ある夜、「私は神に出逢った」と体の奥底から震え上がった。


時計の短針が九、長針が十二に揃うが、直ぐに綺麗な直角を僅かに崩す。止まるはずもなく過ぎていく時間。名無子は、ぽつりと一つ点いていた街灯の下にあるベンチに座っていた。まるで劇の舞台のように光にくり貫かれた空間で、名無子は辺りを見回してがっくりと肩を落とした。「ここはどこですかー」疲れきって間延びした声を発し、今日の不幸を思い出す。


――エジプト旅行の最中だった。
日光が体中の水分を奪おうとするようなこの国に、名無子は恨みがましく観光客の最後尾で、案内員が掲げる旗を睨んでいた。エジプト旅行なんて当たらなくて良かったんだ。温泉を狙っていたのに、運が悪い。一等の、金色を模した色の玉が出たときの店員の笑顔と、鼓膜を破らんばかりの鐘の大音響が、酷く不愉快だった。こっちは一等など要らないというのに。ちくしょう、誰よ、エジプト旅行なんかを一等にしたやつは!
暑さで乾いた口内が気持ち悪い。何か飲みたい、と立ち止まり、瞠目した。旗が見当たらない。金魚の糞のように連なっていた観光客たちも、いない。首を左右に捻り、タップダンスのように足を忙しなく動かして周りを見渡す。叫びたいのを我慢する。「迷子になった!」こめかみを汗が滑り落ちた。


街灯に群がっている大小の蛾を見上げながら、「弱ったな」と呟く。エジプトの地理などさっぱりだった。予定表も資料もバスに置いてきてしまった上に、緊急の連絡先もメモっておかなかった。ともすれば、ホテルの場所など分かるはずもなく、名前すらあやふやだ。愚かな自分の行動に辟易する。前方の暗闇を見つめて名無子は歯を食いしばる。そうしなければ、今にも大声で泣き出しそうだった。
徐に、胸元へ手を這わす。先ほどの出来事を思い出して撫ぜる手を止めた。何の変哲もない胸元は、不可解だった。確かに、痛みがあったのだ。突然の気を失うほどの痛みと、胸元から生える棒きれを、確かに私は見た。死んだのだと思ったのに、どうして私は生きている? 自分の身に何が起こったのか分からない。気絶しているうちに矢だと思われる棒きれも、鋭い痛みも消えてしまっていた。あれは、何だったのだろう……。暑さと異国の地で迷子という現状が心底 嫌になったと、脳みそが作り出した幻覚だったのか。胸元がやや広く空いた服に僅かに染み込んだ血が、その考えで納得させるのを阻んだ。

「夜は危険だよ。お嬢さん」

心臓が飛び出すかと思った。慌てて振り向くと、背中合わせのベンチに男が座っていた。いつの間に、誰? 名無子は取り乱して立ち上がる。
「落ち着いて。何もしやしないさ」だから座れよ、と男は後ろ向きのまま言う。気が付けば、名無子はなぜか元通りに座ってしまっていた。そのことに名無子自身が驚く。後ろのやつはもしかしたら通り魔かもしれない、殺されてもおかしくない、それなのに何故? 私は逃げないのだろう。

「君みたいな若い女が一人で、こんな夜更けにこんな所で何をしているんだ?」
「迷ったんです。他の人たちとはぐれちゃって」
「それは災難だな。日本人か? 君は」
「ええ、そうです。日本人です」
「観光旅行かい?」
「まあ、そうですね」

おかしい。名無子は男の質問に素直に答えている自分を遠巻きに見ている、そんな相違を覚えた。
そこでやっと分かった、逆らえない理由が。この声だ。優しく、吐き気がするほど甘く心地よい。もっと聞いていたくなるような――。声がこれほど影響を与えるものなのか、と名無子は恐ろしくなった。

「お前、名は何という?」

少し考える。こんな怪しい男に名前など教えるものじゃあない、尤もな意見が巡る。なのに、どうして……。
その間を何も言わず、男は沈黙を守る。しかし、言わなくてはいけないような威圧感に胃が引きつる気がした。
「名無子、です」と納得のいかない表情で名無子は答えた。「私はDIOだ」短く返された。ディオ、と小さく発音を確かめる。
好奇心なのか、名無子は怪しいと訝しりながらもゆっくりと首を、体を、後ろへ捻る。先ほどは動転していてよく分からなかったが髪は明るい金であった。くじ引きの塗装した玉のような安っぽいメッキ金などではなく、光を放つような……いや、光を吸収してしまうような、そんな金髪に名無子は見とれた。「何だ――」声が聞こえた。

「私が気になるのか? 名無子よ」

思わず、「え?」と名無子の口から小さく漏れる。目の前にあった金髪の後ろ姿はなく、捻った体の前方から先ほどまで話していた声がしたのだ。勢い良く体を元に戻すと、男がいた。金色の。声が出ない。一瞬の内に移動したことにも驚愕したが、何より、その容姿と纏うオーラに心臓を鷲掴みされたように息を止めた。「神なんだ」とっさにそう思った。

「声も出ないほど驚かせたか」

満足そうに口の端を上げるディオに、名無子は止めていた息を吐き出した。軽く眩暈がする。それは酸欠のせいでもあったが、目の前にした神が全てを見下すような笑みを浮かべたからでもあった。名無子は自分の頭が狂ってしまったのだと、奥歯を噛み締めた。神などいない、いないのに。それじゃあ、この人は一体 何者? 纏う空気も、先ほどの笑みも、人のそれではない。ディオは人間じゃあない。何故だかそれだけは言い切れた。
「名無子」と鼓膜を振るわせる声に体を緊張させる。神だと思った人に名前を呼ばれるのは恐れ多いことだった。

「お前、矢に射されたのだろう?」

射された? 矢に? 懸命に働かせる脳は、あの不可解な出来事を思い出させた。しかし射されただなんて、傷も痛みもなくなっているのだ。「射されました」などと、確信をもって言えることではなかった。ディオが、「どうなんだ?」と答えを求めてくる。名無子は迷った末、慎重に首を縦に振り小さく、「たぶん」と付け足した。こんな曖昧な答えで機嫌を損ねないだろうかと心配になったが、「そうか」とディオは愉しそうに笑った。
ぞくっ、鳥肌が名無子の表皮を泡立たせる。愉しそう、の中に恐ろしいものを垣間見た気がした。気付けば、膝の上に乗せた手が震えていた。全身へと広がるそれは、純粋な『恐怖』であり、名無子は確信する。ディオは神だ、と。それは普通の人間にとってはそうは言えない、闇の世界の神。ならば自分は普通ではないのだろう。ディオを神だと崇めてしまいそうになる私は、異端なのだ。
「迷子ついでに、どうだ」ディオが一歩近付く。周りの空気が密度を上げて蠕動したように感じた。言葉の続きを聞きたくて、必死に見上げながら名無子は全神経をディオに集中させた。そんな私の心境などお見通しだとばかりに笑みを深め、愚かで脆弱な女に慈愛の眼差しを向ける。

「私の仲間にならないか?」

何の仲間なのか分かりかねたが、答えなど、あのくじ引きに挑戦したときから決まっていたようなものだ。

「はい――……DIO様」

DIOの素性も、その渦巻く歴史の因縁も、何一つ知らないまま、名無子はこの金色を纏った闇の神に全てを捧げようと無条件に心を決めた。




幽光に蹲る女
神に手を引かれ、闇を歩き始めた。