どんより暗転した空を硝子越しに睨み付ける。
気だるい午後の授業。私は教師の退屈な身の上話などに興味はなくて、確実に雨が降るだろう事を思い、今朝の母の言葉を無視した自分を悔やんだ。
これでは、せっかく学校が早く終わっても彼の家には行けないかもしれない。私はずぶ濡れたって構わないし、むしろ彼に会えるのなら歓迎したって良いくらいだけれど、彼はずぶ濡れてやって来た私を不快感露わに睨むだろう。最悪、家の中に入れてくれないかもしれない。
ぽつり、ぽつりと――ああ、私の幸せを奪う雨が降ってきちゃった。

帰りの時間にはどしゃ降りだった。
昇降口に立ち尽くす私の横を、次々と傘をさして下校していく生徒たち。色とりどりの傘の大群が雨に霞んでいく様子を眺める。止む気など更々ないとばかりに顔に振り掛ける雨を拭い、盛大に溜め息を吐いた。

「名無子? 傘忘れたのかよォ?」
「仗助……」

相変わらずのリーゼント頭の幼なじみに、浮かない表情を向ける。
仗助も、後ろにいた億泰と康一くんも、当然のように傘を持っていた。それほど確実な降水率だったのね。私は羨ましげにその傘たちを見つめる。その様子から悟ったらしい仗助が、「馬鹿だな〜」と笑ったので鞄で殴ってやった。
康一くんが傘に入れてくれると言ってくれたけど、後々が怖いのでお断りした。でも濡れて帰るのも何だしと、結局、仗助の傘に入れてもらう事にした。億泰の傘は何故か穴が空いていた。本人曰く、お父さんが開けたらしい。私が入るとどちらかが水漏れに冷たい思いをしなければならないので、そこは遠慮しておいた。
体付きの良い仗助のせいで、大分、歩きづらかったけれど、ずぶ濡れは免れた。
「肩が濡れるんだけど」と仗助に文句を言っていると、康一くんが、「あれ? 露伴先生じゃない?」と指を指したのでその方向を見る。確かに、仗助に負けず劣らずの特徴的な髪型をした彼を見つけた。
こんな雨の日に何してるんだろうと思っていると、仗助が私を小突いてニヤニヤするから(億泰と康一くんまで)、私はまた鞄で殴る。避けられた。もの凄く悔しかったけれど今は露伴先生だ。
雨のフィルター越しに露伴先生を見ると、誰かと話をしているみたい。すっと影から出てきたのは女性で、何やら言葉を交わしてから二人は車に乗り込み、目の前を走り去っていった。

「女だったぜ! 名無子、浮気されてんじゃねーの?」

気を使うってのがわからないらしい億泰に、康一くんが慌てて服を引っ張り、仗助は軽く殴った。億泰はやっと自分の言葉が軽率だったことに気付き、三人で何とかフォローしようと言葉をかけてきたけれど、完全な手遅れ。今の気分といえば、澱んだこの空のように沈んでひどいものに変わってしまっていた。
心配する彼らに、「大丈夫だから」と繰り返し言う。用事を思い出した、とばればれの嘘を言い引き止める彼らと別れた。
私は暫く雨宿りをしながらぼーっと考え、いい加減、晴れない心に嫌気がさして雨の中を走り出した。

体中から水滴を滴らせ、玄関口には大きな水溜りが出来る。
目の前のドアを見つめながら横の玄関チャイムを連打すると乱暴にドアが開かれ、不愉快極まりないとばかりに眉間に皺を寄せた露伴先生が顔を出した。

「何なんだよ君は!? チャイムは一回で十分だろ! そもそもこの雨の中傘も差さないなんておかしいぜ。そんなびしょ濡れで、何の用だよ」

予想していた文句を受けて、私は何だか惨めな気分になった。というか何しに来たのか、さっきの女性のことを問いただす? きっとうざったく思われる。それでもこの気持ちのままは耐えられない、だから此処に来たんだ。
今の自分の格好の酷さなど忘れて、思いに俯く。

