雄弁は銀


 「本来人間の好意の種類なんて明確な境界線が有るようで無い、もしくは無いようで有る──つまり画面右下テロップ、『※個人差があります』なんだけどさ」
 土曜の昼下がり。恋人を自室に連れ込んですることと言えば──やはり、演劇に身を浸すことなのである。少なくとも、僕たちにとっては。
 次の舞台の構想を練ってキーボードをタイプする手を止めて、隣で作業に付き合わせていた彼女の方を向く。脈絡も無く勝手で唐突な、好奇心に身を任せた質問にも関わらずきみもきみの方で、困惑をすぐ飲み込んでこちらの言葉の続きを待ってくれるものだから良くない。そのうちだらしなくふにゃふにゃにふやけてしまうから、あんまり僕を甘やかしすぎないで欲しい。いや、やっぱりウソ。ふやけるまでの猶予を楽しむ時間すら既に、愛おしいものだと感じてしまっているのだから仕方ない。
 「きみは『愛』と『恋』とをどう定義する?」
 「定義、ですか……?」
 未だ全貌が掴めていない、と瞬く瞳を見据えて人差し指を立てる。
 「一般的に言うなら例えば『愛』は特定の相手をやさしく慕う情、でもあり同時に親兄弟姉妹隣人への慈しみでもあり、また手放すまいとする強い執着でもある、とされている。広範な好意を示す言葉だね」
二項対立の片方を示して、一呼吸置く。
 「いっぽう『恋』は自分のものにならない相手に惹かれ切なく想い、時には高揚し、またある時には嫌われるのを恐れて不安に駆られること、らしい。どちらかと言えばより一義的なのはこちらの方かな」
「……それだと、『恋』は『愛』のうちの一部分のような気がしますね」
 弾けるような速さで投げかけた言葉に続くラリー。カチリ、カチリとネジを巻き直した二台のメトロノームのテンポが徐々に合い始めたのに気を良くして、指を鳴らす。
「ザッツライト。また或る人はこう語る。『恋』は欲しがるもの、『愛』は与えるものである、と」
「ええと、『愛』は『恋』よりも上位に存在していて、『恋』が『愛』へと成長する、みたいなことでしょうか」
「真の意図は本人のみぞ知る──って感じだけど僕はそう捉えた! 違ったらゴメンナサイ、何処かの誰か!」
少しおどけて明明後日の方向へ謝罪の意を示して、再び小休止。緩急つけてリズミカルに踊るのが僕の脚本のスタイルである。
「……つまりね。悩める思春期の少年少女は絶対的な真理を求めて『愛と恋って何が違うの?』と問うんだけれども、最初に話した通りその定義は人それぞれであって、他人が決め切れることでない。そもそも、名称が同じだったとしても抱えている感情の種類は必ずしも同じではないだろう?」
 僕の中にあるそれを例として挙げるなら、ユニヴェールやクォーツのみんなに向ける『愛』と彼女に向ける『愛』とではジャンルが違う。決してそこに優劣や上下関係を付けたいわけではないけど、前者がピュアな“大好き”の上位互換であるのに対して後者は様々な感情の複合体、ミクスチュア。愛してる、大好き、いとおしい、可愛い、──あとは少しだけ、不可知への恐れ。感情の絶対値の合計で比べるなら恐らくたぶんこちらの方が大きい、ような気がする。どんどん膨らんでいくそれは僕にも未知のものだから、正確に言葉にするには十数年とそこらの人生経験はまだまだ浅すぎるんだけれどもね。
