夏はまだ始まったばかり
「きりーつ、きをつけー、礼」気が抜けた学級委員長の号令が教室に響く。ぼうっと空のままの席を眺めている間に、長ったらしい教師の話は終わっていた。
外は嫌味なくらい明るい青色で、夏休みだというのに半日も学校に閉じ込められて勉強をしている現実から目を逸らしたくなった。教科書とノートを鞄に放り込んで立ち上がる。
「あれ? イブもう帰んの」
すかさず、つるんでいるメンツが声をかけてくる。いつもなら誰もいなくなった教室でだらだらと喋ったり、誰かの家でゲームしたりする。だけど今日はそんな気分になれなかった。
「あーうん、だってこいついないし」
指した席は最後のチャイムが鳴っても空っぽのままだった。あぁ、と納得したように友人たちが口々にここにいないヤツを揶揄いはじめる。
「エクス、誕生日も安定の遅刻」
「遅刻どころかサボリじゃん」
「来ないのは珍しくね? なんだかんだ言っていっつも来るのは来る」
「確かに」
適当に相槌を打ちつつ、ひらひらと手を振って輪を抜けた。
「じゃ、俺は帰る」
「お疲れー」
まだまばらに学生がいる間を縫って階段を下りる。そわそわと浮足立つような雰囲気があちこちに充満していた。ぷわー。吹奏楽部が練習している音がどこからか届いては反響する。
教室を出たあとは誰にも会うことなく下足箱でローファーに履き替えることに成功した。いまフレンやメリッサに遭遇しても、相手するほどの気力がない。人知れずひとつ息を吐いて、外に飛び出す。飛び出して、すぐにげんなりした。
「うわ暑」
熱風とも言える風に、刺さりそうなほどキツい日差しに思わず顔をしかめる。じとりじとり滲み始める汗に、不快感がとまらない。
夏の朝は少し肌寒い上に、教室は冷房が効きすぎている。シャツの上に紺のベストを着てきたが、真昼間の今、その判断は間違っていたと確実に言えた。なにもこんな暑くならなくても。ポケットに突っ込んでいたAirPodsを取り出して、適当な音楽を流す。
さて、今日はどこで夜まで時間を潰そうか。頭にチラつく金色のせいで、いくつかある候補もあまり気乗りしない。こんなことなら涼しくなるまであいつらとダベってればよかった。
色々と考えながら校門を出ようとして、そう、出ようとして、目の前に突如現れた光景に開いた口が塞がらなくなってしまった。ラフなTシャツとチノパンに身を包んだ、今日一日見なかったそれが立っている。え、サボったんじゃないの。全く理解が追いつかず立ち止まったままでいると、それが不意にこちらを振り向いてパアッと顔を輝かせた。
「ヒムー!」
ぶんぶんと大きく手を振って俺を呼ぶ声がする。日差しにキラキラと反射する金髪が強烈に視界に焼き付いた。
「は? なんでいんの」
「このあと暇?」
「無視かよ」
「ねえねえ、このあと暇? 暇だよね? よし暇だな!」
「マジで何? てか勝手に決めんなって」
興奮気味にこちらの話も聞かずに捲し立てるエビさん。完全にブレーキがぶっ壊れた時のそれだ。気圧されつつもちょっと落ち着かせようとしたところで、俺の背後から怒号が飛んだ。
「おい!!! そこにいるのはエクス・アルビオか!? お前今日なにしてたんだ! 補講無断でサボリやがって!」
生活指導の先生が鬼のような形相で走って来るのが見える。掴まったらしばらく離してくれなさそうな勢いだ。それを察したのか、エビさんが一目散に逃げだす。
「やべーーーーー! センセに見つかった! ヒム走れ!」
「はあ!? なんで俺まで!?」
「まあまあいーからいーから! こっち!」
「待てコラー!!!」
「すみませんすみませんすみません!!!」
訳も分からないまま、前の背中だけを見て全速力で駆け出す。炎天下の中、必死で足を動かして、ただただ置いていかれないように走った。てか英雄って背中に文字が書いてあるTシャツとかどこに売ってんだよ。
結局、怒号が聞こえなくなりようやく安心して立ち止まれたのは、全身汗だくになった頃だった。
