バッドエンドのサイレンが鳴る

「ねえ、秘密の話なんだけど」

 暗い、夜だった。人工の明かりが絶えた街がこんなに暗いことを、正一はきっと、こんな事態に陥ってから初めて知った。
夜の闇は、音を吸い込むようで、響かせるようで、判然としない。

 ひそひそと口を開いたなまえの言葉を聞き取る為に、そっと肩を寄せた行為に他意は無い。肩の先が少しだけ触れたのも、決してなまえに触れたかったからではない。ただ、夜が少しだけ、彼女の言葉を怪しくするからだ。そう言い聞かせて、正一は彼女に肩も頭も寄せて、言葉の続きを促した。

「……多分ね、ここはもう、長くないよ。この国の偉い人は、物資を集めて、こっちから打って出るんだって。街の人が噂してた」
「……そうか。そんな気は、してたんだ」

 二人の故郷が戦火に呑まれたのは、どれくらい前の話だっただろうか。多分、一年は経っていないはずだ。時間の感覚が狂うほどに、この生活は苦しかった。

 白い髪の青年が、ある日唐突に宣戦布告をしてから、世界は一変した。未知の兵器を駆使する彼の軍隊は、既知の国家の兵器を蹂躙して、圧倒して、国土をも全てが荒廃した地獄に変える。今も、世界のどこかが、あの青年の手によって滅びの危機に瀕しているに違いない。そうして、努力も虚しく終わっていくのだろう。不気味な程ににこにこと笑っていた青年の手で、いとも容易く焦土と化した大国が、そうであったように。

 侵略を免れ、かろうじて生きながらえている土地を渡り歩く生活は、ある種のギャンブルに近い。宣戦布告をした時のように、ひどく唐突に気が変わった侵略者が、一秒後にこの土地を襲撃しない保証など、どこにも無いのだ。
正一となまえが、二人揃って何とか生き延びているのは、奇跡に近かった。平和ボケした極東の島国の国民性は、こういう時には致命的なデメリットに成り得るのだから。

 だが、その奇跡も、そろそろ終わる。次の奇跡に向けて動き出さなければいけない時が、近付いているようだった。

「びゃくらん、だっけ。あいつ、きっと次はこの国を標的にするよ。だって、前もそうだったでしょ。同盟国の為に兵士を派遣した国を、ぼろぼろにしちゃったし。嫌だね、正ちゃん」
「……うん、恐ろしい話だよ」

 その時は、まだ二人の故郷は戦火とは程遠くて、正一はその光景をテレビで見ていた。ニュースキャスターも、コメンテーターも、全世界を敵に回した青年のことを恐ろしいと口にしながらも、きっと侵略者をどうにか出来ると、根拠無く信じていた頃だった。

 燃えて崩れ落ちる高層ビルの映像を背景に、どこの国ならこの戦争を終わらせられる、なんて話をしていたのに、どれだけ経ってもこのザマだ。
あの楽観的なコメントをしていたニュースキャスターやコメンテーターは、まだ生きているのだろうか。テレビという機械もろくに機能しなくなって、報道という概念も麻痺しかけている現在では、それさえも分からない。

「ねえ、正ちゃん。次はどこに行こうか。私達、どこまで行けるかなあ」
「……どうだろう。次も、運良くどこかの街に流れ着けるとは限らないし……。でも、ここにいつまでも残ってたら、近い内に軍隊がやってくるのも確かで……。うう、考えるだけでお腹痛くなってくる……」
本当は、安寧の地などもはやこの地球に残されていないことなんて、誰もがうっすらと分かっている。笑顔を絶やさないまま、何の前触れも無く戦争を起こした青年は、全世界を終わりに導こうとしている。誰がどれだけ抗っても、何の脅威も無い穏やかな朝は、もう二度とやって来ない。

 分かっていても、立ち止まっていることは出来なかった。少しでも――一日でも、一秒でも長く生きる為に、本能は足を動かせと命令する。
聞こえてきた噂話を時系列順にまとめて、少しでも戦火から離れた土地を推理する正一の腕に、重みと温もりが重なる。
なまえが腕を絡めてきたらしい。呑気な声が朗らかに笑った。

「大丈夫だよ、正ちゃん。大丈夫」
何が大丈夫なんだよ、なんて食ってかかりそうになって、正一は唇を引き結んだ。
正一の幼なじみは、馬鹿ではない。全部、分かっている。この世界に平穏など存在しないことも、この時間さえも終わりに抗う些細な延命処置でしかないことも、全部全部理解していて、それでもなまえは、何も知らない愚か者のような顔をして、大丈夫と繰り返しているのだ。
そうでなければ、なまえの唇がかすかに震えている理由の説明がつかない。

「……そうだね。大丈夫だ。大丈夫だよ、なまえちゃん」
正一の脳みそが、どの口が言ってるんだ、と嘯くが、聞かなかったことにした。

 だって、大丈夫だということにしなければ、これは意味の無い延命処置だという事実を否定しなければ、どうして生きているのか分からなくなってしまう。延命処置を積み重ねた先に明日が無いことを、どうにかして否定しなければ、ここで幼なじみと一緒に最期を迎えることこそが今出来る最も幸福な行為なのではないか、なんて囁く退廃的な自分を、ふざけるなと突っぱねられなくなってしまう。

 全てに目を閉ざして、正一は笑った。夜の闇の向こう側に広がる瓦礫の山も、鉄骨がむき出しになっているコンクリートの礫も、かつてビルだったものの成れの果ても、大切な誰かを喪い啜り泣く誰かの怨嗟の声も、終焉を象徴する何もかもを見ないふりしていれば、きっと大丈夫だって、今なら言える。