月の海に飛び込んだ代償


夕陽の差す木造の教室。そこに一人の女性が教卓の前で佇んでいた。
腰よりも下まで伸ばした白緑の髪。鮮紅色の目は窓の外に向けられていて。着ている礼装は何処か拘束具のように見える。ぼんやりとした顔つきで窓の外の夕焼けに映える桜を眺めている『魔術師』の英霊は、扉一枚隔てた先の廊下でパタパタと慌ただしい足音が聞こえてくるとやおら視線を移した。足音は次第に大きくなり、彼女の居る教室の前で止まると盛大な扉のスライド音と共に足音の主は姿を現した。
緑髪を肩の位置で揃え、旧式の濃紺のセーラー服を身に纏っている少女が開け放った扉に手を置きつつぜえはあと息を整えている。どうやら何処かから全力で走ってきたらしい。少女は喋れる程度まで息を整えると魔術師の元まで歩み寄り、恐る恐ると言った体で声を掛ける。

「ええと……キャスター、で、合ってる……よね?」

対してキャスターと呼ばれた女性は静かに頷く。

「ええ、私は此度の聖杯戦争にてキャスターで召喚された英霊です。マスター、冷泉院桐茴で相違無いありませんか?」

「え、うん、合ってるけど……」

じ、とキャスターを見つめる桐茴。まさか『バレて』しまったのかと背中に冷や汗が伝うが勤めて冷静な声でキャスターは返す。

「マスター、何か?」

「いや、何かおかしいって言うか……んん?あれっ……?」

目を瞑り、眉間に皺を寄せる。暫く唸ってた桐茴は「嘘でしょ」「本当に?」とブツブツ呟いた後に目を開いてキャスターを見た。その表情は『有り得ない』と言いたげで。

「キャスター、あんた……どうしてスキルが初期値に戻ってるの?」

しまった。マスターがサーヴァントのステータスを閲覧出来る事を失念していた。観念したようにため息を吐くと桐茴が「やっぱり」と呟く。

「……さっき、桜から聞いたよ。岸波のアーチャーと同じように無理やり月の表側から月の裏側こっちに来たって。岸波のアーチャーはその弊害で記憶に欠落がでるしステータスも初期値になってるんだって。まあハーウェイのガウェインはほぼ無事だったらしいけどねー」

チッと舌打ちをしつつ桐茴は説明をする。そして腕を組むとキャスターをじろりと睨めつけた。

「どっから記憶がないのかちゃんと説明して、キャスター」

どうやって話そうか、どこから説明すべきだろうかと悩んだ末、キャスターはゆっくりと口を開いた。

「……月の裏側で目を覚ました時、私の持つ記憶は私自身のクラスと初期に戻ったステータス、それとマスターの名前、私が貴方を助けるべく月の裏側に身を投じた……しかありませんでした」

口元に手を置き、厳しい表情をする桐茴。

「って事は……ほぼ記憶無いって事じゃん!?馬鹿!キャスターの馬鹿!!どうして真っ先にそれ言わなかったの!!」

「す、すみません……マスターに余計な、」

「心配はさせたくないって!?ほんっとに馬鹿!何の為のマスターとサーヴァントの関係なんだか!!」

ビシッ!とキャスターに立てた人差し指を突きつける。

「わたしだってキャスターの事すっごく心配したんだからね!あんたまで月の裏側に無理やり来たって聞いた時は血の気が引いたもん!だから!!」

突き出していた手を開く。

「わたしに心配掛けたくないってんなら遠慮なんてしないで直ぐに相談して!記憶が無いなら一緒に取り戻せば良い、ステータスが初期化されたんなら二人でまた鍛えれば良い!茨の道上等!!」

ああ、とキャスターは思う。
そうだ、彼女はどこまでもひたむきで、めげるとか諦めるなんて単語を知らなくて―――どんな苦難や困難が立ちはだかっても仲間と手を取り合い、正面からぶつかっていく人だ。
記憶がほぼ欠落しているので確証が無いが、自分はそういったモノを何割かは『捨ててしまっている』。だから彼女に一抹の眩しさを覚えながらもキャスターは差し出されている手を取り、握った。

「ええ、マスター。必ず記憶を取り戻し、月の表側へ戻りましょう。貴方を必ず、熾天の座へ」

暗く、深い月の海に飛び込んだ代償。それは大きかったと言えるかも知れないが、大事なモノを守れたのならばそんな代償、瑣末なモノだと笑い飛ばせるだろう。
ALICE+