しがらみから救い出して
我が家はテニス一家だ。両親の出会いは大学のテニスサークルだったそうだし、ふたりの姉も私も物心つく頃にはテニススクールに通っていた。
中でも二番目の姉――――優音ちゃんは、テニスがとても上手かった。地元じゃ負けなし。大人とだって互角に打ち合えていたし、小学校高学年になる頃には負ける姿を見ることもほとんど無くなった。才能もあっただろうけど、テニスが好きって気持ちとたくさんの練習の成果だと思う。「常勝」という言葉の似合う優音ちゃんは自慢の姉だったし、同時にいつか勝ちたいと思う憧れの選手だった。
そんな優音ちゃんがテニスを辞めたのは私が小学校三年生のとき。ジュニア大会で優勝した直後のことだった。
『私もう、テニス辞める』
理由は今でもわからない。何度も問い詰めたけど「飽きたから」の一点張りで詳しいことは何ひとつ教えてくれなかったから。
その日以降、優音ちゃんがテニスコートに立つ姿を見たことは一度もない。だけど、愛用していたラケットやシューズの手入れは定期的にしているみたいだったし、またいつかコートに戻って来るだろうって。その「いつか」を待っているうちに何年もの月日が流れ、私は中学二年生、優音ちゃんは中学三年生になっていた。
先生の都合で午後練が中止になって、いつもより早い時間に帰れることになった。部活仲間と最近できたクレープ屋さんにでも寄り道したい気分だったけど、そろそろ手を付けないと月曜日が締切の宿題が終わらない。バスを降りて早足で家へと向かう。緩やかだけど長い坂を上りきった先に見えてくる、外国映画に出てきそうな洋風外観の我が家。その門の前に、知らない男の人が立っていた。
猫背気味だけど背が高くて、少し目つきが悪い人。染めているのか髪は銀色で、よくコンビニの駐車場に居る不良みたいだ。もしかして、一番上のお姉ちゃんの彼氏? でもそれにしては少し顔立ちが幼いような。
別にそこはどうでもいいけれど、門の目の前に立たれていては家の中に入れない。どうしようかと考えていたら、眺めていた携帯の画面から顔を上げたその人と目が合った。
「…………優音の妹?」
「そう、ですけど」
「あんまり似とらんのう」
「よく言われます」
その人は「だろうな」とでも言いたげな顔で頷いた。
名前で呼ぶなんてずいぶん親しげだけど、この銀髪の人、優音ちゃんとどういう関係なんだろう。
「あの」
気になって口を開く。
「うん?」
「あなたは優音ちゃんと…………」
どういう関係なんですか。言いかけたと同時にバンっと勢い良く玄関のドアが開いた。
「ごめん、遅くなった!」
「ええよ。そんなに待っとらんし」
階段を降りてきた優音ちゃんが私に気づく。
「亜湖じゃん。おかえり」
「ただいま。優音ちゃんはこれから出かけるの?」
「うん。ちょっと体動かしてくる」
じゃあね。ひらりと手を振って歩き出す優音ちゃん。銀髪の人は軽く私に頭を下げた後、優音ちゃんを追いかけて歩き始めた。
「雅治! 早く!」
「はいはい」
「もう、コート取れなかったらどうすんの」
聞こえてきた単語にハッとして優音ちゃんたちが歩いて行った方を見る。さっきは気づかなかったけど、優音ちゃんの背中にピンクのラケットバッグが背負われているのが見えた。
ああ、なるほど。あの銀髪の人が仁王さんか。会話の中でときどき出てくる名前を思い出す。
クラスメイトで部活も同じの仁王さん。優音ちゃんはよく「仁王のテニスが好き」と言っていた。U-17W杯のときも世界に挑戦するのを応援したいとオーストラリアまで行っていたはず。
もしかしたらそこでの仁王さんの試合が優音ちゃんを動かしたのかもしれない。だってそれ以外に、優音ちゃんがラケットバッグを持ち出す理由が考えられないし。
「ありがとうございます、仁王さん」
遠ざかっていく背中を見て呟く。
あのとき優音ちゃんがテニスを辞めた理由は、今もわからないけど。でも、もう良いの。優音ちゃんがまたテニスをやってくれるなら。そうじゃなくても、あんなに楽しそうな優音ちゃん久しぶりに見たし。
「…………さーて、宿題やりますか」
ふたりの背中が完全に見えなくなったのを確認して家の中に入った。