大事な話
雲ひとつない青い空と、すずめの鳴き声。ラケットバッグを背負ってあくびをしながら、仁王は通い慣れた通学路を歩いていた。
世間はとっくに夏休みで住宅街にはのんびりとした空気が漂っている。しかし、仁王たちには関係ない。強豪校に、王者立海に休みはないのだ。全国大会決勝を、三連覇を目前に控えていれば、なおさら。
今日は朝から夕方まで試合形式での練習を行うと昨日の帰りに柳が言っていた。決勝戦、青学との試合に仁王はシングルスで出場することが決まっている。おそらく対戦相手は不二周助だ。すでに準備を重ねてきたけれど、手塚になるイリュージョンをもう少し磨いておきたい。考えながら歩いていると「あれ、仁王?」と声がした。
「やっぱり仁王だ。おはよう」
ゆったりと振り返る。制服の上から仁王と同じからし色のジャージを羽織った優音が立っていた。
「今日はいつもより早いんだね」
「おはようさん。珍しく、アラームが鳴るより早く目が覚めてのう」
「よく眠れなかったってこと? あはは、遠足前の幼稚園児みたい」
たしかにらしくないかもしれないが、そこまで笑うことではないだろう。ふいっとそっぽを向けば優音は「ごめんごめん」と目元に涙を浮かべながら謝った。
拗ねたふりをしてみたけれど、内心そんなに気にしてはいなかった。むしろ、心地良いとさえ感じる。ふたりでなんてことない会話をしているうちに過ぎ去っていくこの時間が、仁王は好きだった。
いつまでも終わらなければ良い。そう願っているけれど、同時にそれが叶わないことも理解していた。
卒業という三年生の大イベントが半年後まで迫っている。優音と話すときの話題は八割がテニスのことで、今後の進路について話したことはない。しかしクラスメイトということもあり、聞かないようにしていてもどうしても情報が入ってきてしまう。
優音が立海を去ってしまう前に、この関係が終わってしまう前に、自分の気持ちを伝えておきたかった。三連覇を成し遂げて、その勢いで言ってしまおうと思っていた。
仁王が考えを巡らせているうちに優音は少し前を歩いていた。思わず手を伸ばしてジャージの袖を掴む。
「……御崎」
優音がくるりと振り返る。明るい茶色の髪が揺れて、アメジストのようにきらきらと輝く瞳が仁王の姿をとらえた。
「なに?」
心臓の音が頭の中で響く。自分らしくもない。ただひと言、決勝戦が終わったら話がしたいと伝えたいだけなのに。それなのに、こんなにも緊張しているなんて。まったく、詐欺師が聞いて呆れる。
呼び止めたのにも関わらずなにも言おうとしない仁王を不思議に思ったのだろう。優音はじっと仁王を見つめたまま、ゆっくりと首を傾げた。
「どうしたの? 早く行かないと遅刻しちゃうよ」
小さく息を吐いて、もう一度吸い込む。それから顔を上げて優音に視線を向けた。
「おまんに話したいことがあるんじゃ。明日の決勝が終わったら、時間くれるか」
長いまつ毛に縁どられた大きなアメジストがぱちぱちと瞬く。なにも探ろうとすることも、訝しむこともなく、優音は「いいよ」と頷いた。
「でも、それって今じゃダメなの? 大事な話?」
「ああ、大事な話じゃ。それに、今話なんかしとったら遅刻するじゃろ」
「遅刻……? ああー! やばい、また真田に小姑みたいなこと言われる!」
早く行こうと仁王の手を引いて優音が走り出した。掴まれた手からじわりと優音の体温が伝わってくる。季節は夏で、全国大会決勝の時期に相応しく、気温も猛暑日を超えていて。それなのにちっとも嫌ではなくて、代わりに温かい気持ちが胸の中に広がっていく。ああ、これはもう、完全に末期だ。思わず口元が緩んだ。