PM20:45
数ヶ月振りにクロスベルにあるアパルトメントの自室に帰ってきたフランがしたのは大掃除だった。
クロスベルが帝国属州になってからは情報局に睨まれていたため自室に寄らなかったし、《黒キ星杯》が出現して《黄昏》が始まってからはノーザンブリアで身を隠しつつオリヴァルトと合流を図っていたし、大戦終決後は戦後処理や帝国各地で燻る小競り合いの事態収集などでクロスベルそのものに帰ってなかったりして居なかったのだ。数ヶ月の沈黙を守った自室は埃が積もり、長年扉を開けなかった部屋のような臭いがする。再独立調印式を控えた今日、ようやく──本当にようやく休暇を得られたフランは丸一日を部屋の掃除に当てていた。窓を開けて空気を入れ替え、床や棚を掃いては拭き、趣味で集めているアンティークやガラス製品の小物は細心の注意を払いながら手入れをする。
そうして日がとっぷりと暮れた頃。最後の小物を綺麗に拭き上げたフランは疲れたように息を吐きながら大きく伸びをし、体をほぐした。長時間同じ姿勢で作業をしていたからか全身がバキバキと音を立てる。時計を見れば二十時を過ぎたころで。時間を認知した途端、ぐうと腹が抗議の音を立ててフランは腹に手を当てた。そういえば昼食を摂ってから大分時間が経っている。どうせ料理をしている暇もないだろうと踏んで食材は買わずにいたが、この時間を見るに正解だったようだ。ヴァンセットで夕食を摂ろうかと考えたとき、机に置いておいたARCUSUが鳴った。着信を知らせる音だ。前に比べたら幾分かマシになった手付きで操作し、フランは着信に出る。
「もしもし、カストールだが」
『よぉ、フラン』
「ランディ!」
『そんなに驚くことかよ、着信の時に名前出るだろ?』
「む……そうなのか……」
通話越しに聞こえる楽しげな声にフランは唇を尖らせつつ、一旦ARCUSUを耳元から離して画面を見やる。そこには確かに『ランディ・オルランド』の文字が映っていた。
マシになったと言えど、フランが機械操作に疎いことは代わりはない。ARCUSがバージョンアップされて新機能が追加される度、フランは画面を睨みながら覚束ない指運びで操作をして覚えようとする。彼女にとって機械は、上位三属性が作用している場で起こる不可思議な出来事よりも難解だ。
ごほん、と咳払いしたフランはARCUSUをもう一度耳に当てる。
「それで、ランディ。どうしたんだ?」
『今日お前が休暇を取るって聞いてな。晩飯でもどうかと思って連絡してみたんだが……』
「い、行く!」
一にも二にもない返事。また通話越しに笑う声がするが、なんせ数ヶ月振りのランディとの食事なのだ。嬉しくない筈がない。
「じゃあ迎えに行くわ」とランディが通信を切り、フランは慌てて埃塗れの服を着替えて身支度を整える。玄関に掛けておいたコートを羽織りながら部屋を出、足早に階段を降りればアパルトメントを出たところで愛しい姿が見えた。ひらりと手を振るランディのところへ駆け足気味に向かう。
「で、何か要望はあるか?」
「君とならどこでも良いぞ」
「……なんつー殺し文句だ。んじゃ、港湾区に最近出来たっつう屋台に行ってみるか」
「ああ、ならそこで」
二人で並んで歩き出す。厳しさが衰えたもののまだ三月上旬の夜は寒く、コートのポケットに手を突っ込みながら港湾区を目指す。
港湾区に入り、目当ての屋台を探す。その最中でフランが「おお」と感嘆の声を上げ、湖の方に目をやった。つられてランディも立ち止まってフランを見やる。
「煌々としているから光が此処まで届くな、ミシュラムは」
「なんつーか、あれを見るとクロスベルに帰ってきたって感じがするよな」
「全くだ。……たった数ヶ月前だというのに懐かしく思えてしまうな、あそこで壮行会をしたのが」
目を細め、懐かしそうに呟く。
思い返せば、激動の二年と数ヶ月だったように思えた。世界が崩壊しかねない大戦や結社の思惑があり、意志を一つにした者たちでこれを退けた。大変だった、と呟くのは簡単で。
しかし──懐かしいと思えるのも、大変だったと言葉に出来るのも、それは全てが解決して、クロスベルも再独立出来るからだろう。厳しい冬の寒さに襲われていたクロスベルに、ようやく春がやってくる。
「フラン」
呼ばれてフランがランディに向き直る。目に写ったのはいつになく真剣な表情をしているランディで。
少し視線を彷徨わせ、頭を掻いたランディは口を開く。
「……本当は飯食ってからにしようと思ってたんだが、いま言うことにする」
「あ、ああ……どうぞ?」
「調印式が終わったら、お前に伝えたいことがある」
真剣な眼差しで見つめられる。暫しランディの青緑色の瞳をじっと見返していたフランだったが、ややあってからかうように肩を竦めてみせる。
「おや、ひょっとして私に愛想が尽きてしまったかな? この仕事人め! と」
「んなわけねぇだろ!」
「ははは」
盛大にツッコまれ、肩を揺らして笑う。
ひとしきり笑って息を吐き、フランは柔和な笑みを浮かべる。
「……待っているよ」
「……おう」
恥ずかしさが今更になって湧き上がってきて、髪をガシガシと掻いたランディは歩き出す。その隣を歩きながらフランは自身の髪に触れた。
「いい機会だ、私も髪を切るか」
「はぁ!? 切っちまうのか!? 勿体ねぇ!」
太ももに届くほど長い銀髪。忙しい遊撃士生活の中でもフランが手入れを怠っていないのは彼女の髪に触れる度理解していたし、この長さにするまでの年月を考えれば、こんなにもあっさりとした物言いで「髪を切る」と言われて驚かない方が無理だろう。口ぶりから少しだけ切るわけでもなさそうだ。バッサリいく予感しかない。
「まあ、元々は猟兵団時代に短髪だったから、気持ちを変えるために伸ばしていただけだからな。君のお陰で乗り越えられた今、昔のような短髪になることに抵抗は抱かないさ」
にこりと笑われる。この恋人、どう言えばこちらが照れるか分かっていてわざとこういう言い回しをする時がある。まあ、その分きちんと仕返しはするのだが。
目当ての屋台は近い。歩きながらフランははあ、と息を吐いた。
白い息も、近くなった春の温度に解けゆくだろう。