベルのリミットは、五分。五分の間で、この時代の入江正一は、十年後に訪れる未来がどれだけ絶望的な未来かを知るだろう。だが、そんな絶望的な未来から平和な過去へとやってきた入江正一は、何を成すべきか。その答えなど、無い。
運命の五分は、無為に消費されるはずだった。故郷を見て回り、夢みたいな世界だったと郷愁に浸って、終わる。タイムトラベラーはそれぞれの時間に戻り、正一も夢から醒めて、絶望に戻る。そのはずだった。
だが、正一は、見てしまった。
翻る、校則通りの丈のプリーツスカート。校則通りのローファーがアスファルトを跳ねて、胸元を飾るリボンが揺れる。正一の目が、見開かれた。
「なまえちゃん……」
忘れるはずが無い。忘れられるはずが無い。
白蘭が起こした戦争の、その最中。正一を庇って、正一の目の前で心臓を撃ち抜かれて死んだ少女が、そこに居た。
薄い唇から血を吐きながら、最期の瞬間まで正一に手を伸ばしていた彼女より、少しだけあどけない少女。戦争も、荒廃した焼け野原も、胸を貫いた鉛の弾丸も、なにひとつ知らない少女。
正一の足は、弾かれたようにアスファルトを蹴った。
「なまえちゃん……! なまえちゃん!」
十年前に何度も呼んだ名前を、正一は必死に叫んだ。彼女が居なくなってしまったその日から、唇に乗らなくなったその文字のかたちを、正一はがむしゃらになぞる。もう随分と、口にしていない言葉だ。慣れは失われ、懐かしさだけが、もつれそうな舌にじんわりと広がった。
「……? 正ちゃん?」
振り返ったその顔は、正一が彼女を見た最後の記憶よりも幼くて、のんきな顔立ちをしていた。そこで正一は、あの荒廃した世界で、いつも彼女がどれだけ険しい顔をしていたかを思い知らされた。
「……正ちゃんじゃ、ない……? 正ちゃんの、お兄さん……? でも、正ちゃんの家、お兄さん居ないし……」
何もかも分かっていない顔で、少女が小首を傾げる。守りたかったなんて、殊勝なことを言うつもりは無い。ただ、あの瞬間に手のひらから零れてしまった存在が、こんなにも大切で愛おしかったのだと、少しの時を経て、改めて突きつけられた気がした。
「ごめん、ごめんね、なまえちゃん……! あの時、僕が気を抜かなければ良かったんだ……! 僕が、手を離さなければ良かった……! 僕が、君の代わりになれば良かったんだ!」
大粒の涙がぼろぼろと溢れて、眼鏡のレンズを内側から濡らした。
大人になっても、何の衒いもなく、幼いあだ名で呼び合っていた幼なじみ。過酷なんて言葉では足りない戦争の最中でも、ずっとそばに居た大切な人。
神に許しを乞うように、正一は地面に膝を折って跪き、なまえの手を取って号哭した。懺悔した。後悔した。
もし、過去に――あの瞬間に戻れるならと、何度思っただろう。奇跡的、或いは運命的にタイムトラベルをしたというのに、その先は何もかもが崩壊を知らない世界だったなんて、とんだ皮肉だ。
なまえの手は、小さくて、柔らかくて、あたたかい。銃もナイフも、おおよそ武器と呼べる何もかもに、一切触れたことの無い手だった。
正一が物資をかき集めて埋葬した彼女の手は、皮膚が硬くて、傷だらけで、芯まで冷えきっていたのに。
戦争が、長い時間をかけて彼女から奪った少女らしさが、牙を剥く。正一は、あの戦争の中で、幼なじみに何をしてやれたのだろう。おんなではなく、兵士の顔をした、幼なじみ。銃よりも、ナイフよりも、美しい花が似合っただろう、愛しい人。
タイムトラベルなんて奇跡を叶えたくせに、あの日には戻れない。タイムトラベルはもうすぐ終わり、タイムトラベラーは帰還する。
かえりたくないと嗚咽する正一を、少しだけ困ったような顔をしたなまえが見ている。