「あっちぃー!!!」
呼吸がぜえぜえと嫌な音を立てている。立ち止まった瞬間さらに汗が噴き出して、俺はいよいよベストを脱ぎ捨てた。
「はあっ……久しぶりこんな走ったわ」
「ね!」
「ね! じゃねーんだよ、エビさんのせいで無駄に走らされたんですけど。最悪」
「まあまあまあ」
いまだに楽しそうにしているエビさんに、少しだけ、いやかなり殺意がわいた。誰のせいでこんな思いしてるんだか。
「説明しよ? 流石に」
「いいよ〜おいで」
立ち上がり、またどこかに歩いていく背中を慌てて追いかける。鼻歌でも歌いそうな雰囲気に若干引きつつ、辿り着いたのはいつも俺たちが自転車を停めるために使っている駅前の駐輪場だった。
「どっか行く感じ? 俺今日徒歩なんだけど」
「んーや?」
曖昧な返事をしたエビさんが、雑多な車体を掻き分け進む。意図が全く読めずいい加減不安になってきた頃、自慢げな笑みが振り返る。
「ヒム! 見てこれ! じゃーん!」
「え、」
そこにあったのは一台の、見るからに新しいバイクだった。予想外の出来事にぽかんと口を開けている俺の目前に、にこにことエビさんが一枚のカードを差し出す。
「免許、取れちゃった」
「……マジ?」
「マジマジ」
へへへと笑うエビさんから、普通二輪免許と書かれたぴかぴかのカードを受け取る。3×2.4の長方形の枠の中に収まった、ちょっと緊張した顔のエビさんと目が合って、じわじわと事態が飲み込めた。
「すげえじゃん! え、やっば」
「でしょ〜? ヒムに一番最初に教えたくてさあ」
まだ他の人には内緒ね。そう言いながら悪戯が成功した子どものような笑みを向けられて、胸の内がくすぐったくなる。
「だから今日サボった」
「なるほどね、てかおめでと誕生日」
「ありがと!」
しかし、免許を取りたいとは聞いていたが、本当に取ってしまうなんて。しかも誕生日当日に。ちょっとだけ置いていかれたような気がして、欠片の寂しさを感じる。俺は気分を払拭するように目の前に鎮座する新車をみやった。白くてゴツいボディに赤い差し色がいかにもエビさんっぽい。
「もう乗ったん? それ」
「もち! さっきも乗って来た」
「えぇ〜すご」
なんでもできるなこの人。持ち前の器用さが羨ましい。
そして唐突に悟った。あ、これふたり並んで自転車を走らせることもなくなるんだ。急に感傷が押し寄せて、ぎゅっと胸が痛くなる。けっこう好きだったんだけどな、あの時間。放課後くだらない話をしながら、ペダルを回したのがもう遠い過去のように思えた。
じっとバイクを見つめる。いいねお前は、どこにでも連れてってもらえて。何とも言えない感情に支配されて、それを悟られたくなくて、上手く次の言葉が出て来なかった。
「あ、でもねヒム」
「うん?」
急に名前を呼ばれ顔を上げて、はっと息を飲む。キラキラと星が散りそうなぐらい、期待に満ち溢れた青い瞳が俺を見ていた。
「二人乗りはまだできないから、ヒムも取るよね?」
新しいおもちゃを手に入れて、楽しくて仕方がない顔。どんな時も可能性を信じて疑わないこの人から、もうずっと目が離せないままでいる。逸る気持ちが伝染していく。いつの間にかさっきまでの胸をつく苦しさは消え、自然と口から言葉が零れていた。
「いいね、それ」
「よっしゃ! ヒムならそう言ってくれると思った!」
俺の一言で大喜びするエビさんを見て、なんだか急に自分が馬鹿らしくなってしまった。つい噴き出すと、なんで笑うの!とちょっと拗ねられる。このやりとりすら楽しくて、口角が下がらない。
「絶対取るから」
帰ったらさっそく準備に取り掛かろう。幸い俺はすでに誕生日を迎えてるわけだし。鬱屈した気分が薄れて、もう熱を含んだ風も、じりじりと焼けつくアスファルトも、頬を伝う汗も気にならなかった。
俺の決意を嬉しそうに聞いたエビさんが言う。
「ね、そしたらさ」
頭上で飛行機が飛んでいく音がする。その軌跡はひたすらまっすぐ、まっすぐを描いた。
「俺ら、もっとずっと遠いとこまでいけるね」