Twisted Dreamland
敗北は、あまりにも静かに訪れた。空を覆っていた雷鳴はいつの間にか消え、夜を裂いていた魔法の光も、全て沈黙している。遠く深く、空よりも彼方で、緑色の閃光が冷たく輝いていた。
「ふ、な……逃げろ……子分……」
「グリムっ!」
小さな体。大きな口からはもうほとんど空咳しか出ていなかった。よたよたと、足元は覚束ない。立っていることすらままならず、それでも大事な子分である皙を護ろうとグリムは最後の力を振り絞りながら、あらん限りの魔力をその炎に集束する。
「逃げろ」とグリムが声をあげた。反射的に『いやだよ』と叫びそうになる皙に、すでに地面に倒れ伏していた親友たちがそっと背中を押した。
「グリムの言う通り……しろだけでも、逃げるんだ……っ」
「デュース……!」
「今回ばかりは同感……全滅だけは……避けなきゃっしょ……」
「エース……!」
すでに二人ともボロボロの姿だった。呼吸すらままならず、魔力は空っぽ。護衛は愚か、これではお荷物になってしまうだろう。そうなる前にグリム共々どうにか逃がしてやりたいところだったが、それすらも上手くはいってくれなかった。
「うう……しろさん。『S.T.Y.X.』と合流して、立て直すんだ……外には、まだマレウス・ドラコニアさんに対抗できる魔法士が、4人いる……理論上は、ね。だから、まだ希望は捨てちゃだめだ。ここで得たマレウス・ドラコニアさんのデータを……状況を、君に伝えてほしい」
「オルト……」
本当はそれが優しい嘘なのだということを皙も分かっていた。離れられないでいる自分を逃がす口実に過ぎないのだと。皙だって分かっていた。
「頼んだ、しろ」
「まっ、持久走びりけつのしろには大役かもしんないけど? ヴィル先輩の扱きと比べたら十分可愛いもんっしょ。……大丈夫だって」
「そりゃそうだべや……ヴィルサンの指導はマジフト部の練習量ど大差ねはんでね……しろサンだば行けるってわーも信ずでら」
「お前がやるときはやる奴だってのは……とっくに知ってるぜ」
聞きなれたはずのみんなの声が、ずっと優しく感じた。皙は涙で霞む視界の中、何度もうん、うん、と頷く。もう時間がなかった。グリムの青い炎が力強く燃え上がる。
「行け! 子分!! 絶対に振り返るんじゃないんだゾ!!」
「っ……絶対に! みんなを助けに戻るからねっ! 絶対だからねーっ!!」
堪えたはずの涙がボロボロと溢れ出す。大切な、大好きな人たちが倒れ伏した地面を皙は必死で蹴った。「小賢しい」低く、冷たい氷のような声が、不機嫌に囁く。逃げる皙を追うように迫る影を、そうはさせまいと親友が、先輩たちが立ち上がる。動かない身体を押して、空っぽの魔力で、それでも。
「悪ぃけどさァ、そっちは通行止めっスよ」
「小エビちゃん追いかけるのもいいけど、オレらもまだやられてないし?」
「同感です、フロイド。デザートには些か早すぎます」
「ここで男を見せなきゃダサすぎでしょ!」
「マレウス! これ以上後輩たちには手を出させないぞ!」
「ここから先は通さない! 絶対に、何があってもだ!!」
「ボーテ! 200点! 幾重にも折り重なり見事な花を咲かせる薔薇のように、私たちの意志は何よりも固く、美しい!」
もう魔法が使えなくても。この手で、足で、マレウスを引き留めようと次々に束になって向かっていく。邪魔だと鬱陶しがるマレウスが一人また一人と弾き飛ばす。
絶対的な力量差がそこにはあった。苦しげな呻き声に自分を呼ぶマレウスの声が聞こえる。思わず振り返りそうになる皙に、この大いなる冒険を共にした仲間の声が投げかけられる。マレウスの忠実なる従者。真の忠臣。ディアソムニアの双翼がそこにはいた。
「振り返るな、監督生」
自らの出生の秘密を知り、愛する人たちのために立ち上がった白銀の騎士は、そう穏やかに口にした。
「何を躊躇している!! 貴様のやるべきことは何だ!? まさか、僕たちが無様に膝をつき、志半ばで首を垂れ、敬愛する主君の偉大なる過ちを説き伏せられないまま、諦めるとでも思っているのか!?」
春雷の如き雷迅は、旅の中で自らと深く向き合い、その忠誠を新たにした。故に、雷のような怒りは眩い光を放ち、人々を鼓舞する。
「そんなことはありえない!! 何があろうと、必ず僕たちはマレウス様をお救いしてみせる!!」
「ああ。必ずだ」
それは夢幻の旅の中で育まれた信頼と約束の印だった。
――どうして、自分を逃がすための嘘だって、一瞬でも思っちゃったんだろう……? まだ、こんなに諦めてないのに……!
「ありがとう! セベク! シルバー先輩!」
――あたしも、自分のやるべきことをしなくちゃ……!!
