夏の終わりに

 意識し始めた頃にはまだ遠い存在だったはずの最後の夏はあっという間にやってきて、一瞬で過ぎ去っていった。自分たちが描いていた最後の夏とは、望んでいた未来とはまったく異なる結末と、喪失感。それに、正体はわからないけれど、ずっと後ろに張りついて追いかけてきていた何かから解き放たれたみたいな、不思議な開放感を残して。

 三年間の部活帰り。そのほとんどを一緒に並んで歩いた通学路に夕日に照らされたふたり分の影が伸びる。その間の距離はわずか数十センチ。いつも通りの距離、からし色のジャージ、肩にかかるバッグの中の荷物の重さ。いつもと違うことがあるとすれば、それはひとつだけ。一緒にいるのに、仁王も優音もなにも話そうとしないことだった。

 正確には、話そうとしていないわけではなかった。頭の中はずっと動き続けていて、話しかけるきっかけと話題を探し続けていた。でも、思いつくのはすべてテニスに関する話ばかりで。これまでだったらすぐに口にして盛り上がっていただろうが、今日ばかりは触れないほうが良いような気がして、口にするのをためらった。

 数時間前に行われた、全国大会の決勝戦。三連覇まであと一歩のところで、立海は青学に敗れた。想定していた以上の接戦で、試合はS1までもつれ込んだ。
 お互いに全力を出し合って、すべてを注いで戦った末の結果。今日勝利の女神様が微笑んだのが青学だったというだけで、明日からはまた同じスタートラインに立つ者同士。誰も悪くない。青学も、他校の選手も、もちろん立海テニス部のメンバーだって。頭の中ではよく理解しているけれど、悔しいという気持ちを、どうしてという感情を、優音はまだ捨てきれずにいた。
 口にこそ出しはしなかったけれど、もしかしたら仁王も同じだったのかもしれない。一緒に帰っていて、お互いにこんなにも話さないのは今日が初めてだった。

 数歩だけ先を歩いていた仁王が立ち止まる。危うくその背中にぶつかりそうになり、優音は顔を上げた。

「どうしたの」
「どうしたのって、御崎の家はあっちじゃろ」

 言われてきょろきょろと周りを見回してみる。仁王はまっすぐ、優音は右に。いつも「じゃあね」と手を振って別れる住宅街の交差点にいつの間にか着いていた。

「やば、ぼーっとしてた」
「しばらく部活漬けじゃったし、おまんも疲れとるんかもな。今日は早めに寝んしゃい」
「うん。そうしようかな」

 会話が途切れる。「それじゃあ、また夏休み明けに」そう言って歩き出せば良いだけなのに、ちっとも足が動こうとしない。仁王も同じようで、困ったように左手の人差し指で頬をかいていた。生ぬるい風が髪を揺らす。遠くでカラスが鳴く声がする。

 そろそろ帰らないと。そう思うのに、やっぱり動けなかった。今帰ったら、ひとりになったら、堪えていたものが全部溢れてしまいそうだった。一緒に過ごしたこの夏が本当に終わってしまいそうで、消えてしまいそうで、怖かった。
つぅっと、頬をなにかが伝う。仁王の瞳が大きく見開かれた。

「おまん、なんで泣いとるんじゃ」
「え? あれ、どうして」

 泣きたいわけではないのに、悲しいわけでもないのに、涙が止まらなかった。とめどなく溢れる雫は、頬を伝い落ちてアスファルトに染みをつくる。

「ごめん、すぐ止めるから……っ」

 仁王を困らせたくない。必死に目元を拭う優音の手を、大きな手が掴んだ。そのままぐっと引かれて、甘くて重たい香りに包まれる。この香りをよく知っている。これは、仁王の、

「におう……?」
「……すまん。少しだけ、このまま」

 耳元で呟かれた声が震えていて、はっと息を吞む。背中に回っていた腕にぎゅっと力が込められた。
 カラスの鳴き声が遠くなっていって、ゆっくりと夕日が沈んでいく。重なったふたつの影がオレンジ色の道路に伸びていた。