■ ■ ■
「はぁ……。」
目を通し終わった資料を置いて眉間を揉んだ。トラブル続きで溜まりに溜まった書類仕事の締め切りはもう二日後だ。慌ててとりかかっているものの、量が量だ。本題の前準備だけで随分時間がかかってしまった。高かった日は沈みかけ、窓の外から差す夕日は応接室を茜色に染めている。そろそろカーテンを閉めて明かりを灯そうとソファから立ち上がる。
「あっ!」
疲れていて鈍ったのか、袖をカップにひっかけてしまった。カナリヤさんと西の蚤の市でせっかく見つけたのに。咄嗟に伸ばした腕も虚しく、指先を掠めてカップは落ちていく。耳をつんざく破砕音を覚悟してぎゅっと目を瞑った。しかしいつまで経ってもそれは聞こえず、代わりに聞こえたのはゆったりとした声で唱えられた魔法の呪文だ。
「《インヴィーベル》」
そっと目を開くとコーヒーカップはふわりと浮いて行儀良く元の場所へ収まった。ほっとため息をついて顔を上げると嫋やかな微笑みを浮かべながら彼が歩み寄ってきた。
「ありがとうございます、シャイロック。」
「どういたしまして。おや、袖にシミが。」
シャイロックがキセルを軽く振ると瞬きする間に汚れは消えた。シミ抜きいらずなんて相変わらず魔法は便利だなぁ。なんて呆けていいたら、ふぅ、と形のいい唇から密やかなため息が漏れた。
「賢者様、随分お疲れの様ですがまだ続けるのですか?」
「そのつもりです。締め切りは待ってくれないので……。」
「感心しませんね。」
呆れているのか心配しているのか計りかねる、憂いを帯びたシャイロックの表情は部屋の薄暗さも相まって非常に婀娜っぽい。綺麗な人はどんな顔しても映えるから得だな。なんて考えながらやりかけていたことを思い出し、いそいそと大きな窓に向かう。窓の外に覗く太陽の輪郭は熱した鉄の様に溶けていた。
カーテンを留めているタッセルに手をかけた途端後ろから再びため息が聞こえた。
「確かに私は無用な奉仕を厭います。ですが、それくらいして差し上げますよ。賢者様のお手を煩わせることもない。」
また、あの呪文を唱える声がした。一拍置いて背後からシナモンやブラックペッパーのような香りを纏った白い煙が漂ってくる。それを合図に一瞬でカーテンは閉まり、手品の様に灯がついた。
「おお。」
ファンタジー映画のワンシーンの様な見事さに思わず感嘆の息を漏らして拍手をするとクスリと彼は笑った。
「賢者様がささやかな魔法でも目を輝かせてくださるから、私もついつい、乗せられてしまいますね。」
「以前にも言いましたが、自分にはできないことですから。でも、ちょっと反応が子供っぽすぎました?」
「いいえ。素直で可愛らしかったです。」
「え、えへへ……。」
文脈がどうであれ彼に可愛いと言われるのは心臓に悪い。熱くなった頬を隠す様に両手で覆って顔を逸らした。その視線の先にはさっきまで座っていたシングルソファと書類の置いてあるローテーブルがあった。しかし、なんだか様子が違う。出しっぱなしだったペンはペンケースに、広げられた書類は片隅に纏めてある。シャイロックが気を利かせて片付けてくれたのだろう。でも、またすぐ作業を再開して散らかしてしまうのだから申し訳ない。そろそろと顔の向きを直すと彼は変わらず涼しげな顔で微笑んでいた。
「シャイロック、片付けてもらって申し訳ないんですがまたすぐ散らかる……。」
「いいえ、数時間はあのままですよ。だって、あなたは今から暫し休むのですから。」
「えっ、」
一瞬呆気に取られてしまったが、シャイロックがキセルを持ち上げたことで気が付いた。彼はいつかのように魔法で眠らせてしまおうと思っているのだ。
「ま、ちょ、ダメ!」
思わず飛びついてキセルに口付けられない様自分の手で彼の口を覆った。咄嗟のことでつい大胆な行動を取ってしまった。目を丸くするシャイロックと手のひらに当たる吐息でハッとして、バンザイする様にパッと手を離した。自分のしでかしたことに激しくなる動悸を抑える様に早口で捲し立てる。
「本気で締め切りヤバいのでその、お気持ちだけもらっておきます!」
「いけません。」
