黎明のブーケ
真っ白なリノリウムの床を歩く度、手の内にある花束がカサカサと音を立てて揺れる。パステル調の淡い紙に包まれた花は、その紙に合う淡い色をした花々で。これを部屋に飾る本人は淡い色合いの花よりグランローズのような鮮烈で香りの強い花が似合うのだが、場所が場所なだけに持ってくるのが躊躇われたのだ。まあ、それは別の機会に取っておこう。
顔なじみとなったナースたちに軽く挨拶をし、ランディは廊下を抜け、病棟を抜け、テラスから特別病棟へと向かう。特に難なく入館出来たランディは目当ての病室に向かう傍ら、取り留めの無い思考に耽る。
「あいつ」のことだ。ずっとベッドに寝たきりの生活に、そろそろ辟易してきてるに違いない。次は文庫本を何冊か差し入れしようか。退院祝いは何処の店にしようかなんて考えていると、目的の病室はすぐそこまで来ていた。
ドアノブに手を掛け、横にスライドさせる。窓を開けていたのだろう、春の匂いを含んだ柔らかな風がふわりと抜けていく。まあ此処から見える景色を眺めるのも悪くないよなと考えて――ランディは室内の様子を見てピタリと固まった。
居ない。部屋の主が。
「おいおい、何処に行ったんだよ……!」
持ってきた花束をキャビネットに置き、本当に居ないのか室内をぐるりと見回すが、当然ながら姿かたちも見当たらない。もしやと思ってベッドの表面に触れてみれば、人肌を失ったひやりとした感触が返ってきた。……どうやら部屋を離れてからそれなりの時間が経っているらしい。
どうしたもんか、とランディは頭を掻く。幾らアーツで治療して手術で傷を塞いだとしても絶対安静の重傷患者の筈だ。よくもまあ動けたなと逆に感心せざるを得ない。
ランディが通って来たルートで外に出たとするならば、途中でナースがそのことに触れた筈だ。そもそも外出を咎めていたかもしれない。だから、ナースに見咎められずに外に出たとするならば――
開けっ放しになっている窓へ歩み寄り、縁に手を掛けながら下方へ視線を落とす。それなりに高さがあるが、彼女の身体能力を考えれば壁の要所要所にある凹凸を足場にして降りられるだろう。そうしてテラスに降り立ち、オーベルジュ《レクチェ》を経由すれば、ナースに見つからず外に出られるという寸法だ。
取り敢えず部屋を出、階下へ向かっていく。正面玄関を出て中庭へ出たランディは近くを散策する。室内に籠もりきりだから外に出ているであろう、という推測だ。
ざっと視線を向けた限り、目に見える範囲に彼女の姿は見えない。パジャマ姿で談笑している子供たちやナースに車いすを押されている老婆、《レクチェ》でテイクアウトしたものを頬張っている青年。平和な風景がそこにある。
……この平和は自分たちが、クロスベル市民全員が掴んで勝ち取った平和だ。それを少し目を細めて見、ランディは歩き始める。
少し歩いた先。病院横を流れる川の側にその姿はあった。寝巻きにカーディガンを羽織っただけのその人は、何やら年若い男女たちと談笑の花を咲かせているらしい。こちらの接近に気付かない程度には没頭している様子だ。
「へえ〜〜、すげえ! それでどうなったんスか?」
「ふふ、気になるだろう? そこで颯爽と登場した私はだな――」
背後に歩み寄り、ぽん、とその肩に手を置く。
「何で絶対安静の重傷患者が、こんなとこほっつき歩いてるんだろうなあ?」
「はっはっは」
「おいこら」
流れるような動作で肩に置かれた手を外し、何食わぬ顔で立ち去ろうとしたその人――フランの腕をがっちりと掴んで捕まえれば、肩越しに振り返った不満そうな顔を目が合う。
「分かるか? ずっと寝たきりは飽きるんだぞ」
「そりゃ分かるが、腹に穴空いたんだから大人しくしてろって。退院が伸びるだろうが」
「む……」
「っつーワケで、こいつは貰って行くぜ。悪ぃな」
フランを引き寄せて肩を抱けば、青年たちは残念そうにしながらも了承してくれた。
