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「はあ……先生、お疲れ様でした。」
「アンタもずいぶん骨が折れたみたいだね。おつかれ。」
「ああ……。みてたんですか。」
今日は珍しく県外に出張だった。新しくできた国定図書館の指導を頼まれたからだ。新人の司書の監査も仕事のうちだからそれについては文句はない。しかし、その新人というのが厄介で学生気分が抜けきらない軽薄そうな男だった。職員が男だらけの図書館でよほど飢えているのか、しつこくこちらの連絡先を聞いてくるものだから困った。結局でたらめなIDを教えたのだけれど、嘘だとバレたときの報復が怖い。
「助けに入れなくて悪かった。俺からも館長に掛け合って、もうここには来なくていいようにするよ。」
「すみません、助かります。先生も大変でしたね。」
「アンタに比べたら全然マシだ。」
わたしを気遣ってくれているのかなんてことないような返事を返してくれたけど、小林先生は先生で潜書の実践について指導するためにいつもの何倍も出ずっぱりで侵食者たちと戦っていたのだから疲れたはずだ。フードの影のせいかもしれないけれど、その顔色が良いとは思えない。
「今日は早く休みましょう。帰りの新幹線も早くはないからチェックアウトまではゆっくり寝れますよ。」
「……そうだな。」
ホテルに到着してフロントで鍵を受け取り、エレベーターに乗る。私たちの部屋は7階に、隣り合って用意されていた。チン、と音を立てて到着した小部屋に乗り込むとギィギィ、と不安になるほど唸りながら登って行く。
上がケチって予約したビジネスホテル、は安っぽく、細かいところにガタが来ている。フロントの掲示によると再来月末にホテルを閉めて大掛かりなリフォームをするらしい。大規模手術前の不調を体現したように、室内の常灯がチカチカ、チカと明滅を繰り返している。こんなにも死にかけなのに、誰もフロントに伝えていないのだろうか。ここのマシなところがあるとすれば、客室が神経質すぎるほど清潔であることだ。病的なまでに整った部屋の絨毯にコーヒーをこぼしても次の日には完璧にシミ抜きされているのだろうか。それとも、少し薄くなっただけの茶色い一点は、物悲しくわたしを迎えるのだろうか。まだできてもいないシミのことを考えていたら、いつのまにか目的階に到達していて、目の前の扉がぎこちなさそうに開いた。そういえば、小林先生も、あの小さな密室の中では無言だった。いつもはのろのろと鉄の箱が登っていく中途半端な時間を焦れるように雑談を交わすのに。それほど先生も疲れていたのかもしれない。
「それでは、小林先生。」
おやすみなさい、と挨拶するために振り返ったその時、ゆるく開けたドアごと、部屋の中に押し込められた。驚いて声を上げる間も無く口が塞がれた。間抜けに開いたままのそこに舌が差し込まれる。キスなんて生易しいものじゃない。歯が当たることも、鼻がぶつかることもお構いなしに口の中が余すところなく蹂躙される。酸欠になりそうなほどめちゃくちゃにされて、今にも倒れこみそうなのに、しかと背中を支え、腰を捕まえる彼の腕が許さない。溢れた唾液が頬を伝う感触が不快だと身じろぎした時、ようやく、小林先生は顔を離して目を合わせた。いつも穏やかな理知の光を湛えているトパーズ色の瞳が強烈な感情との狭間で揺れている。熱に浮かされたような視線は果たして、きちんと像を結べているのか。唇を濡らして、熱い息をついた小林先生が、急に恐ろしい獣に見えて、みぞおちのあたりが急に冷えるような心地がした。
「アンタは別に俺の女ってわけじゃない。」
普段より少し低い、唸るような掠れた声はよけいに腹を空かせた肉食動物を思い起こさせた。
「けれど、あいつがアンタを視線で舐めるたび、下卑た言葉を投げつけるたび苛立って仕方なかった。俺ならあんなあからさまな目はしない、もっとアンタに見合う綺麗な言葉でアンタを口説くのにって。こんなもの身勝手で一方的な感傷だってわかってる。下手したらあの下衆野郎より迷惑かもしれない。俺はアンタの仕事仲間だから。」
苦しそうな気持ちの吐露に私はひどく驚かされた。小林先生はいつも優しく親切で。しかもそれは敵意のない人には分け隔てなく。まさかこんな、特別な感情を持たれているとは夢にも思いはしなかった。
「……悪い。戸惑わせるようなことを言って。でも、余裕がないんだ、もう。」
再び口付けられる。
ただ触れるだけのキスなのに、小林先生の急き立てるような劣情が、触れたところから、その熱から、じんわり私に伝播していくようで、頭の芯がグラグラと揺れた。
「俺にアンタを、抱かせてくれないか。」
餓死寸前の獅子の前に立っているみたいだ。よく躾けられたこの獣は、許しを得たらたちまち私を食い尽くす。きっと骨までしゃぶられて朝日が昇る頃には後戻りできなくなる。
頭の中ではわんわんと「立場」だの「責任」だの大人として、人間としての言葉が羽虫のようにグラつく私を責め立てる。でも、でも……。群体になって追い詰めてくる言葉の奥からまっすぐ駆け抜ける感情がある。
「悪くない」
リスクは色々あるけれど、こんなにかっこうよくて、優しくて、誠実な人に恥ずかしくなるほど真摯に求められたことなんて初めてで、舞い上がるな、なんて方が無理だ。間違いなくこの先一生の中で印象深いイベントだろう。小林先生が現代に生まれた普通の人間でないこと、職場の人であることなんて見方によっては些細なことだ。それに、アルケミストが世間の倫理観に則るなんて今更だ。人が眉をひそめることなんて今までだって散々にしてきた。今少し、過去の人間とぐずぐずになったところでなんだという。こんなもの、禁忌と呼ぶには生ぬるい。少しの逡巡の後に完全に開き直った私は少し不安そうに俯いた小林先生の、胸の中に飛び込んだ。
それから暫くして、偶然立ち寄ったS県でホテルの近くを通りがかった。経営が破綻したのか、そもそもリフォームなんてしなかったのか。軋むエレベーターも多喜二さんと抱き合ったあの部屋も、跡形もなく。その一角は更地になっていた。
決定的3分間
2018/2/4