仁王くんと御崎さん

 あの日、家族五人を乗せた白いワゴン車は故郷と隣町の境界線を易々と越えた。後部座席のシートに座りガタガタと揺られること、四時間弱。辿り着いたのは海が見える街。
 神奈川へ引っ越すことになったのはただの偶然。「ここなら附属大学まであるから安心でしょう?」と、半ば強引に立海大附属中学校への受験を決めたのは、私の性格をよく理解しているママだった。

 ここだけの話、せっかく関東に引っ越すのなら東京の学校に通いたかった。だってほら、青春学園や氷帝学園だって大学まであるじゃない? 本当はそう思っていたけれど、東京に憧れがあるだけで特にやりたいことがあったわけでもないし。密かに抱いていた願望は、部屋のぬいぐるみと私の間だけの秘密になった。
 とは言え、新しい土地でスタートする新生活に、故郷での思い出や諸々からとき放れた私は妙にわくわくしていて。真新しい深緑色の制服が新居に届いたその日には部屋の姿見で何度も自分の姿を確認したし、数週間後に控えた入学式をとても楽しみにしていたのだけど、

「あーあ、つまんない」

 授業をサボってやって来た静かな屋上。その場にしゃがみ込んで呟いた言葉は誰にも聞かれることなく消えていった。
 入学式から二ヶ月が過ぎ、ようやく着慣れてきた初めての制服が夏服へと変わった六月の初め。始まった中学生活は予想していた以上に順調に進んでいた。式当日に友達はできたし、授業はそこまで難しくない。放課後は担任の勧めで入った男子テニス部のマネージャーの仕事があって、おかげでクラスや学年の違う知り合いも増えた。お堅い校則以外に不自由なものは何もなくて、たぶん他の同級生よりも充実している、理想の学生生活。これ以上に欲しいものなんて無い。なのに満たされていないと、虚しいと感じてしまうのはどうしてだろう。

 空を覆っていた雲が風に流され隠れていた太陽が顔を出す。周りが明るくなったのにつられて空を見上げ、眩しさに目を細めた。…………眩しい空は苦手だ。その光で隠そうとしていることも全部、照らし出されてしまいそうだから。
 明るさに負けないよう不機嫌に睨みつけた視線の先。ふわふわと虹色に光る丸いものが目の前を横切った。

「シャボン玉?」

 不思議に思って立ち上がる。屋上に居るのは自分ひとりだと思ってた。授業をサボって時間をつぶしている生徒が私の他にもいるのか。
 どんな人だろう。考えてみたけれど、まだ立海の内部事情に詳しいわけでもないし思いつかない。たまに風紀委員に注意されてる不良の先輩がいるのは知っているけど、もしシャボン玉の主がその人だったらなるべく関わりたくないな。
 そう思っても好奇心に勝てないのは私の悪い癖だ。シャボン玉が飛んできた方へ向かうと、ひとりの少年がだるそうに柵に凭れて校庭を見下ろしていた。青色の吹き口の先端から新しいシャボン玉が生み出され、ふわふわと空へ浮かび上がっていく。

「ん?」

 吹き口を離した少年がゆっくりと振り返った。染めているのか、地毛にしては明るすぎる髪が光を反射して揺れた。下まつ毛が特徴的な切れ長の目がぱちぱちと瞬いて、琥珀色が私の姿を捉える。顔だけは知っていた。同じテニス部の、ちょっと変わった一年生だ。
 お互いの出方を窺うように何も言葉を発さず見つめ合うこと、およそ数十秒。

「…………おまんもやるか?」

 先に沈黙を破ったのは少年の方だった。吹き口が刺されたピンク色の小さな容器が差し出される。

「…………」

 さっき使っていたのと同じ青色。まさか、使ったやつじゃないわよね? 受け取ったそれをじっと見ている私の思考を見透かしたように「新品ぜよ」と少年は笑った。
 シャボン玉なんていつぶりだろう。最後にしたのは小学校低学年くらい? いや、もっと前だったかも。咥えた吹き口にふーっと息を吹き込む。吹き口の先端からたくさんのシャボン玉が溢れ出た。それはやがて風に運ばれ、空の向こうへと消えていく。