走り出すのは同時だった。振り返る必要はもうない。同じ方向を、同じ未来を描いていることが、もう分かっているから。
「マレウス様!」
「若様!」
「……まだ僕に抗おうというのか」
蔓延る茨がマレウスに近づくことを拒絶する。皙へと伸びる茨が焼かれ、砂へと変わり、静かに溶けていく。
「通さないと言っているだろう!」
「そんなにあの草食動物が気になるみたいだな?」
「残念だけど、無様に追いかけるだけのしつこい男はモテないわよ」
「悪いが俺にも意地があるんでね。蛇ってのは執念深い生き物なんだ」
「フフフ……力比べなら少々自信があります。こうなっては致し方ありません。少し試してみましょうか」
「フヒッ、フフフ……ピンチこそ最大のボルテージ……絶体絶命? こちとら何度もそうやってその度に
ほとんど解きかけのオーバーブロットフォームが並び立つ。けれどその瞳は、マジカルペンに戴いた魔法石のように鋭い煌めきを湛えていた。
愛する者を失うことのない、理想郷を体現するマレウスの夢と、彼らの意地と誇りが真正面からぶつかる。激しい戦闘音をバックに、皙は必死に走る。
クロウリーの指揮と教師たちの魔法が援護してくれた。遠ざかる皙の背中。離脱したのを確認したエースの身体がぐらりと傾いた。
「あーあ……結局ダメだったかぁ……。こんだけキツイ思いも……怖い思いもして……」
「エース……」
静かに近づく踵を鳴らす音。自分たちがこれから何をされるのか、聡いエースは分かっていた。あのマレウス・ドラコニアに挑むことが何を意味するのかも、このビジョンだって数えきれないくらい脳裏に浮かんだ。やっぱり無理だったなと思いながら、近づくその影に、エースはぐしゃりと表情を歪ませる。
「あ〜、クソッ。悔しい、なぁ」
再び暗く、深く、理想郷へ沈む前に見たマレウスの表情は、無感動なものだった。彼はそっとエースの夢を捻じ曲げる。より理想に近づくために。
これは夢だ。マレウスの、マレウスによる、マレウスのための。
激しい戦闘でマレウスも魔力を消耗した今なら、『S.T.Y.X.』の持つ力で、一瞬であれば厚く覆われた結界をこじ開けられるかもしれない――。
それは暗闇に一本の蜘蛛の糸を垂らすような、そんな僅かな希望だった。増援を見込めるものではなく、たった一人だけをこちら側に引き戻せるかもしれないという、そんな可能性未満の話。
有事の際は、皙とグリムをそうやって逃がすことができるようにと組み込まれていたのだろう。本当にそうなってしまうだなんて、皙は思いもしなかった。そこに、グリムがいないことだって。
(絶対に、助けに行くからね……!!)
乱暴に浮かんだ涙を拭って、『S.T.Y.X.』が境界をこじ開けるのを待つ。不意に、妙に馴染みのある香りがふわりと漂った。あ、と気づいた時にはもう遅い。
「どこへ行く?」
後ろから回された抱擁は、その声と同じように柔らかで、穏やかなものだった。「ツノ、太郎……」乾いた声が喉から零れ出た。
「人の子はまだ遊びたい盛りだろうが――少し、おいたが過ぎるぞ」
バチリ、と緑色の閃光が飛ぶ。鋭い雷鳴が『S.T.Y.X.』の砲撃を丸呑みする。粉々にされた機体。より強固に覆われる茨。詰みだった。
「ぁ……ああ……」
絶望に震え、嗚咽を零す皙が寒がっているように見えたマレウスは、温めるようによしよしと両腕で囲う。そうして子守歌でも歌ってやるように、片手で皙の両眼を覆い、夢の世界へと誘った。今度こそ、彼女もいい夢が見られるように。決して、離れないように。理想を紡ぐ。
「お前が帰る場所は……いつだって僕の腕の中だ」
彼は歌う。どこかで聴いた、あの子守唄を。
彼は壊す。愛しい者を隔てる、憎き鏡を。
彼は描く。橘花皙は、
彼は嘆く。別れは辛いと。
彼は紡ぐ。そうならないためには、こうするしかないのだと。
ひとりぼっちの孤独な王子様。そうして世界の敵になっちゃった。
お姫様のキスでこの夢は醒めるのだろうか。それは誰にも分からない。鏡の向こう。捻じれた世界。バッドエンドへ、いらっしゃい――。
フライパンの上でじゅわりとバターが溶けていく。よく溶いた卵を流しいれて、軽くかき混ぜながら、皙は昨日の残り物のスープを温めた。
トーストが音を立てて焼きあがると、ちょうどグリムがベッドから起きてこちらにやってきた。
「ふな〜……おはようなんだゾ、しろ」
「おはようグリム! ちょうど朝ご飯できたよ。一緒に食べよう!」
「くんくん……わぁ、ベーコンのいい匂いがするんだゾ〜! 食べる食べる! 今皿を持ってくるんだゾ!」
二人分の皿を用意して、トーストとスクランブルエッグ。それにサラダとスープ、ヨーグルトを添える。『いただきます!』と元気な挨拶をして、共に朝食を囲む。
そこに来客を知らせるベルが鳴ると、グリムははぁ、と息を吐いた。