「まあ、仕方ないッスよね。お大事に!」
「またお話聞かせてください!」
二人と別れ、部屋へ戻るべく並んで歩を進める。普通に歩く分には問題がなさそうなほどには怪我が良くなっているように見えるが、それでも僅かに右側――傷を負った脇腹がある方を庇うような足取りだ。無意識なのか歩く度に皮膚が引き攣るのか、脇腹に手を添えている。
……歩調を緩める。その配慮に気付いたのだろう。フランが苦笑交じりに小さく笑った。
「具合はどうだ?」
「まあ、歩けるくらいには回復したな。まだ刀を振るうのは難しそうだが。もうそろそろ退院出来そうとは言われたが、当分は簡単な依頼しか出来ないだろうな」
「ま、長期休暇だと思ってのんびりしとけよ。また忙しくなるんだろ?」
「そうなんだよなあ……共和国の方であまり良い話を聞かないから、状況次第では私も駆り出される可能性があるからな……」
共和国では新興マフィアが幅を利かせ始めているとジンから噂程度に聞いたことがある。今でさえ反移民主義がテロを起こしていたりするのだ。今は小さな火の粉であっても、いつ火花が散って大火となり、共和国を飲み込むか分からない。
長いようで短い休暇になりそうだ。困ったように息を吐き、フランは空を見上げた。何処かに植えられているのであろうライノの花びらが風に乗り、ひらひらと飛んでいる。
「ああ……春が近いな」
もう訪れた、と言っても過言ではないだろう。時期としても、クロスベルが再独立をして長い冬が明けたという意味でも。もう厳しい冬の中、耐え忍ぶ必要はなくなったのだ。
「フランが退院したら、支援課のビルで退院祝いのパーティーしたいってキー坊が言ってたぜ。腕によりをかけて料理するから期待してろってよ」
「はは、それは早く治して退院しないとな」
そんな話をしていればフランの部屋が見えてきて。扉を開けてやれば大人しく入り、ベッドに腰掛ける。
ランディは置きっぱなしだった花束を手に取ると包装紙を解いて花瓶の枯れかけた花と交換し、それらをゴミ箱へと捨てる。そうして「あ」と何か思い出した様子のランディはおもむろに上着ポケットを探り出した。その様子を何となくフランは見つめる。
「お、あった」
「何だ、タバコでも始めたのかね」
「違ぇよ。本当はお前が退院したらっつーか……再独立の日に渡したかったんだけどな」
その日はランディは支援課としての活動で忙しかったし、フランは手術でほぼ寝ていたも同然だった。本当ならばフランも遊撃士として調印式に臨んでいた筈だったのに。仕方なくラジオで調印式の様子を聞いていたのは記憶に新しい。
一体何を渡したかったのか。じっと待っていれば、いよいよランディは『それ』をポケットから取り出した。
フランが息を呑む。だってそれは――
ランディがフランの側まで歩み寄り、片膝をつく。小さな箱から取り出した銀の輪を、フランの左薬指に静かに嵌める。その銀の輪には青緑の小さな宝石が埋め込まれていて。フランの好きな色だ。
ランディが見上げる。
「俺と結婚してくれるか? フラン」
「…………っ」
嬉しさと気恥ずかしさと、色んな感情が混ざって喉元に込み上げて来る。熱くなる目頭を隠すようにフランは僅かに俯いた。
「もっと、こう……シチュエーションとかあっただろう! こんな……私は入院着だし、此処は病室だし! 普通はレストランとか景色の良いとこで言うだろう!?」
「ハハ、お前が怪我してなかったらな」
「むう……」
そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
フランが唸っていれば「それで、」とランディが笑う。
「返事、聞かせてくれねぇか?」
そんなもの、聞かなくても分かっているだろうに。
ランディの手を取り、フランは微笑む。
「私も、君と一緒になりたい。これからも、君の悲しみや苦しみ、幸せを少しでも分かち合わせてほしいんだ」