遠くの上空から、破壊音が聞こえる。今日も今日とてヒーロー達は大活躍のようだ。視線を進行方向へと戻し、私は独り寂しくブロンズの路地を歩く。
トレーニングを終えた虎徹さんが、今日は宅飲みだ! と意気込んで、誘われたみんなと虎徹さんの家へ向かっていたのだが、まあ、見事にみんなの腕のPDAがけたたましく鳴ったので、ご覧の通り私は独りになったのだった。
待ってるから、と申し訳なさそうに出動するみんなを見送り、預かった鍵を握りしめて虎徹さんの家へ向かっていた。

「私もヒーローだったらなあ」

ぼそり、と呟き小石を蹴った。
――にゃあ
小石が転がっていった方向から可愛らしい鳴き声が聞こえ首を捻ると、黒い猫が爛々とした瞳をこちらへ投げてきた。

「わあ……おいで〜、あっ! 逃げないで」

身を翻した黒猫をついつい追ってしまって、私は暗い路地裏へと吸い込まれていったのだ。
カツカツっとコンクリートを打つヒールを忌々しく思い、そろりそろりと早足を崩さずに黒猫の姿を追った。あー、鞄に何か入ってないかな、釣れそうなの。なんて、呑気に考えながら路地の奥に目を凝らした。そして目に入ったのは黒猫ではなく、黒い人影で……それはよく知っている人物のように見えた。あり得ない! と脳が叫ぶのに反して声が紡いだ。

「虎徹さん……?」

声にしてから、ないない、それはない! と緩く頭を振った。だって、彼は今、ヒーローやってますもん。こんなところにスーツも着ずに居るわけがない。

「誰? こんな所で、何をしてるんですか?」

先程呼んだ名前を誤魔化すように、暗がりに話しかけた。質問してから、自分も何してるんだろう……と思い至る。なんだか恥ずかしくなってきた、と奥歯を噛み締めると、暗闇が動き――

「どーも、虎徹でぇす」
「えっ……なんで?」

あり得ないと思ったその人物が現れ、此方へ歩み寄ってきた。現状が理解できなくて、私は動けなかった。あ……赤い。目が、あか――そう思った一瞬、反転して真っ白になった。

「んー? 初めて使ったけど、ホントに効くんだなあコレ」

その男は右手のそれを掲げ、バチバチと鳴らした。視線を倒れて痙攣している名無子に落とし、良いことを思いついたとばかりに口角を上げ、痛烈な音を立てるそれを名無子へ近づけた。

「――ッが、ああ!!」

何が起こったのか全く分からなかった。ただ、ただ、痛くて痺れて。もはや身体は私の言うことを聞かなかった。

「痺れるくらい良い男! なんつって?」

くつくつ笑う虎徹さんの声が聞こえて、なんでこんな事をするのか聞きたいのに、でも、また痛みと痺れてが重なってきて、されるがまま、どうにもできなかった。

「ちょっと! 何をしてるんですか!?」

乱入した別の声に、ぼんやりとする脳はバーナビーだと言った。助けに来てくれたのかな、何が起きてるのかな、虚ろう視界に映ったのはいつもの金髪だけども、黒い影で。近づくにつれ、その瞳の色に脳が染まる。――赤い、目。

「やっと手に入れたのに、簡単に壊さないでください」

つまらない事しないで、そう言い放った言葉が耳鳴りとともに脳髄に響き、私はぎりぎりで保っていた意識を手放した。



 ◇



酷く身体が軋む。
頭痛と共に瞼を上げると、そこは薄暗く、ぼんやりとコンクリートの天井が見えた。どこだろう、ここ。記憶が揺らいで、赤い目が思い出された。はっとして周りを見渡すと、そこにはソファに凭れて眠る虎徹さんの姿があった。
呼吸が荒くなる。
思い出される記憶は意味が分からないのに、酒の空き瓶が散らばる床に目をやり、ああ、虎徹さんだなあと安堵してしまう。呼吸を落ち着けて、ゆっくりと身体を起こした。冷たいコンクリートの床にストッキングの足を着き、そっとソファへと近づいた。
どう見ても虎徹さんだと思いつつ、もっとよく確かめようと私は膝を床につき、顔を覗き込もうと顔を近づけた。
――ガッ!
声も出なかった。瞬間、喉元が圧迫された感覚と、虎徹さんの赤い双眸に貫かれた。

「だっ!? お前かよ! 気配消して俺に近づくな。噛み殺しちまうぞっ」

投げ捨てるように喉元から手を離され、私はゲホゲホッと嘔吐いた。
涙とともに、怖いという感情が溢れた。知らない誰かじゃあない、虎徹さんだから、理解できなくて恐ろしかった。

