仲直りのキスまであと数秒
「HiMERUくん、怒ってる?」肩口に埋められた勿忘草色に問いかける。
「……いえ」
たっぷりと間をあけて返ってきた小さな声。背中にまわった腕にぎゅっと力が込められた。
そっと息を吐く。部屋にやってきてからHiMERUくんはずっとこの調子だ。なにか話すわけでもなく、先に進むわけでもなく、ただこうしてずっと、彼の腕と香水の香りの中に閉じ込められている。
HiMERUくんがこんな風になるのは初めてだった。いつもはどちらかというと、スマートでかっこいい彼に私が甘やかされているほうで。だから、この状況が彼に求められているみたいで嬉しいと感じているのは事実。でもそれと同時に、なにかあったのではないかと心配になっている自分がいるのもまた事実だった。
「じゃあ、なにか嫌なことでもあった?」
「……いえ」
再び問いかけてみるけれど、返ってきたのはさっきと同じ返事。「気づいてほしい」とでも言うようにまた腕に力が込められた。
もしかして、私が無意識になにかしてしまったのだろうか。
朝起きてから帰ってくるまでの一日を振り返ってみる。今日はいつものようにシナモンに出勤していて、ランチタイムのピークを過ぎたあたりにこれからレッスンだというCrazy:Bのメンバーが椎名くんを呼ぶついでに昼食をとりにやって来た。
HiMERUくんとはそのとき少しだけ話したけれど、あのときはまだいつも通りだったはずだ。それから別のお客様に呼ばれて、それから……
「……ミョウジさん」
「はい」
「あの男性は、誰ですか」
誰のことだろう。ピンとくる人がいなくて首をかしげる。しびれを切らしたように、HiMERUくんが口を開いた。
「手紙、渡されていたでしょう」
「手紙……ああ!」
頭の中に昼間のシナモンの光景が思い浮かんだ。
そういえば、HiMERUくんたちが来てしばらくした頃、最近よく見かける別のお客様に呼ばれて「あなたのファンだから」と手紙を渡されたのだった。
「いけない、すっかり忘れてたわ。ふふ、でもおかしな話よね、私はESビルで働いているけれど、アイドルでも何でもないただの一般人なのに」
あの手紙、どこに入れたかしら。トートバッグに伸ばした手をぐっと掴まれてHiMERUくんを見る。不機嫌そうな蜂蜜色が黄昏の海のように揺れていた。
見つめ合うこと数秒、「すみません」と手が解放される。ばつの悪そうな顔。これは、もしかして。
「……嫉妬してる?」
「ちがいます」
今度は間をあけずに返ってきた返事に思わず笑ってしまう。
「HiMERUくんって、実はけっこうわかりやすいわよね」
「だからちが……はあ、もういい」
いつもの涼しげな顔はどこへやら、つん、とそっぽを向いてしまったHiMERUくんの肩に頭を預ける。
「そんなに心配しなくたって大丈夫よ。私が好きなのはHiMERUくんだけだから」
ゆっくりと蜂蜜色がこちらを向いて視線がぶつかる。彼の細い指先が私の指先と絡まって、そっと目を閉じた。