「おい! まったく……さっさと入れよ。風邪引くだろう」

大きく開かれた玄関にゆっくりと泥だらけの足を踏み入れた。
文句を申ねる露伴先生に、風呂に入れと浴室に押し込められた。多分、入ろうとしていたんだろう。既に沸いていた湯船に浸かり、私は冷えた体を温めた。
用意されていた服を着たけれど、やっぱりぶかぶかだったからちょっと笑ってしまう。乾燥機に入れられた制服は皺だらけになるだろうな、と思いながらリビングに向かうと、新聞を読む露伴先生がいた。

「君のせいで仕事が遅れたよ、どうしてくれるんだい?」

私に気づき新聞を畳みながら睨まれた。

「それは……すいません」
「君が素直に謝るなんて、気持ち悪いな」

ひどいと思う。気持ち悪いとか。でも確かに、この口から謝罪が一番に出てくるなんてその通りかもしれない。私は今、ちょっと弱気みたいだ。
「それで?」と露伴先生が立ち上がって言う。「え?」 何が? 私は意味を図りかねて間抜けな顔を向ける。

「だから! 雨に濡れてまで家へ来て、何の用だったのかって聞いてるんだ」

私を通り抜けてキッチンへ向かう露伴先生に怒鳴られてしまった。

「あぁ……えっと、」

言い澱んだ私を一瞥して、露伴先生は何やらお茶の準備をしているようだった。早く言わないとまた嫌みを言われてしまうと焦るけれども、その理由を口にすることは気持ち的に容易なことではない。
そうこうしている内に、露伴先生がカップの乗ったお盆を持ってこちらへ戻ってきてしまった。
テーブルにお盆を置くと丁寧に紅茶を注ぎ分けていき、漂ってきた甘い香りからアップルティーだと分かる。それはこの家にコーヒーと煎茶しかなかったから私が買ってきたものだった。
「ずっとそこに突っ立ってるつもりなのか?」と呆れたような顔で言われ、意味もなく慌てる。
溜め息を吐かれた。「座れよ」
ずり落ちそうなズボンを掴み裾を引きずりながら椅子へと歩み寄り、彼の前の席へ静かに腰を下ろした。
露伴先生がすっと私の前にカップを移動させる。「ありがとう」と言えば、「フン」と鼻をならされた。可愛げがないわ。
頻りに息を吹きかけて飲み頃になるのを待つが前方が気になってならない。見られている、痛い程の視線を感じる。
カップに口を付けると熱くて、仕方なくテーブルに戻した。視線はカップから動けず。沈黙が気まずい。

「雨、すごいですねー……」

苦し紛れにそう言ってちらりと顔色を伺い、後悔した。ばっちり目が合う。誤魔化すな、と先程の理由を促す視線に思わず目を反らしてしまった。

「家にきた理由をまだ聞いてないんだが、ここまでしてやった僕に、まさか! 言えないなんてことは無いよな?」

まったく自分のする事は後悔ばかりだと思う。そもそも朝、傘を忘れたことが全ての後悔の始まりだったんだ。
もう一度紅茶を口に含もうとするけれど、やっぱりまだ熱い。舌が痛くて涙が出てくる。
カップを置いた私は小さく息を吐き理由もとい、目的を実行することにした。

「露伴先生さ、」

じわりと心臓を掴れたような軟い痛みがぶり返される。痛いのか、気持ち悪いのか、はっきりしない。
「今日車に乗せてた女の人、誰ですか?」と感情を抑えて言ったけれど、自分ではうまく抑えられたか判断がつかなかった。

「女? ああ、見てたのか?」
「……うん、誰? あの人」

異常に焦る気持ちに、何故なのか訳がわからず少し困惑する。
早く。あの女性が誰なのか、どんな関係なのか、教えて欲しい。安心させて欲しい。何に対しての安心を求めてるの、この不安は何なのよ。愈々、私の頭は混乱の極みに達した。