「おお、上手い上手い」

 黙ったままちらりと視線をやる。手強いのう。肩をすくめる少年の言葉は聞いたことのない方言だった。もしかしたら私と同じでこの辺りの出身じゃないのかも。
 隣で大きく膨らむシャボン玉。対抗して今度はゆっくりと息を吹き込む。
 ふわふわとシャボン玉が飛んで弾ける度に脳裏を過ぎるのは、入学してからこれまでのこと。教室に響くチョークの音、授業に飽きて机に突っ伏すクラスメイト。毎朝ガミガミと制服の着方を注意してくる生活指導の先生に、腹の底では何を考えているかわからない周囲の人たち。
 つまらない。また心の中でそう零す。代わり映えしない毎日は単純で退屈だ。もっと刺激が欲しい。奇跡が起きるような、近くにいるだけでドキドキするような、そんな刺激が。

「不機嫌じゃの」
「…………別に」

 少年が何か言おうと口を開いたのと同じタイミングで授業の終わりを告げるチャイム音が響いた。

「そろそろ教室戻らなきゃ。シャボン玉ありがと、今度買って返すわね」
「ほう、見かけによらず律儀じゃな。御崎優音チャン」

 驚いて少年を見る。どうして私の名前を知っているんだろう。話したの、今日が初めてのはずだけど。

「学年じゃ有名人じゃし? そうじゃなくても部活一緒じゃろ」
「有名人って……それ良い意味で? 悪い意味で?」
「プリ。さあてのう」
「ぷ、プリ?」

 方言とも違う不思議な言葉に首を傾げていたら、校舎の方が騒がしくなった。
 階段へ向かおうとしたところでふと、自分がまだこの少年の名前を知らないことに気がついた。彼が言う通り部活は一緒だけど、絡んだことは一度もない。向こうは私のことを知ってるみたいだけど、同学年で部活が同じってこと以外、私はこの人のことを何も知らないのだ。クラスも、出身地も、好きなものも、何もかも。それって何だか不公平だ。

「ねえ、名前聞いてもいい?」
「俺? 仁王雅治じゃ」
「におう、まさはる」

 お近づきの印に。仁王はポケットからガムを取り出した。

「くれるの?」
「オレンジ味。食えるか?」
「食べれる。ありが…………痛っ!」

 パチン、と間抜けな音と、指先に地味にだけど痛い刺激。手元を見たら、ガムを受け取った右手の親指がクリップに挟まれている。何が起きているのかわからないまま仁王に視線をやれば、彼は大成功とでも言いたげな笑みを浮かべて私の様子を見ていた。

「何か言いたげな顔しとるのう」
「…………なにこれ」
「パッチンガムじゃ」
「それは見ればわかるけど」

 パッチンガムって。堪えきれずに吹き出してしまう。パッチンガムなんて、まだ持ってる人いるんだ。いや、探してみれば私の部屋からも出てくるかもしれないけど。これといいシャボン玉といい、大人びた外見のくせに中身は小さな子どもみたい。変な奴。
 なかなか笑いが止まらない私を見ていた仁王は驚いたような顔をして、

「…………おまん、今日初めて笑ったのう」
「そうだっけ?」

 もしそうならきっと仁王が面白いからだよ。仁王は「ピヨ」とまた意味の分からない単語を発した。

「じゃあ、また部活で」

 手を振り校舎の中へと戻る途中、扉をくぐる前に一度振り返ってみたら、こちらを向いていた琥珀色と目が合った。口の端を釣り上げて謎めいた笑みを浮かべた仁王が吹き口にゆっくりと息を吹き込む。
 ふわり、舞い上がったシャボン玉がふたつ、青空の中へと吸い込まれていった。