物事の計算が出来ない人間には苛立ちを覚えるし、時には余りのド低能さにキレることもある。計算が全てでは無いのだろうけど。しかし、計算高い人間ってのも、考え物だな。


天気の良い昼下がりのこと。

「ねぇ、フーゴ」
「何っわ! ちょっ、何ですか」

本から顔を上げて後ろを振り向けば、間近に名無子の顔。そりゃあ驚くさ。椅子から落ちそうになるくらい。しかし彼女は、僕の慌てようなど歯牙にもかけず、また顔を近づけてくる。

「なんか、フーゴ……匂う」
「……臭い、ですか?」

それは大問題だ。臭いだなんて、何より彼女にそんな風に思われるのは嫌だった。

「ううん! 臭くはないんだけど、これ、何の匂いかな〜って」

目を細めて、動物のように鼻をひくひくさせながら、なおも寄ってくる名無子。愛らしいが、何の抵抗もないのだろうか? ないんだろうな。僕は一々、脈を早くするのに忙しいってのに。
彼女が気にしている匂いってのは多分、ミントのことだろう。

「名無子、何の匂いか当ててみて下さいよ」

僕はぐっと彼女に顔を近付けた。鼻先10センチ。名無子は少し身を引いたけれども、僕の言葉に新しい遊びを面白がる子供のように、楽しそうな笑顔で頷く。彼女は更に顔を寄せてきて、鼻先5センチに縮まる距離。そこで何の匂いなのかを考えやすくするためか、目を閉じた。
普通、ここまで近づかないと思うんだけど。しかも、目まで閉じてる。これじゃあ、キスされてもおかしくない。なのに、名無子は気にならないのか? ああ、そういや昨日、ナランチャともじゃれ合いなんだろうけど、くっ付いてたな。つまり僕は、ナランチャと同じ扱いで、男として意識されていないのか……何か、腹たつな。
僕は、僅かに眉をしかめて悩んでいる名無子に対して顔を少し傾け、鼻先5センチを0にした。てっきり驚いて直ぐに離されると思った唇は微動だにせず、あれ? と予想が外れてどうしようかと焦る。仕方なく、軽く押し付けただけの唇を、僕から名残惜しく離した。
目が合うと、一時の感情に任せての行為に、恥ずかしさと気まずさが襲った。

「軽々しく、男に顔を近づけるもんじゃあないですよ」

こういう事をされたくないならね、と僕は平静を装って言った。殴られるくらいの覚悟は出来ていたんだ。それなのに、名無子は、微笑んだ。いや、微笑んだなんて可愛らしいもんじゃあない。何か、小悪魔的な妖艶さを含んだ笑みに、僕は動揺した。何で、笑うんだ?

「フーゴって頭は良いけど、意外と鈍感よね」
「?」

僕が疑問に戸惑っていると、名無子がまた顔を近づけてきて、「ミントの香り、私――知ってたよ」と今まで見たことのない大人びた表情で言った。そういえば、彼女はミスタと同じ歳で、僕より年上だったなと思い出す。違う――何? 知っていた、だって?

「それじゃあ、何で……?」

何の匂いか、だなんて訊いてきたんだ? もしかしたら、という考えが浮かぶがそれを口にすることは躊躇われた。

「何でだと思う? 当ててみてよ、フーゴ」

相変わらず僕が知らない微笑みで、「分かったら態度で教えてね」ふわっと色香を残し名無子は去っていった。
態度で…? 僕は苦笑する。間違ってたらとんだ恥だよな、君が僕を好きだなんて。





全ては可愛らしい策略だった。