「きっとまたアイツなんだゾ……オレ様、もうアイツがオンボロ寮の寮生だって言われても驚かない自信があるゾ……」
「あはは……ちょっと見てくるね」
返事をしながらパタパタと駆けていく皙の後姿をグリムはやれやれと見送る。
「新婚に挟まれる気分って、きっとこういう感じなんだな……」
あーむ、と大口を開けてサンドイッチにしたトーストを飲み込む。いつも通り、美味しい食事にグリムの頬は一瞬で緩むのだった。
「おまたせ……あ、やっぱりマレウスだった!」
ごく自然に皙の口から出る「いらっしゃい」と「おはよう」にマレウスの表情が僅かに綻ぶ。満足げな様子で「今日も馳走になりに来た」と笑う彼を、皙は馴れた様子で中へと招き入れる。見慣れた姿にグリムはやっぱりオマエかという顔をしながらも、特段嫌がるような素振りはなかった。むしろこれもオンボロ寮の朝の風景だと受け入れてすらいるようだ。
当たり前のように皙の隣りに座るマレウスの分の朝食を用意して、食事を再開する。空になっていたグリムのグラスにたっぷりとミルクをそそぎながら、皙がマレウスに声をかけた。
「そういえばマレウス。今度の実践魔法の試験なんだけど、まだ上手く使えなくて……ちょっと後で見てくれないかな?」
「ああ、かまわない。復習とは言わず、いくらか先の予習まで見てやろう。何、遠慮することはない。普段こうして世話になっている礼だ。リリアにも自分の得意分野を発揮する機会は大事にしろと言われている」
「(それとこれとは、ちょっと違う、ような……?)あ、ありがとう、マレウス。助かるよ」
少し頼む予定が予習まですることになってしまい、皙は内心で口元を引きつらせながらもにこにこと笑った。魔法の発現が入学直前と遅かったせいで、皙は魔法の扱いがあまり得意ではない。こうしてマレウスに見てもらえるのはとてもありがたかった。
(それに……マレウスと勉強できるのも嬉しいし……いいこと、だよね……?)
不意に目が合うと、マレウスはふっと微笑みかけてくれる。高鳴る胸の意味が何なのか、皙も薄々気づいていた。
幸せだ。毎日が、当たり前の幸福に満ちている。大切な相棒がいて、好きな人がいて、友達がいて。バカ騒ぎをする毎日がただただ愛おしかった。
「そうだ! お礼にっていったらなんだけど、マレウス、何か食べたいものとかある?」
「? それではお礼のお礼になるのではないか?」
「ええっと、そう、なるのかな……? でも、魔法を教えてもらうんだし、大したお礼にはならないかもだけど、これくらいはお応えできたらいいなと……」
「ふむ……」
あたしが作れるものだといいんだけど、と口をもごつかせる皙は、どこか小動物のようだった。お城の豪華な食事に慣れているマレウスに、連日庶民的な食事を提供しておいて何だが、こうして改めてリクエストを聞くと少しだけドキドキした。
手を顎にあてながら思案していたマレウスは、ほとんど反射的に何かをぼそりと呟く。
「……ご……」
「え?」
「ああ、いけない。
静かに伏せた瞼が、何だか悲しげで。皙は思わず「マレウス……?」と声をかける。すぐに彼は「何でもない」と首を振って、気を取り直したように新たな提案を口にした。
「いつも通りのものでかまわない。僕は、しろが作る家庭的な味が好きだ。温かかくて……何より贅沢に感じる」
「贅沢って……そんな大袈裟な……」
「謙遜することはない。僕はこれが、毎日食べたいくらい気に入っている」
「そ、それって……」
急に顔を赤くして口を噤んだ皙を、マレウスが不思議そうな表情で見つめる。どうかしたのかと問う彼に、皙は何でもないと笑った。
平和な日々だった。穏やかで、柔らかい日々だった。
ガヤガヤと、外から騒がしい声が聞こえる。あの雷のように轟く声はセベクだ。エースとまた何かを言い争っているのだろう。もう登校の時間らしい。
「洗い物ちゃちゃっと片づけちゃうね!」
「僕がやろう。魔法でやればすぐだ」
「どわっ!? あ、あたしも生活魔法くらいは使えるよ〜! セベクにまたマレウスに雑用させたって怒られちゃう〜!」
慌ただしい一日が、今日もはじまる。
とっくに見慣れたオンボロ寮から校舎までの通学路。
無邪気に、温かに笑いかける彼女に、マレウスは問いかける。
「しろ……お前は今、幸せか?」
「――うんっ、とっても!」
「……それならいい。それなら……」
――紡いだ甲斐が、あったというものだ。
回る回る、糸車。千年続く夢を、彼は独り紡ぎあげる。
『ツノ太郎』
そう自分を呼んだ彼女の声が、いつかは思い出せなくなるのだろう。あの温かな優しい味わいも。全て。
けれど、それがどうしたことだろう。愛しい者を失うことよりも、辛いことなどどこにもないのだから――。
(これで……よかったんだ。これで……僕は誰も、失わない)
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CONTINUE?