バレンタイン
鏡の向こうの不思議な世界に迷い込んでからそれなりの時間が経ったと思う。いつもどこかこの世界を夢の中にいるような感覚で過ごしていたけれど、それも少し前から変わっちゃった。
あのライムグリーンの瞳が、薄い唇が、あたしを呼ぶ声が甘く焼きついて離れない。
そんなに周りが言うほど鈍感じゃ……ないと思いたいあたしは、その意味がなんなのか、この忙しない胸のときめきの正体がなんなのか、薄々気づいていた。
だから……チョコレートを作ろうかなって、思ったんだ。グリムやりたたちにあげる友チョコとも、義理チョコとも違う、その……いわゆる──。
(本命チョコってやつを……! なーんて、思ったこともあったなぁ〜!!)
ぐぬぬと唇を噛むあたしが過去形で思っているのは、そうしようと思ったのはいいけど、本命チョコなんてろくに作ったことないのもあって、どれにしようとか、そもそもツノ太郎チョコとか食べるのっていう初歩的なところで躓いたっていうか……。
だってツノ太郎ってばいっつもあたしに「これを食べてみろ」とか「これはどうだ」とか「ふむ……これはだめなのか」とか餌付けするばっかりで「ツノ太郎は?」って訊いても「さぁな」ってはぐらかされるし、かろうじて聞けたかと思えば「……ホールケーキは嫌いだ」なんだもん。
ホールケーキ嫌いってどういうことって思うじゃん。一人で食べるつもりなのそれって頭の中でぐるぐるしてたらいつの間にかツノ太郎はいなくなってるし、ケーキ自体だめなのかなーって思うと作ろうにも絞られてくるし……。
で結局そんなふうに考えてたら当日だし!
なんにも用意できてないあたしの手にあるのは、ホワイトチョコレートだけ。ミルキーな味であたしは結構好きだけど、ツノ太郎はどうなのかな。いや、このままこれ渡すのもどうかと思うけど……。
本命チョコは見送りかなって思いながらオンボロ寮まで帰っていると、不意に影がさす。顔を上げるとそこにはどこか不機嫌そうなツノ太郎がいた。
「ツノ太郎……?」
どうしたのってあたしが尋ねるより先にツノ太郎が口を開く。
「あいつらには随分と良いものを贈っておきながら、僕には何もないのか?」
「え……?」
「僕とお前の仲だというのに……?」
ぐいっと顔を近づけられて、その近さに思わず後ずさると、背中に腕を回されて逃げ道を塞がれる。「どっひぇ〜!」と思わず出た声は随分と情けなかった。
ライムグリーンの綺麗な瞳が何かを待つようにあたしを見つめてくる。あいつらってことはたぶんグリムとかりたとか、エースにデュースたちのことだと思うんだけど、いつどこで見られてたの〜!と上げかかった心の悲鳴を噛み殺しながら、あたしは仕方なくホワイトチョコレートを差し出した。
「……これは?」
「ホワイトチョコだよ。あたしのいた世界じゃお世話になってる人とかにチョコレートを渡す日なの。ツノ太郎が気に入るかわかんない、け……ど……?」
あたしが言い終わるより早く、ツノ太郎はひょいっとあたしの手からそれを掻っ攫うとすぐに包装紙も銀紙も破いてばくりと口をつける。
バリバリと食べていくツノ太郎をあたしはただぽかんと口を開けて見つめるしかなかった。
「ふむ……妙に甘さの残る、独特なチョコだった」
「そりゃあホワイトチョコだし……だいぶ普通のよりミルキーだと思うよ……」
そんな一気食いするようなものでもないと思う。変なツノ太郎って思っていると、ツノ太郎は不意にあたしを見て、それから訳知り顔で口にした。
「なるほど。道理でお前とよく似ている」
「……え?」
それってどういう意味って言葉にしなくても顔に書いてあっただろうあたしの髪をツノ太郎はそっと手にとって、さらりと流した。
「つまり、僕がお前の一番ということだろう?」
白いチョコレートをもらったのは僕だけだったと微笑むツノ太郎にあたしは二拍置いてぼんっっと熱を爆発させた。
そういう意味でチョコを選んだわけじゃないのに、気持ちは否定できないから何も言えなくて、ただパクパクと口を開閉させるだけのあたしを見つめるツノ太郎の顔は、びっくりするくらい満足そうで、あたしはまた、余計に何も言えなくなってしまう。
(そうじゃない、なんて……言えるわけ……)
『なるほど。道理でお前とよく似ている』
それってどういう意味って聞く勇気もないや。ツノ太郎のことがよくわからない。でも、あたしの中のこの爆発しそうな気持ちは、もっとわからない。
初めてのこの気持ちに戸惑いながら向き合い始めたばかりのあたしは、きっとまだ、まだ、このライムグリーンの綺麗な瞳に振り回されるんだろう。
(気づかないで、まだ……あたしも、いっぱいいっぱいだから)