 「ラブはライクより上? はたまた恋愛感情はアガペーやフィリアに劣るもの? さあきみの中ではワット・イズ・ラブ? 僕ぁそれが知りたい!」
「なるほど……多分理解出来た、と思います」
「御理解頂きまことに感謝! ……で、それを表現して貰いたいんだけどさ」
方法は、そうだな。舌の上で思案する言葉を転がす。
「即興劇に織り込んでくれてもいいし、言葉でいま教えてくれてもいい。何ならレポートで論じて提出してくれてもいいよ!」
「出来れば最後のは遠慮しておきたいです……」
「んふ、だよねえ」
皺の刻み込まれた元担任の面影を思い出して笑う。聡いあの人の授業は個性的なユニヴェールの教師陣の中では比較的理屈っぽい。基本的には生徒たちの柔軟さを尊重しているのだが、言葉選びには存外厳しかったと記憶しているから彼女らも提出物を通して絞られているのだろう。
「『愛』と『恋』とが同じなら同じでいいし、違うならその違いを教えて。大仰な前置きになってしまったけれど、ただの個人的な興味に基づくものだから気楽に考えてくれればいい。他でもない、きみがどう捉えているのか、知りたい」
 愛されている、という自覚はある。けれど「どう」愛されているのかはハッキリとは掴めていない。今自分がそれらしく理由付けしたこの要求だって、それを知るために並べられた御託なのだ。直接聞き出せないで、即興劇に絡ませることで答えを引き出そうとするのも僕らしいだろう。情けないかもしれないけれどここはひとまず、シャイだから、という理由で許してもらいたい。
 彼女の与えてくれる愛は至極優しく献身的であり、対する私利私欲を含んだ自分のそれを胸を張って隣に並べることは躊躇われた。もし彼女にとってのそれが、真に繊細なガラスを包みこんで守る柔らかい緩衝材のような、か弱い赤子の浸かる温い産湯のようなものであったとしたなら。僕は自分の感情を、不用意に吐露しないように注意を払わなければならない。純粋に透き通るものに不純物を混ぜ込むのには、罪悪感が伴うものだから。
 僕の中にきみへの情が際限なく渦巻いていることを、きみはまだ知らなくていい。ひたすらにあまい愛は伝えたいけれど、「与えたい」も「与えられたい」も都合良く混ぜ合った、正体不明に澱んだものは隠しておきたい。
 そういう幼稚な葛藤は隠して、「ちなみに僕がきみに贈る『愛してる』は恋と愛、どちらの意味も含んでいるつもりだけどね」と付け足すと彼女ははにかんだ。
「一夜の恋甘酸っぱい淡い恋焼け付くような激しい恋友愛敬愛情愛、何だっていい。きみの思うように。好きなように表現したまえ」
「わ、わかりました。即興劇でいきますね」
 彼女にとっての『恋』と『愛』が何かを知れたならば、僕に向く矢印の大きさや形が分かるかもしれない。
 僕のとっての『定義』はぼかすけれど、彼女の感情の意味するところは知りたがる。どう考えてもフェアではないこの問答も、また一方的な「欲しい」の発露だ。しかしこれでも彼女は「ずるい」とは思わないのだろう。
「じゃあ、いきます」
「はいよぉ」
「…………」
「……………………」
静寂。この会話を始める前に作業のためにと渡しておいた草稿の束を再び確認し始めた。アレ? 僕放ったらかし?
