きみといれるようにつくった体
大学のそばに建っている、窓の大きなカフェは、私と正一のお気に入りだった。
日当たり良好、この時期は窓辺の席がとびきり居心地が良くて、時間なんてホットコーヒーに浮かべたシュガーみたいに容易く溶けてしまう。それでいて、大学から程近いのに、表通りから逸れた立地のせいか、いつもおあつらえ向きの空席が残っている。
そして一番大事なところ。ここは、コーヒーや紅茶はもちろん、サンドウィッチやスコーンといった軽食に至るまで、お手頃価格なのにとても美味しい。
そんな素敵なカフェが、私達にとっての定番の待ち合わせ場所になるまで、それほど時間はかからなかった。
今日だって、その人は窓際の一番奥の席に座っている。カフェの外から、文庫本に視線を落としている姿を見かけてから、私はカフェのドアに手をかけた。
ドアベルが鳴る。少し古めかしい真鍮のベルは、ご自慢の金色をくすませているけれど、それもまた何とも言えず魅力的だ。
コーヒーの香りをまとった店員に、待ち合わせをしていることを簡潔に伝えて、窓際の一番奥の席に向かう。
ドアベルが鳴ったのに、文庫本から一切視線を動かさないその人は、いつも通り、大ぶりなヘッドフォンで両耳を塞いで、なんとかというバンドの曲を聴いていた。
目も耳も、全部自分の世界に没頭しているように見える彼は、それでも一応、多少は外部の世界にも意識を残しているようだ。私が向かいの席に腰を下ろせば、彼も耳から外したヘッドフォンを首にかけて、はにかんだ。
「やあ、なまえちゃん。何かあった?」
「ごめん、正一くん。用事、すぐに終わると思ってたんだけど、思いの外手間取っちゃって」
待ったかどうかなんて、分かりきったことを聞きかけて、私は口を閉ざした。正一くんの前に置かれたコーヒーカップは、もう湯気なんて立っていなかった。ただ、ひと口に足るか、足らないか程度のコーヒーが、そこに溜まっている。
それを見れば、正一くんを待たせてしまったことは明らかだ。
だというのに、正一くんは、怒ることも、私を責めることもしなかった。
「おばさん、何て?」
「割といつも通り。そっちで元気にやってるかーとか、ご飯食べてるかーとか、そういう感じ」
「あはは、うちも大体そんな感じだ。似たようなものだね」
私と正一くんは、いわゆる幼なじみというやつだ。幼い頃から家は近所、学校は同じ。漠然と、別段大きい理由も無く、正一くんと同じ学校に通うものだと信じて疑わなかった私は、アメリカの大学に行くという正一くんについて来た。
やっぱり、理由なんて無いに等しかった。私立の中学に行くのだと、正一くんがこっそり教えてくれた、小学生の頃。何年経っても、あの頃と何も変わらない動機だけを胸に、私は生まれ育った国さえも離れてしまった。それだけだ。
当然、理由の無いままに渡米する娘など、家族からすれば心配の対象でしかない。私は渡米の条件として、定期的に日本から届く手紙に、こまめに返事を書く義務を課されている。
正一くんのところも、私のように返事の郵送を交換条件や義務として課された訳ではないにせよ、似たようなものらしい。正一くんの言う『似たようなもの』が、どれほどの範囲までを指すのか、私には分からないけれど。
「もう、こんなにマメに手紙を出さなくても良いのにね。エアメールもタダじゃないのにさ」
「心配なんだよ、きっと」
「私としては、私が卒業するまでに、家族がエアメールの料金で破産しないかどうかが心配だよ」
赤と白と青。あのエアメールの模様が、まだまぶたの裏に焼き付いているみたいだ。目を閉じれば、あの色合いの残像が鮮明に浮かぶような気さえする。何を書くべきか、返事に頭を悩ませて必死に手紙を書いて、さっきやっとポストに投函したばかりなのに。
正一くんは、そんな私の表情が愉快だったようで、笑いを堪えていた。他人事みたいな顔でひとしきり笑ってから、正一くんは文庫本に栞を挟んで、テーブルの端に置く。
表紙をちらりと見てみたけれど、何とも難しそうなタイトルで、私は早々に理解を諦めた。
アメリカの大学に行くとか言い出した時には、とっくに分かっていたことだけど、正一くんは頭が良い。高校の頃には、既にロボットコンクールに出場とかしていたんだし、今更か。
異国の地に、二人きり。私と正一くんは、そんな関係であるはずなのに。日が進むごとに、同じ国で生まれて同じ大学に通っているという事実を残して、共通点がぼろぼろと崩れていく気がした。
もしかしたら、私達の共通点なんて、元々その程度のことだったのかもしれない。なんて、思いたくもないけど。
正一くんは、すっかり冷めきった、残りひと口分のコーヒーを飲み干して、新しいコーヒーを注文する。私も、正一くんに倣ってホットコーヒーを注文した。
本当は、コーヒーより紅茶が好きだけど。ホットコーヒーより、アイスコーヒーが好きだけど。少しでも共通点を残していないと、私達本当に、誰にも手の施しようがないくらいバラバラになって、空中分解してしまいそうな気がしたから、少しだけ背伸びをする。
恋人でも何でもない、ただの幼なじみに、空中分解もへったくれも無いけど。
コーヒーのお供に、チョコチップ入りのスコーンも注文すれば、正一くんが笑った。
「なまえちゃん、相変わらず、甘いものが好きだね」
相変わらず。その言葉に、どれだけ私が救われているか、正一くんは知らないんだろう。
私と正一くんが幼なじみで、お互いにその事実を認識して、共有している間は、私も正一くんの側に居て良いような、そんな錯覚を覚えるなんて。きっと、何も知らないんだ。
「……うん。変わらないでしょ」
不変を望んでいる訳じゃない。ただ、もう少しだけ、あと少しだけ、幼なじみで居たいだけ。
私は、日本に居た時から、相変わらずだから。正一くんも、私の幼なじみの席から、行かないで。
そんなわがままは、火傷しそうなほど熱いホットコーヒーで飲み干した。