仁王くんと御崎さん 〜side N〜
彼女と初めて話した日のことは、今でもよく覚えている。
少し前までは心地よかったはずの日差しが強さを増して、空気の中にこれからやって来る雨の季節を感じるようになり始めたある日のことだった。
その日の五限の授業は音楽で、苦手科目ということもあり、どうにもやる気が出なかった。入学してから二ヶ月ほどが過ぎ、中学生活にも授業に出ないという選択にも慣れ始めた時期。仁王の足は、自然と屋上へ向かっていた。
昼休みには賑わっている屋上も、授業中となればまず人がやって来ることはない。目の前に広がるのは青空と江ノ島の町、空に負けないくらい青い海。耳をすませば鳥の鳴き声とともに、おそらく自分がサボった授業の合唱が聞こえてくる。ルール、時間、人間関係、エトセトラ。普段自分たちを拘束しているものはここには何ひとつ存在しない。そんな何にも縛られることがないこの空間が、仁王は好きだった。
ベンチに腰掛けて昨日の放課後に買ったばかりのシャボン玉キットを開封する。シャボン液をつけた吹き口に息を吹き込めば、虹色に輝く透明な球体が現れてふわりと舞い上がった。
遠く、小さくなっていくシャボン玉をぼうっと眺める。ふと、視線を感じて振り返った仁王は、そこに立っていた人物の姿をとらえてわずかに目を見開いた。まさか、こんな場所で会うなんて思っていなかったから。
肩上で切り揃えられた明るい茶髪。意思が強そうな瞳。シャツの第一ボタンを外してネクタイをゆるめ、上級生に目をつけられない程度に着崩した制服。御崎優音ーー男子硬式テニス部のマネージャーをしている女子生徒だ。話したことはないが、顔と名前は把握していた。それと、主にファッション関連で校則を無視しがちで、たびたび風紀委員に捕まっていることも。
だけど、それ以外は至って普通の、授業をサボるなんてことはしなさそうな生徒、というのが彼女に対する印象だった。
優音もまさか屋上に人がいるとは思っていなかったのだろう。視線が交わったまま、お互いに出方を窺うこと、およそ数十秒。
「……おまんもやるか?」
「……やる」
シャボン液のボトルを振って見せれば、優音はこくりと頷いた。
ベンチに並んで腰掛けてシャボン玉を膨らませる。大小さまざまな透明な球体を空の彼方へと見送りながら、仁王はちらりと隣の横顔を盗み見た。
心ここに在らず、という言葉がぴったりな横顔だった。視線はシャボン玉に向いていたけれど、その目はきっと遠くの何かを見つめているようだった。
部活中も、優音はときどき今みたいな表情をする。ぼうっとなにかを見つめることも、なにかを考え込むことも、誰にだってあることだ。でも、なぜか気になった。知りたいと思った。彼女の見ている世界を、俺は……
「仁王!」
頭の上に降ってきた、高くてよく通る声。いつの間にか聞きなれていたそれにゆっくりと目を開けば、予想通りの人物が仁王を覗き込んでいた。
「もう、こんなところでサボってた! 真田と柳くんが呼んでるよ」
探すの苦労したんだからね。優音はそう言って腰に手を当て、頬を膨らませた。おそらく睨んでいるつもりなのだろうが、まったく怖くない。思わず吹き出せば、ふん、とそっぽを向いてしまった。
「すまんすまん。で、真田と柳がなんじゃって?」
「次の試合のことで相談したいことがあるみたい。詳しくは私も聞いてないんだけど」
ベッド代わりにしていた椅子から起き上がる。部室の扉を開けると、茹で上がってしまいそうな熱い空気とともに蝉の声が襲いかかってくる。こんな日は室内に籠っていたいものだが、呼ばれてしまったから仕方がない。
「陽射し強いなあ。ジャージの上着持ってこればよかった」
部活が終わる頃には焦げパンみたいになってるかも。優音が大真面目な顔をして言うものだから、おかしくてまた口元がゆるんだ。
この二年で、優音の考えていることや彼女が見ているものは、なんとなくわかるようになった。当初の目的は果たしたのだ。だけど、話をするたび、くるくると変わる表情を見るたび、もっと彼女のことが知りたくなる。
この感情が、一体何なのか。答えはとっくの昔に気づいていた。
「御崎」
「なに?」
「……いや、なんでもないぜよ」
胸の中にじわじわと広がる甘い感情をぐっと抑え込む。まだ早い。今じゃない。ひょいと肩をすくめて言えば「変な仁王」と優音は不思議そうな顔をする。
青い空、蝉の声、隣で揺れる栗色の髪。中学生最後の夏が始まろうとしていた。