はらはらとと降りしきる粉雪が市女笠に舞い落ちる。吐く息は白く曇り、踏みしめた足は雪の冷たさを伝えてくるばかりで草履など全く意味をなさなかった。
「はぁ……寒……っ」
凍えるような寒さに皙はかじかんだ指先を温めるように息を吹きかける。両手を擦りながらも冬でも採れる貴重な山菜を皙は休むことなく籠の中へと入れていった。
庶民の冬越しはいつも大変だ。薪は自分たちで割っていくしかなく、炭なんて貴重なものはそう無駄遣いはできない。気候だけなら夏とそう大差はないが、実りのある作物が手に入る夏とは裏腹に、冬は実りが少ない。そこらに生えている山菜すら珍しく、一年中育ってくれるノビルはよく庶民の間で重宝されていた。
「よしっと。とりあえずこれだけあればいいかな。風も強くなってきたし、早く帰ろっと」
帰ったところで暖をとれるかというとそうとは言えないのが悲しいところであったが、ただの村娘の生活などそんなものだ。笠に積もった雪を軽く払い、家路を辿ろうと皙が歩いていると、不意に前方に人影があった。
「? 人……?」
それにどこか違和感を感じたのは皙の第六感が働いたからか、はたまたその人影が今までに見た誰よりも大きく、また、この雪の降りしきる景色の中に似つかわしくないほど薄着で佇んでいたからだろうか。その人影に近づくほどその輪郭ははっきりとして、何を見ているのだろうと思った皙が視線を辿れば、そこには薄く氷が張った湖があったのだから、皙は何だか嫌な予感がして慌てて駆け寄った。
まさか、という可能性が過ってしまうのは、自分が何かと不運や面倒ごとに巻き込まれやすい体質であるのを嫌というほどしっているからだ。たまたま山菜を採りに来ただけだが、皙はこの不可思議なその男を放っておけはしなかった。それが、運の尽きだとも知らずに――。
「あ、あの! 大丈夫ですか!? って……うわっ! わっ! ぎゃあああ!!」
草履と着物でただでさえ動きにくい姿だ。皙は時折雪に足を取られそうになり、そしてついにつんのめって転び、そのまま転げ落ちて薄氷の湖へどぼんと沈むはずが、不意にがっしりとした手が皙の腕を取り、それ以上転がるのを静止させた。
「これは随分と落ち着きのない小娘だな」
凍った湖へと向けられていた翡翠の双眸が皙をじっと見つめていた。まるで温度を感じさせない、宝石のように冷たい輝きを放っている。皙はその瞳に魅入られるように暫し呆然としていたが、自分の置かれた状況にはっとし、どわっと焦った顔をすると急いで離れた。
「す、すみません! 助けていただいてありがとうございました!!」
「何。大したことではない。僕の身体と違い、その脆弱な肉体ではあの湖の肌を刺すような冷たさには耐えられないだろう。目の前で死なれるのは些か気分が悪い。せっかくの冬景色も一気に台無しになってしまうだろう」
「は、はぁ……」
皙には彼の言葉の半分も理解はできなかったが、ややあって『もしかして今……景色の方を心配されたの……?』と思い至り、分かりやすく顔を引きつらせた。
こうしてよく見てみれば、彼が着ている着物は随分と薄く、夏に着る寝間着のような軽いものであった。見るからに寒そうで、むしろこちら側が凍えそうだった。笠も被らずにいる彼の頭や肩には雪が積もっている。随分と長いことここでこうして佇んでいたのだろうか。よくよく見ると彼の顔色は随分と青白く、袖から覗く手にすらも血が通っているのか怪しいほどであった。
「あ、あの……寒くないんですか?」
「寒い? そんなものは感じたことがない。それを感じる心は僕にはないからな」
「そ、それって……」
彼は真実のみを口にしていたが、皙にとってそれは死の前兆を嫌でも彷彿させた。人は驚くほどに脆い生き物だ。冬を越して雪解けの春を迎えるまでにその多くの命が花びらのように散っていく。感覚がなくなるというのはそれだけ恐ろしいものであった。
「ちょっ、ちょっと失礼します!!」
「! 何だ――」