今度はシャイロックが手を伸ばしてきた。後ろにのけぞったもの距離は稼げず、労る様な手つきで頬に触れられた。よく手入れされた肌は滑らかで、ほんの少し薔薇の匂いがする。以前、元の世界で買ったハンドクリームも似た様な香りだった、なんて場違いな考えが過ったら、重心がズレて胃が持ち上がる様な不快な浮遊感を感じた。
「うおっ!っとぉ!」
バカみたいに両腕をジタバタさせたのに、その甲斐なく足は滑り頭から倒れていく。頭への衝撃は仕方ない。この体制から受け身がとれるほど私は転びのプロじゃない。せめて舌を噛まない様に祈りつつ目を閉じた。
しかし、いつまで経っても衝撃はこない。なんだかデジャヴだ。それに加えて、なんだか温いのだ。
「危ないですよ、賢者様。」
シャイロックの声がさっきよりも近い。というか近すぎる。嫌な予感しかしない。さっきとは段違いに心臓がバクバクいっている。目の前の光景を見たら口から心臓が出ていってしまいそうで、目が開けられない。
「なまえ様?」
「……。」
「もう大丈夫ですよ。頭をぶつけたりしませんから。目を開けてください。」
「い、いや……。」
「おやおや、どうしてそんな我儘を?」
口調こそ幼児を諭す親の様に穏やかだが、これは絶対私の心中を推し測って面白がっている。年嵩の魔法使い達の心情を考えるのは容易なことではない。それでも少なくない時間を過ごしたから彼らのことを私なりに少しずつ理解してきたという自負はある。
「このまま私の腕の中で眠らせてしまいましょうか?私は賢者様にお休みいただけるのであればそれでも一向に構いませんが。」
……理屈と感情は別物だからシャイロックが私で楽しんでいるとわかった所で落ち着けるわけでもないが。しかも腰に回された腕にさらにグッと力が込められたものだから、もうたまらない。
「助けていただいた身で不躾なことは重々承知の上で申し上げてよろしいでしょうか。」
「どうぞ。」
先を促す彼の声には噛み殺した笑いすら滲んでない。いつ何時でも余裕のある態度を崩さないのはいっそ意地が悪い。オーエンの様にあからさまに嬲ってくるなら正面から抗議できるのに、こんな調子じゃ抗議したところで手のひらの上で優雅にワルツでも踊らされてしまいそうだ。
「手を、離してください。自分で立つので。」
お願いします、と蚊の鳴く様な声で懇願した。涙が滲むほど情けないけどこれが今の精一杯だ。
「嫌です。」
「嫌ですぅ!?」
あんまりにも無体な返事にびっくりして思わず、カッと目を剥いて聞き返してしまった。しまった、と思ったが時すでに遅し。自分がシャイロックに抱き留められたという事実をしっかり視認してしまった。
顔が近い、顔がいい、いい匂いがする、もう少しで自分の胸と彼の胴が触れ合ってしまいそうなほど近い、なんかもう頭が回らない。
拒否していた情報の洪水を受けて軽く目眩がする。もう無理。勘弁してください。
「やはり貧血気味ではありませんか?フィガロに診てもらうか休むか、どちらかはしてください。」
「はい?」
「賢者様、自覚がないのですか?先ほどからずっと顔色が悪いですよ。疲れが溜まっているのでしょう。何度も倒れかけますし、先程は気絶しかけていました。」
「いや、わたしはさっきの目眩はあなたの色気に当てられたものだと、てっきり……。」
「嬉しいことを言ってくれますね。ですが、賢者様を口説くのは別の機会に致しましょう。さぁ、目を閉じて。今度は力任せにして眉間に皺を寄せてはいけませんよ。」
「でも、わたし、仕事が……。」
「このまま続きを手につけてもたかが知れています。大人しく眠ってください。」
「こんな格好じゃ眠れません。」
「心配しなくとも賢者様を取り落としたりしませんよ。」
「そうじゃなくて……。」
「ちゃんと部屋まで運びます。」
「うーん、浮かぶ死体みたいにされるのはあんまり想像したくないです。」
「ひどい人。私はそんな粗忽者ではありません。もちろんこの腕で抱きかかえて差し上げますよ。」
「いや、余計に辞退しま……。」
「《インヴィーベル》」
話を聞いてくれ、と泣き落とすより先手を取られた。そもそも、その願いこそ無理なものだったのかもしれない。西の魔法使いは自由でいつだって自分に正直なのだから。
「おやすみなさい、賢者様。」
私を優しく見下ろすその瞳は、窓の外で落ちゆく夕日に似た色だった。