気がついて、気がつかないで
視界の隅で勿忘草色が揺れた。とくんと心臓が音を立てる。彼かしら……ううん、別の人かも。でも、あの色を持つ人物を、私はこのビルの中でひとりしか知らない。
少しずつ早くなる鼓動に落ち着けと言い聞かせながらゆっくりと顔を上げる。店の入口に予想通りの彼が立っていた。
「こんにちは、ナマエさん」
「HiMERUくん。こんにちは」
目の前のカウンター席に座ったHiMERUくんはいつものようにコーヒーを注文した。
「ごめんね。椎名くん、今買い出しに行ってるみたい。天城さんと桜河くんも今日は来てないよ」
厨房を確認してからそう言えば、HiMERUくんは「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
「今日は椎名たちに用があって来たわけではないので」
「あら、そうだったの。今日もCrazy:Bの集まりがあるんだと思ってた」
HiMERUくんや椎名くんが所属しているユニットであるCrazy:Bはよくここシナモンで集まっている。集まる理由は麻雀だったり作戦会議だったり、いろいろ。店長さんは少しうんざりしてるみたいだけど、私は彼らのことも、彼らの集まるこの店のことも好きだ。ファンだから……というのももちろんあるけれど、いつだって賑やかで楽しそうな彼らの会話を聞いていると、明るい気分になれるから。
(それに……)
コーヒーを飲みながら台本に目を通しているHiMERUくんをそっと盗み見る。
Crazy:Bがシナモンに集まってくれたら、なにか特別な理由を作らなくても彼に会うことができるのだ。一般人の私でも、何気なく、普通に。だから、彼らがシナモンをたまり場にしているのは私にとっては好都合。なんて、他人には絶対に言えないのだけれど。
ふわり。エアコンの風で勿忘草色が揺れた。コーヒーの香り。ゆったりしたBGM。すぐ近くに大好きな人。
幸せだなあと思う。なにか会話をしているわけでもなく、ただ近くにいるだけ。それだけなのに、甘い気持ちでいっぱいになって、泣きたくなるくらい胸が苦しい。
ああ、もういっそぜんぶ伝われば良いのに。得意の推理でぜんぶ気づいてくれたら良いのに。こうして近くにいられるだけで幸せなのに、ついそう願ってしまう。HiMERUくんと出会ってから私は昔よりも欲張りになった気がする。
「ナマエさん?」
「えっ」
「大丈夫ですか?」
拭いていたグラスから顔を上げる。蜂蜜色がこちらを見つめていた。ミステリアスでときどき何を考えているかわからない瞳。その中にわずかに心配が滲んで見えて、慌てて首を振った。
「大丈夫だよ。夜更かししたからかな、ちょっとぼーっとしちゃった」
「……それなら良いのですが。無理はしないでくださいね」
「うん。ありがとう」
再び台本に戻った視線に、気づかれないように小さく息を吐く。
ああ、今日も心臓の音がうるさい。