海がきらい

 海に愛された町で育った。
 魚がよく捕れて、旧くから伝わる工芸品があって、気候も穏やか。おまけによく使われる航路のちょうど真ん中に位置するらしく、しょっちゅう貿易船や海賊船がやってくるものだから、町はいつだって賑やかで、活気に満ちていた。
 私は海が好きだ。太陽の光を反射してきらめく海も、蜜を落としたような甘い黄金色の海も、なにもかも飲み込んでしまいそうな静かで真っ暗な海も、ぜんぶ。見ていると落ち着くし、気まぐれだけど、この町に彼らを運んできてくれるから。そういえば、私の名前も、異国の言葉で海という意味らしい。

「オレの名前は母国語で陸って意味らしいんだよな。陸と海か。なんか運命って感じしねえ?」

 運命なんてそうそう使うこともない言葉をさらりと言ってのけたその人は、とても美しい海賊だった。


 血染めの海賊旗をなびかせてブラッディ・ロジャーが町にやって来てから数日が過ぎた。数ヶ月ぶり……いや、もっとだろうか。待ちわびすぎて、どのくらい待ったのかも忘れてしまうほどにひさしぶりの来訪だった。

「ここに来たらぜってえ会いに来るって決めてんの」

 この町に滞在するとき、ティエラはそう言って私の部屋に入り浸る。
 入り浸る、といっても彼は部屋にいないことがほとんどだ。たいてい太陽がいちばん高いところに昇る頃に部屋を出て、お酒の匂いと甘い香りをまとい夜遅くに帰ってくる。私の部屋を宿かなにかと勘違いしているのかもしれない。

「ねえ、そろそろ入りなよ。風邪ひくよ」

 バルコニーから町を眺めているティエラに声をかける。今日は部屋に来てからずっとこの調子だ。お酒の匂いも甘い香りもしなかった。
 隣に立って同じように町を眺める。高台にある私の部屋からは、町と海が一望できた。遠くのほう、海に近い暗闇の中にぽつぽつと橙色の灯りが見える。風に乗って酒場のおじさんたちの声が聞こえてきた。今日も変わらず町は賑やかだ。

「どうかしたの?」

 尋ねてみる。明日発つことになったと、ティエラは言った。

「……そう」

 海賊は気まぐれな生き物だ。突然ふらりとやって来て、またふらりといなくなる。こっちの気持ちや予定なんて、まったく関係なく。

「次はいつ帰ってくるの?」
「あー……どうだろうな。クリス次第かも」

 遠くを眺める横顔はやっぱり美しかった。夜風で微かに揺れる濡羽色。切れ長で、青みがかった瞳。その中に映る景色に、言いかけていた言葉を飲み込んだ。

 ティエラの瞳には、海が映っていた。彼はずっと、海を眺めていたのだ。町ではなくて、その向こうに広がる海を。
 月光と星明かりしかない中でも、ティエラの瞳はきらきらと輝いて見えた。明日からの航海が待ちきれないと、瞳が語っていた。
 海の男の顔だ。血と火薬の臭いを求める海賊の顔。美しさの中に荒々しい本能が垣間見えるティエラのこの顔がとても好き。けれど同時に、すごく苦しくなる。
 勝てないと思ってしまった。ティエラの身体はここにいるけど、魂はきっと船の上か、海にあるのだろう。私は、海には勝てない。

「……気をつけて。また会えるのを楽しみにしてる」

 当たり障りのない言葉を選んで伝える。行かないでとか、寂しいとか。そんな想いはきっと、海賊として生きる彼の重荷になってしまうから。好きだからこそ言えない言葉があるなんて、誰も教えてくれなかった。
 ティエラがこちらを向く。柔らかく細められた目。ごつごつした大きな手が頬に触れた。

「行ってくる」

 私は海が好き。海に愛されたこの町が好き。だけど今、この瞬間、彼を送り出すこのときだけは。彼の愛する海が、どうしようもなく憎くて大きらいだ。