いたずらがすぎる
「あ、」知らずのうちに出ていた音は、自分から発されていたのだろうか。その顔を見て、おそらく自分も同じ表情をしていることを悟った。
「黛さんも収録でしたか」
「うん」
柔和な笑顔を浮かべ近づいてくる彼を見て、俺は早々に諦める。おそらくこの人は誰かと話したいらしい。収録が上手くいったとかかな、いつになく上機嫌な様子からはそこまで読み取れないけど。
「季節ボイス、自宅のマイクじゃ音質に納得できなくて」
先輩にアドバイスをもらって調整を重ねたマイクは、いざ収録で使うにはまだ気になる箇所が多すぎた。
「お金もらうわけだしね」
何度も何度も取り直す分、どんどん音質の粗が気になって、結局会社のスタジオで全部収録することにした。そのせいで今日はずっと室内に籠りっきりで、この人の存在に気づかなかったというわけだ。
へえ、と漏らされた感嘆に、目線を逸らす。
「黛さんのそういうところ、本当に尊敬しますよ。私も見習わないと」
予想に違わず、真っすぐな視線が突き刺さる気配がする。きらきらと星が散る瞳は、何年経ってもまぶしくて。たぶんまともに見れた試しがない。
「あーうん、ありがとう」
だから適当に濁して、切り上げる。もうすでにここから立ち去りたいという、居た堪れない気持ちが直下に穴を掘り始めていた。全身が痒い気もしてきた。なのに。
「良かったら乗っていきませんか」
「……え?」
彼の手のひらで音を鳴らしたのは、確かに車のキーだった。いつも乗り付けている、高そうな運転手付きの外車を思い出して首を振る。
「いいよ、まだ電車あるし」
一日スタジオに籠っていたとはいえ、時刻はまだ21時を回ったところ。普段ならちゃんと電車に乗って帰るまだまだ健全な時間だ。どう考えてもこの人の車に乗って帰るって選択肢はよろしくない。
「遠慮しなくていいんですよ」
「遠慮してないってば」
「夜も遅いですし心配ですから」
「ういはや葉加瀬さんでもあるまいし」
「今夜黛さんがちゃんと帰れたかどうか心配で、私は夜も眠れないかもしれませんね」
「過保護にも程があるんじゃない?」
「どうしてもというなら私にも考えがあります」
どちらも引かぬまま、押し問答が数秒続き、そして沈黙。
「はぁ」
張り合ってることすら馬鹿らしくなって、ため息が口をついて出た。
「……ハヤトさん相変わらず押しが強い」
「あっはは、ほら行きましょう」
いつも通りの声色で言ったつもりだったけれど、呆れが滲み出ていたのかもしれなかった。だってこの人があまりにもおかしそうに笑うから。
社員さんに挨拶をして、彼の一歩後ろに付く。外に出ると残暑の生ぬるい風が頬を撫でた。
「ちょっと歩きますよ」
てっきり本社の入口にでも、すでに車がつけてあると思っていたから少し変だなと感じた。その疑問は近くの立体駐車場に入った時に確信に変わる。
「え、もしかして自分で運転するの」
「言ってませんでしたっけ?」
迷いなく足を進めてシルバーの国産車の前で立ち止まり、手慣れた様子でロックを解除する姿に目を細める。
「聞いてない。てっきりいつもの車かと」
「ふふ、今日はもう遅いですからね、流石にこんな時間まで運転手を付き合わせるわけにはいきませんから」
「そういうところはしっかりしてるんだ」
「そういうところはって、そういうところはって……!」
焦っているような笑っているような声が、駐車場に響く。
「もうっ、誤解を招く言い方はやめてくれませんかねっ」
「はいはい」
ほら乗って。やさしい声と今までのやりとりをさりげなく躱して、俺は後部座席に乗り込んだ。彼が助手席を開けようと出した手を、ちょっと困った顔で引っ込める。ごめんね、俺ハヤトさんみたいにそこまで優しくないんだ。
彼が運転席に乗り込んで、やっと息を吐く。ブウンとエンジンが低く震えて、生ぬるい空気がエアコンに吸い込まれていった。
「それじゃあ動きますよ」
なめらかな滑り出しで、俺たちを乗せた車は夜の街並みへ吸い込まれていく。行き先は言わなくてもいい。ただぼうっと、窓の外を眺めていれば。
走れば走るほど街は静かになって、月が鮮明になって、影が濃くなる。
いくつか目の信号で止まった時、彼がちらりとルームミラー越しにこちらを見たのが分かった。
「こうやってると昔を思い出しますね」
言うと思った。
「そう?」
だから平然と言ってやるよ。
「昔って言ったって、そんな昔でもないでしょ」
顔を合わせていないのはここ数年の話だし。
「確かにそうですね」
たった数年で昔なんて言われても困る。
「まさか黛さんとこうしてまた話すことになるとも思いませんでしたし」
あんたを待ってたのはたった数年だから。
「あの頃みたいに一緒にゲームができるのも楽しいものですね」
施設の隅っこでコントロール握って。
「最近は私も年甲斐もなく、はしゃいじゃうんですよ」
僕の部屋を秘密基地みたいだって言って。
「今までは取引先ぐらいしかなかった交友関係も広がってきましてね」
また来ますねって言って。
「あの頃を思い出す楽しさです」
先に顔を出さなくなったのはそっちじゃん。
「……うん、そうだね」
窓に映る自分は、普段と何も変わらない凪いだ瞳のままだった。
再びすっと静かに車は走り出して、夜の街を走る。施設が見えてきた頃には、疲労がゆるい睡魔を連れてきていた。もう子供たちは寝ている時間だ。
「着きましたよ」
丁寧に入口に横付けをされ、またひとつこの人のやさしさに触れてしまった。
「ありがとう、助かった」
素直にお礼を口に出せば、心底嬉しそうな笑みを返してくる。それもまるで小さな子供が初めてお礼が言えた時みたいな笑みでさ。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
車が走り出すところも見ずに、施設の門をくぐる。静寂だけが俺を迎えてくれた。子供たちを起こさないように足早で自室に向かって。向かって。向かって。ようやくたどり着いたまるで秘密基地みたいな自室に滑り込んで、滑り込んだことを認識した瞬間に一気に脱力した。
「……っ」
固い木製の扉を擦った背中が痛い。握った拳が痛い。いたい。
ぐっと息が詰まるせいで、上手く呼吸が出来なくて。胸を叩くこれは、歓喜なのか絶望なのか、人生経験の乏しい俺には判断がつかない。
ただひとつわかったことは、神様は本当にいたずらがすぎる。ただそれだけだった。