沖田 総司

沖田 総司おきた そうじ

天保13年(1842年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)
幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。
本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良かねよし。幼名は宗次郎。


新選組活動
文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。
分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番隊組長となる。
一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたという。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ。

慶応元年(1865年)2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。
山南は沖田の介錯で切腹した。
沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。


病死
体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年(1867年)以降である。
慶応3年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。
前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、負傷させている。
鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される。(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)
鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も、中途での落伍を余儀なくされる。
以後は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。
近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。
生年が明確で無いため、享年については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。墓所は東京都港区の専称寺にある。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。