雨上がりの楽園

 屋上へと繋がる長い階段を上りきる。今日はいつもと違い、閉じられているはずの鉄の扉が開いていた。その前で暗い空を眺めるやや丸まった背中がひとつ。朝から姿が見えないなと思っていたけど、サボり癖は二学期も健在らしい。
 少し迷った末に声を掛ければ、仁王はゆっくりと振り返る。

「おまんもサボりか?」

 いたずらを企んでいる子どものような、何を考えているのかわからない笑み。それがいつも通りだったせいで、なんだか拍子抜けしてしまった。最後に仁王と話したのは夏休み中。少し気まずい別れ方をしたものだから、どんな顔をして会えば良いんだろうって悩んでいたのに。

「…………授業の気分じゃなくて」
「不良じゃな」
「そんなの今さらじゃない」

見上げた空は相変わらずの鈍色で、音を立てて振り続けている雨は何かを洗い流そうとしているようにも見える。

「止みそうにないのう」
「そうだね」

 ふわり、隣から甘い香りがした。手を伸ばしてもすり抜けてしまいそうな、謎めいた香り。湿気のせいかいつもよりも強く重たく感じるそれは、全国大会の帰り道の出来事を思い出させる。仁王は、どうしてあの時…………。

 聞きたいけど聞けないその答えが何なのか、本当はもうわかっていた。ずっと前から気づいていたのに、見えないフリをしていた。たぶん、仁王も。
 ちらり、空を眺める横顔を盗み見る。ふたりの距離はわずか数センチ。ほんの少し勇気を出すことができれば一瞬で縮まる距離。だけど私は動かない。動けない。自分らしく居られる心地良いこの空間が、この時間が、関係が、好きだから。あと半年もすれば卒業だし、永遠にこうして居られるわけじゃないことだってわかってるのに。だけど私は何よりも、今のこの関係が壊れてしまうことが怖くて仕方がなかった。

「あ、止んだ」

 声につられて顔を上げる。外を見れば空が明るくなり始めていた。

「ん」

 何かを思いついたらしい仁王がこちらに手を差し伸べる。「目、閉じんしゃい」そう言われるがまま目を閉じて、手を引かれて一歩踏み出す。足元でぴちゃぴちゃと水が跳ねる音がした。

「俺が三つ数えたら目開けて」
「わかった」
「いくぜよ。ワン、ツー、プリ〜」

 言われた通りにゆっくりと目を開けた私は、視界いっぱいに広がる光景に思わず声を上げた。屋上一面に張った雨水が空を反射して映している。頭上にも足元にも空があって、まるで別世界との狭間にでもいるみたい。雨が上がってすぐというのもあってかきらきら輝いているようにも見える屋上は、どこかの楽園のよう。

「きれい」
「好きじゃろ、こういうの」

 満足そうに笑う仁王が笑う。
 もしかしたら仁王は、私が話しかけるのを躊躇っていたことに気づいていたのかもしれない。気の利いた言葉を投げかけてきたりはしないけど、他人のことを本当によく見ていて、思いやることができる。いつもそうで、仁王のそういうところが大好きだった。

「…………ずっと、この時間が続けば良いのに」

 仁王と卒業後の話はしたことがない。でもきっと、進学先は別のはずだ。仕方がないことだけど、意識するとずきりと胸が痛む。
 強い風にスカートの裾が揺れた。さっきの声は聞こえちゃったかな。聞こえていないと良いのだけど。

「…………御崎」
「なに」

 すぐ近くに仁王の顔があった。ぐっと掴まれた腕。至近距離で見つめられて、熱っぽい琥珀色に捕まってしまったみたいに目が逸らせない。視線から逃げるようにぎゅっと目を閉じる。仁王がふっと笑った気がして、唇に柔らかいものが触れた。
 この二年間ずっと詰められなかった数センチが、一瞬にしてゼロになる。たった数秒の出来事が、これまで経験したどんなことよりも長く感じた。

「な、んで」

 急にキスなんて。言おうとした言葉は仁王の顔を見た瞬間、喉の奥へと引っ込んでしまった。愛しさとか、切なさとか、いろんな感情が混ざったような顔。優しく細められた瞳も、困ったような眉も、全部初めて見る。懐いてる野良猫にだって、そんな顔見せたことないくせに。

「……ばか、ずるい」

 シャツを掴んで胸に寄りかかるように頭を押し付ける。あの甘い香りが広がって、仁王の腕が優しく私を包み込んだ。背中を撫でる手と、少し早い鼓動が心地良い。

「…………優音」
「うん」
「好いとうよ」

 いつか聞けたらと思っていた言葉。でも、聞けないと諦めかけていた言葉。どうしようもなく幸せで、泣きそうで。私も好き。そう返す代わりに、そっと仁王の背中に腕を回した。

 分厚い雲の隙間から、幾筋か太陽の光が射し込んできた。明るくなった屋上で、ふわり、ふたつのシャボン玉が舞い上がる。風に乗って漂い、やがてひとつになったそれは、空の中へと吸い込まれていった。