「……あー、悪かった。泣くな。俺がバニーちゃんに怒られるんだって」
「あんた……誰、なの?」

嗚咽が出そうになるのを抑えてそう問えば、バツの悪そうな表情が消え、冷ややかに見下された。

「鏑木虎徹の偽物。ほら、答えたんだから泣き止めよ、な?」

しゃがみこんで、言葉が理解できていないでいる私の頬の涙を指で拭い、いつもみたいに困った顔で頭にぽんっと手を落としてきた。そのまま撫でられる感触にさらに涙を滲ませていると、扉が開く音がして、ヤベッ! と虎徹さんが慌てた様子で手を引っ込めた。

「また貴方は……今度は何をしたんですか?」

聞き馴染みのある声に、私はどうしようもない既視感を覚えた。黒のスーツに赤のシャツを身に纏い、紙袋を抱えてこちらへ冷たい視線を向ける、よく見知った人物。と同じ外見の誰か。
――偽物とは一体?

「身体の調子はどうですか? どこか動かない所などありませんか?」
「……だ、大丈夫」

意外にもかけられた言葉は私の身体を労るもので、混乱に拍車がかかった。

「良かった。貴方には僕たちのために働いてもらわないといけないので」
「え?」

働くって? なに? 声にならなくて、見つめた先のバーナビーはニコッと笑った。

「二人とも、お腹減ってますよね? よかったら、食べてください」
「おっ! さっすが! バニーちゃんったら気がきくなあ」

テーブルに置いた紙袋に早速手を伸ばした虎徹さんの手を叩いて、レディーファーストです、と私を見やった。確かに、お腹は減っている。今は何時だろう。みんなはどうしてるんだろう。そう思った瞬間、無機質な電子音が部屋に鳴り響き、弾かれるように私は部屋を見回した。ベッドの横に自分のバッグを見つけ、慌てて立ち上がろうとしたが肩に重量を感じ脚が軋んだ。見上げると虎徹さんが動くな、と肩を抑えた手に力を込めてきた。

「――あ、あ、返して……お願い」

バッグへ視線を戻すとバーナビーがすでに手にしていて、中から鳴り響く携帯電話を取り出した。パチンッと開いた携帯画面をこちらへ向けてきて、それが虎徹さんからだと分かった。

「貴女の運命は二択用意されています」

携帯画面の後ろで赤い目が細まった。

「……なに」
「一つ目、貴女の能力を僕たちのために使い僕たちと行動を共にする。二つ目は、僕たちに協力することを拒否して死ぬ」

鳴り止まぬ携帯は留守電設定を切ったままにしているからか。その音が、焦りを募らせる。提示された選択肢はどちらも自分にとってメリットなどなく、選ぶことは困難だった。

「できれば一個目選んで欲しーなあ、名無子ちゃん。まあ、二個目選んじゃったら俺が綺麗に殺してやるよ。あー……うん、二個目でもいいな」

耳元で、今一番聞きたいはずの人の声が恐ろしい言葉を発して、寒気に唇を噛みしめた。

「ああ、ちなみに二つ目を選んだ場合、貴女自身だけでなく……この方達も死にますので」

ポケットから徐ろに取り出したのは写真で、それは久しぶりに見る家族だった。そう認識すると同時にサァーッと血の気が引き、選択肢など端から用意されてなかったのだと、湧き上がる悲憤で目の前がぐらぐらと揺れた。

「バニーも、ほんっと酷いやつだな」

横で楽しそうに笑う彼も、私には絶望の調味料でしかない。口の中が苦かった。

「さあ、名無子さん――答えを」
「……っ、ひとつめ」

「良い子です」
「良い子だ」

二つの声が重なったと同時に携帯電話は音を消し、静寂が訪れて私は息を止めた。

「――ウロ、ボロスッ……!?」

ぞわっと総毛立った。
なぜ今まで気がつかなかったのか、手の甲に浮かぶ紋様はバーナビーの追っている彼の両親の仇、その組織のものであった。

「遅いな」
「さっきまで手袋で隠してたくせに。意地悪だな、バニー」

そう言った虎徹さんの手の甲にも蛇がいた。じわりじわりと毛穴から汗が滲み出し、私は声のようなものを出した気がするが、わずかに空気が動いただけだった。

「そんな顔すんなって。タトゥーの場所は見えないところでもいいからさ」

襟足のとこはどうだ? なんて言いながら、私の髪をさらさらと掻き上げる虎徹さんにも反応できず、私はゆっくり目を瞑った。




It's a nightmare entrance.

(目を明けたらこんなの、馬鹿げた夢だったって笑えますように)