「君は、嫉妬してるのか?」
「……え?」

「嫉妬」、その単語が頭をぐるぐると回って、理解した。この気持ちは「嫉妬」なのだと。私は、露伴先生と話していた見ず知らずの女性に嫉妬したのだ。
途端に熱が顔へと集まり、ひどく浅ましい自分に羞恥心が込み上げた。自己分析も出来ないほど私は倒錯していたのだろうか。

「顔が真っ赤だぜ?」

露伴先生は面白がっている様子を隠そうともしない笑みを浮かべる。

「っ分かってるよ! 分かってる……ただのヤキモチだった」
「ヤキモチねぇ、君が子供な証拠じゃあないか」

くすくすと小さく笑い声まで上げるもんだから、むきになってしまう。

「大人だってヤキモチくらい妬くでしょ! それとも先生は私が他の男と一緒にいてもまったく何も感じないとでも!?」

墓穴を掘ったかもしれない、反駁した私の鼓動が増した。
肯定されでもしたら私はどうすればいいのか。途端に恐ろしくなったが訊いてしまったものはどうしようもなくて、悠長に紅茶をすする露伴先生の言葉を待った。

「確かに大人でも妬くことはあるだろうさ。だが僕は違うね」

カップを置いて私に向き合い静かに言う。

「いいかい? 嫉妬とは、自信の無さと向上心の欠如なんだ。僕は君に好かれている自信はあるし、君の一番であるようそれなりに努力をしている。従って僕が、他の男に嫉妬するなんてことはないんだよ」


なんて人だろうか。はっきりと言い切った先生の言葉に面食らったように目を瞬かせる。
確かに私が露伴先生を好きなのは事実ではあるけども、努力?それは、ちょっと感じられないような。
しかし、この理屈は大人って感じはするけれど、アレだ。

「……自信過剰ですね、露伴先生」
「いいや。さっきの君の態度からすると、僕の自信は過剰でもないだろ」

先程の嫉妬心に気づいた自分を思い出し目を泳がせた。
そういえば、いつの間にか胸の蟠りはなくなっている。原因である、あの女性との関係も分かっていないというのに、私は露伴先生の嫉妬しない理由に満足してしまったらしい。
「それで、結局あの女の人は誰なの?」と当初の話に戻す。

「編集者の人だよ。雨がひどかったから駅まで送ってやったんだ」

担当編集者の代理でさ、と面倒くさそうに言った。

「そう、だったんですか……勘違いしてごめんなさい」

本日二度目の謝罪。
心から悪かったと気持ちを込めて言ったのに、露伴先生は数秒、私の顔を見据えてから方眉を上げ、「本当に今日の君は気持ち悪いな」と言った。だから、「本当に露伴先生はいつもと変わらずひどいですね」同じく言い返してやった。

「しかし嫉妬する君はリアルで良かった! 忘れない内にスケッチしておこう」

露伴先生は生き生きした表情でそう言うと、立ち上がり仕事場へと向かう。
こうなると、私のことなど眼中になくなるんだ。努力というのなら、このあたりをどうにかして欲しい、と少し寂しく笑った。

「ああ、そうだ」

リビングから出る直前に何か言い忘れたようで、ずっと露伴先生を見ていた私に振り返った。

「今日みたいな日に傘を忘れるなよ。君がくそったれ仗助と相合い傘なんて、嫉妬じゃあないが気分が悪いからな!」

言葉通り、嫌なものを見たような顔をする。
まさか仗助の名が出てくるとは思ってもいなかったから、「先生、見てたの?」驚いた声を出した。「ああ、ちらりとな」そうか、目の前を走り去ったときか。ふと露伴先生がわざわざ口にし「嫉妬」の言葉が引っかかる。

「ヤキモチ妬いたんですか?」
「違う!! ヤキモチなんかじゃあない! いいから君は紅茶でも飲んで静かにしてろよ!」



「はーい」

口いっぱいに広がる控えめの甘さに、笑みが零れた。





レイニーデイズ