今夜だけの逃避行

「花火、きれいだったね」
「そうじゃの」

 会場を出て、人波にまぎれて最寄りの駅までの道を歩く。「暑いのう」とつぶやいて、仁王はシャツの首元をパタパタとはためかせた。

 夏祭りに一緒に行こう。先にそう言い出したのはどっちだっただろう。いや、どちらでもなかった気がする。クラスメイトが話していて、暑いからかき氷が食べたいみたいな話になって。そこからは成り行きだった。

 部活が終わって、一度家に帰ってシャワーを浴びて。浴衣を着ようと思いついたのは偶然だった。着付けをしてくれた姉には「デート?」とからかわれたが、気合いが入っているのは事実なので仕方がない。
だって、気合いを入れるなと言うほうが無理な話だ。仁王と夏祭りに行くのは、今年が、今日が、最後になるかもしれないのだから。

「花火、きれいじゃったの」
「そうだね……って、この会話するの二回目じゃない?」
「……そうじゃったか?」
「そうだよ」

 暑さに頭をやられたのかもしれないと、仁王はへらりと笑う。それっきり会話は途切れて、ふたりの間には沈黙が訪れた。
 数百メートル先に駅が見える。ひとつ前の電車が出発したようで、外から見えるホームにはほとんど人がいなかった。

 まだ帰りたくないな。頭の中に浮かんで、喉元まで出てきた言葉を飲み込む。
 そんなことを口にしたら、優音が想いを寄せていることを、察しの良い仁王は気づいてしまうかもしれない。高校は別々の学校に進学することになるだろうからと、せめて今年が終わるまでには自分の気持ちを伝えようと思っているけれど。でも、それは絶対に今ではない。全国三連覇を目の前にした大切なこの時期に、変なことを口走って仁王の負担になるようなことはしたくなかった。

 だけど、一度意識すると気になってしまう。仁王は、私のことをどう思っているんだろう。隣を歩く横顔に視線を向ける。ほぼ同じタイミングで琥珀色の双眸が優音のほうを向いた。

「そんなに見つめられると照れるんじゃけど」
「み、見つめてないし!」
「噓つきなさんな。あつ〜い視線を感じたぜよ」
「だから、そんなに見つめてないったら!」

 むうっと頬を膨らませればけらけらと降ってくる笑い声。ふと、その声が止んで、琥珀色の中に先ほどまでとは違うなにかが灯った。

「御崎はこのあと予定とかあるんか」
「予定? 特にないけど。普通に帰ろうかなと思ってた」
「そうか」

 また訪れた沈黙に反して、優音の心臓はどきどきと音を立てていた。どうしてそんなことを聞くのだろう。これは、続きの言葉を期待しても良いのだろうか。ああ、心臓の音がうるさい。このままじゃ仁王に聞こえてしまうかもしれないと、自然を装って口を開く。

「仁王はなにか予定があるの?」
「いや、俺もなんもないぜよ。……なあ、御崎」
「うん」

 仁王が立ち止まる。駅の改札はもうすぐそこだった。がたん、ごとん、と遠くから次の電車が近づいてくる音がする。

「その、なんじゃ。これから少し寄り道して帰ろうと思う……って言ったら、おまんも着いてくるか」
「寄り道? どこ行くの?」
「決まっとらん」
「ふふ、なにそれ」

 掴みどころのない仁王らしいような気もするが、なんだかおかしくて笑ってしまう。仁王は拗ねた子どもみたいに下唇を突き出した。

「行くか行かないか、早く決めんしゃい」
「もう、そんなに拗ねないでよ。一緒に行くに決まってんじゃん!」

 優音が帰りたくないと思っていたことに、仁王は気づいていたのか。それとも、ただの偶然か。その答えはわからなかったけれど、一緒に過ごせる時間が延長されたことはたしかで。
 ホームに入ってきた電車から出発のアナウンスが聞こえる。その音に背を向けて、歩いてきた道を戻り始めた。