「……エート、即興劇中に『僕』が入り込むのは無粋だっていうのは僕が一番理解していることなんだけれどもね。……これってもう始まってる?」
「はい、始まってます」
「もしかして僕側にアクション求められてる系かしら……?」
「いえ。先輩は作業に戻っていただいて結構です。それか、何かお話ししてくださっても、もちろん大丈夫ですけど」
「立花くんったら、いつも通りじゃない?」
「だめですか?」
「いーや?」
 パーソナルスペースを守って少し空けられた距離、親しい人間に対する、柔く緩められた眦。その様子は“いつも”の彼女と何ら変わりない。いや、彼女にとっての『愛』は特別なものではなくて、寧ろ“いつも”彼女があたたかい『愛』を僕に与えてくれているということを逆説的にいま示されているのではないか。決して尖ることのない、穏やかでやさしく清らかで心地よい、これこそが彼女にとっての『愛』であり『恋』なのだろうか。
 ──彼女が僕に向ける好意は、真綿の緩衝材のようにどこまでもやさしいものなのだ。何となく予想通りのような、満ち足りているのに、ほんの少し寂しいような。
 提示された選択肢の中から前者を選び取る。先程一時保存したファイルを開いて、構想を再びスクリーン上に吐き出していく。とにかく今はただ只管に、母から子に与えられるような透き通った慈愛に浸っていたかった。


***
どのくらいの時間が経ったのだろうか。遮光カーテンの隙間から外を見遣ると、夕陽が丁度差して眩い光が目を刺すものだから思わず顔を顰めた。即興劇の流れのまま、ずっと彼女を作業に付き合わせてしまっている。そろそろ休憩にするべきだろう。
 「ねえ、立花く──」
 そう、言いかけた瞬間。少女と目が合った。否、声をかける前から既に『少女』はこちらを見つめていた。熱の込められた潤んだひとみで、
どろりと溶けてじくじくと熟れた蜜色の虹彩で、『恋する少女』の目が『僕』を映していた。それはそれは瞬く度につやめき煌めいて、今にも零れ落ちそうなほどに。
 「せんぱい」
 あまくとろけた声色がひらがな四つに産み落とされた。やわらかい指さきがデスクに置いた自らの左手にかけられて、僅かに沈む。
 『いつも』の慈愛のおもかげを完全に脱ぐことはない。しかし、先程示されたものとは違うものが確かにいま現れていた。澄んだひとみの奥に何かを渇望する欲が揺らめいて、見え隠れしている。
 冷える室温とはうらはらに、身体の芯に熱が灯るのが分かる。これは自分の無茶振りに応えるために作られた演技ではない。先のそれは立花希佐の『愛』の部分であったのだ。そして、今のこれは。
 ──知らなかった。いや、本当は、あの日あの海で手を握られた時からずっと知っていたはずだった。ひとりの人間に向ける複雑な恋情は僕だけが持っているのに過ぎないと、気付かないふりをしていただけだった。
 『これ』は彼女自身が、最初から密かに抱えていたものなのだ、と気付く。彼女がつよく求めているのは『自分である』と。

 そうか、これが立花希佐の『恋』か、と。
 やさしい『愛』も激しい『恋』も全て、この一身に捧げられているのだと。

 あ、と母音ひとつさえ作れずに喉が鳴った。
 「……これは一本取られたなあ。目だけで語るとは」
 「ちゃんと伝わりましたか」
頭を抱えて声を絞り出すと、こちらを窺うような声色で返答が返ってくる。僕を焼いた、熱を煽るような激しさは既に鳴りを潜めていた。だけどそれが彼女の中に秘められているということはもう知っている。
 「それはもう、十二分にね」
叫び出したくなるような情動をどうにか押さえつけて平たく賛辞の意を表すと、彼女の真剣な眼差しがこちらに向けられた。
 ──先輩。
 「愛も恋も、どちらもあなただけのものです。……恋をしているのは、私も一緒ですから」
 「……二本目を取りに来ないでちょうだいよ!」
一瞬だけ、再びひとみの中に火花が躍ったのを見た。カッカと熱を持った頬をかわいこぶって両手で包む真似をして誤魔化すことしか、もう今の僕には出来ない。えへへと緊張が解けたように笑って、なんとも可愛らしくておそろしい女の子だ。僕はこの先一生、この子には勝てやしないのだろう。
 とにかく、今日この日。僕らは同じものを抱えているのだと、思い知ることが出来たのだ。時に鋭く心臓を貫き、時にあたたかく空間ごと包み込むもの。相手を想うその行為が、自分にとって弱みにも強みにもなるもの。そういうものすべて、心の内に抱えているということを恥じなくていい。だってきみも同じなのだから。一見矛盾して対照的にすら思えるこれらの情は、案外近い言葉で言い表せるらしい。僕らの間にあるこれはきっと、『愛』と『恋』の共通部分なのだ。