さっと素早い動作で頭に積もっていた雪を払うと、そのままガバっと自分の被っていた市女笠を彼に被せ、両手を取った皙は、その冷たさにぞっとした。まるで氷のようではないか。皙は必死になって彼の両手を擦り、温めるように息を吹きかけた。
最初は皙の行動に呆気に取られていた彼も、皙のその必死な様子を観察するように見つめ、初めて伝わる他者の温もりに何かしら感じるものがあったのだろう。静かに彼は垂衣越しにその翡翠の双眸を細めた。
「お前……名は」
「? 皙ですけど……」
「姓は」
「まさか。お姫様じゃないんだからただの皙ですよ」
見るからに村娘のそれだというのに、そんなことを聞く彼に皙は変なのと思う。随分と変わった人だと未だ温めている皙に「ふむ」と彼は何かを思案するように視線を逸らし、それからややもなく頷いた。
「わかった。また逢おう皙。次は僕が迎えに行こう」
「え……?」
その意味を皙が尋ねようとした瞬間、吹雪がやってくる。激しいそれに目を開くのもままならず、皙は思わず腕で顔を庇った。吹雪が止むと、彼の姿はどこにもなく、皙は何だか狐に化かされたような気持ちになった。
「な、何だったの……」
唯一今のが現実に起きたことかもしれないと思えるのは、被っていた市女笠が消え去り、猛吹雪であったはずのそれがちっとも冷たくなかったことくらいだろうか。何にせよ皙は釈然としないものを抱えながらも、今度こそ帰路を辿った。背中に背負った籠の中に、貴重な果物が忍ばせられてあったことを皙が知るのは、家に帰り、両親に「でかした!」と褒められてからであった。
もちろん心当たりのない皙は『私これ採ったかなぁ……』と頭を悩ませるのだったが、そんなことも一週間、二週間と経てば記憶の彼方へと忘れ去られていくのであった。
だがこういうものは往々にして忘れた頃にやってくるものである。皙がいつものように山菜を採りに行く用意を済ませ、家を出ようとしたところやけに外が騒がしかった。
何かあったのだろうかと顔を覗かせようとする皙の前に、その大きな影はずんっと姿を現した。
「どわっ!?」
「どわ、とは……庶民の挨拶なのか?」
「え……」
不思議そうな翡翠の瞳が皙を見下ろしている。その絶世ともいえる美丈夫の面持ちに皙は見覚えがあった。
「あ、あのときの!?」
うそ、夢じゃなかったのと顔にありありと書いてある皙に、彼はきょとんとしてぱちりと瞳を瞬かせた。
「約束しただろう? 迎えに行くと」
「迎えにって……え、待って……お貴族様だったの!?」
彼の出で立ちはあの時とは打って変わって一目でわかる高貴なお方の衣を身に纏っていた。丁寧に被衣まで被った彼は皙にとっては天上のお人そのものであった。
「それに倣いはしたが、僕はそれよりも高貴だ」
人の営みとは面倒なものだな。と口にする彼はどこか億劫そうに呟いた。彼にとって人の営みに近づくというのは皙にも想像できないような苦労があるのかもしれない。
彼は被衣を両手に取ると、それを皙にふわりと被せた。
「今日からお前はドラコニアの皙だ」
満足そうにそう告げる口元が弧を描く。
ドラコニア。それは古く伝わる龍神の一族だ。長い時を生きる彼らは俗世から離れひっそりと暮らしているものの、その影響は帝ですら無視できないものだ。
人ならざる彼――マレウスというらしい――の正体に色々と合点がいくものの、急展開についていけない皙は震える手でマレウスを指さし「な、なんで……」と呟く。
「ふむ。人の世ではこの感情をこういうのであったか。皙、お前を愛している」
歌とやらは回りくどすぎる。これで充分だろうとばかりに愛を詠うマレウスを前に、皙は顔を真っ赤に染め絶叫した。
「ええ〜〜〜〜っ!!!?」
ひょいっと肩に皙を担ぎ上げ、「ではもらっていくぞ」と呆然とする皙の両親へと声を掛けたマレウスはそのまま自らの城へと皙を招く。正しく嫁入りである。
未だ絶叫する皙にマレウスは口元を綻ばせた。
「それほど喜ばれるとは光栄だな」
「喜んでないから〜〜!!」
その言葉ですら、人の営みを僅かに学習した彼はこう結論を出す。嫌よ嫌よも好きなうち、と。
皙の受難は始まったばかりであった――。