あべこべの朝

 意識の遠く彼方からピピピピピと電子音が聞こえ、エクスはうっすらと覚醒した。
 寝返りを打つのですら少し億劫な気だるげな朝。できればもう一度夢の中に帰りたい。そう思うのは世の理である。
 しかし自分が動かねば、電子音はうるさくなるばかりなのも現実。
「ぅるさ……」
 唸って手を伸ばしうっすら開けた目で液晶を当てずっぽうに触れば、どうやら正解に辿り着けたらしい。静かになったスマートフォンをその辺に放り投げて、さてもう一度寝直すかと肌に馴染んだぬくもりを抱き込んだ。いや、抱き込んだつもりだった。
「……ん?」
 そこでようやくエクスは、昨夜一緒に横になったはずの相手がいなくなっていることに気がつく。
「ぁれ?」
 カーテンの隙間から漏れる陽射しが眩しくて視界は使い物にならない。エクスは、ぽすぽすと手が届く範囲を叩いて探した。しかし悲しいことにお目当てにたどり着くことは無かった。
 珍しいこともあるもんだ。揃って早起きが苦手なはずのふたりなのに、先にベッドを抜け出すほど目が覚めてしまうなんて。
 特に交わった日の翌日は昼過ぎまで寝てしまうのが常だったし、目が覚めたとき腕の中にすっかり気を許した寝顔があることを確かめて、再び眠りにつくことが一等しあわせだった。
「ひむ……?」
 決して広くはないベッド。しかし置いていかれればやけに広く感じられる。
 エクスは急に寂しくなって、眠い目を擦りながらふらふらと寝床を抜け出した。もちろんボクサーパンツ一枚だったため、床に落ちていたスウェット―それも何故か上だけしか見つからなかった―を頭から被り、またふらふらと歩いた。
 一人暮らしのワンルームで行き先などとうに知れている。迷いなく足取りは進み、たどり着いた先。朝日がしっかり差し込むキッチンに、彼は立っていた。
「ひむぅ……?」
 吸い寄せられるように近寄ると、一生懸命手先に集中していた視線がぱっとエクスを見た。
「あ、おはよエビさん」
 朝日をたっぷり吸い込んでイブラヒムの瞳がキラキラと星を散らす。おはよぉ……と消え入りそうな声で返してから、エクスはまた目を擦った。
 そして視界が閉ざされると、急にすん、と鼻をくすぐるものを感じた。この匂い、なんだっけ。ぼんやりと眠気を纏う思考回路が、記憶を辿る。
「……?」
 そして導き出された答えに、エクスは首を傾げた。なぜなら記憶が間違っていなければ、それは炊きあがる直前の米の匂いとほのかな味噌の香りだったからだ。
 脳が理解すると同時に、馬鹿正直な腹がぎゅるんと鳴る。ようやく明るさに慣れてきた目を開いて、まだ滑舌の甘い舌で問う。
「なにしてんの?」
「見りゃわかんじゃん、朝飯つくってるよ」
 自分の家で炊飯器が動いているのを久しぶりに見た、とエクスは思った。
「ヒムが?」
 決して慣れてはいない手つきで、でもいかにも毎日やってますよと言いたげな表情で、イブラヒムは鍋をかき混ぜる。たちまちあたりにふわりと味噌の香りが広がった。
「悪い?」
 そっけない返事にエクスは慌てて被せた。
「ううん、びっくりしただけ」
 別に非難したかったわけではない。エクスの意図はイブラヒムも分かっていた。自分が慣れないことをしていることも。だからこそ、ぶっきらぼうな応答しかできないのだろう。
 じっと黙っていると、イブラヒムは少し居心地が悪そうに小さく身動ぎをした。
「だってエビさん家じゃお手伝いさんいないし」
 コンビニ飯じゃ味気ないしさ。わざわざ買いに行くのも面倒じゃん。時間もったいないし。言い訳を連ねるように、イブラヒムは聞いてもいないことを喋った。
 絶えず手は鍋をかき回し、視線はこちらと噛み合わない。引っかけたら危ないからと、昨夜ピアスを外して晒されたままの小さな穴がやけに目についた。その小さな耳たぶが、肌の色のせいで目立たないのが惜しいくらいに染まっている。
「そっか」
 緩む頬を止めることなどできず、つい喜んだ声が漏れ出た。
「そゆことよ」
 依然としてこちらを見ない丸っこい頭。その中に、形は違えど同じ考えが詰まっている。それだけでエクスにとって十分だった。
 なんだかんだ言って、ヒムって俺のこと好きだよね。喉の寸前まで出かかった言葉を飲み込んで、エクスはそれとなく鍋を覗いた。
「……でもヒム、味噌汁は沸騰させない方がいいよ」
「はよ言えや!」
「あはは」
 慌ててガスコンロの火を消す様子が可笑しくてひとしきり笑ったあと、きゅるきゅると鳴る腹を抱えてエクスは手持ち無沙汰になった。そうして行き場を失っていた腕で、目の前のいとしさが詰まった身体に抱きつこうとしたとき。エクスはまた瞼を瞬かせることになる。
「え、ヒムなんで上着てないの」
 指が触れた先は、ぬくもりを持った肌であった。先程まで手元ばかりを気にしていたせいで、エクスはイブラヒムが上半裸であることに全く気がつかなかったのだ。
 よく見れば、いやよく見らずとも、昨夜自分が好き勝手つけた所有の印が惜しげも無く朝日の元に晒されている。エクスは行き場のなくなった視線をうろうろと彷徨わせるしかなくなった。心無しか、下っ腹をむくむくと何かがせり上がってくる気配がするが、必死で知らないふりをする。せっかく可愛いことをしてくれているのに、台無しにするわけにはいかない。
 しかし、そんなエクスの動揺を露とも知らず、イブラヒムはあっけらかんと言い放った。
「なんでって……下履いてるしいっかなって」
 先程までの恥じらいはなんだったのか、いっそ清々しいほどの態度に、今度はエクスが真っ赤になった顔を覆う番だった。
「普通逆じゃん! ヒムのえっち! さいてー! 今すぐこれ着て下を俺にちょーだい!」
 先ほど寝室兼リビングにどうしてスウェットの上しか落ちてなかったのか。知りたくもなかった答え合わせを突きつけられ、エクスは動揺のまま自分が着ていた方を押しつけた。
「はぁ? どゆこと?」
 もちろんイブラヒムにとっては一体何のことやらという様子。急に騒ぎ始めたエクスをいつものようにあしらおうとした。しかし今日のエクスはしぶとい。なにせ目前に人参をぶら下げられた馬も同然、現在進行形で理性との闘い中である。
「いーから早く!」
「えぇ……?」
 いつにない剣幕に自分が何かしたらしいことを悟ったイブラヒム。さっさと脱いだスウェットを渡されれば受け取るしかない。
「これでいいのぉ?」
 上下を取り替えて、これで満足かとエクスの前に立ってみせると、エクスは何故かさらに狼狽えた。
「あ、ゃ、これはこれで……」
 そう、エクスはすっかり昨夜の自分の行動を忘れていたのだ。際どい箇所を掠める度に震える身体がいとしくて、やわこい内肌に何度もしつこく吸い付いたことを。スウェットのギリギリ、太ももの内側に見え隠れする赤い鬱血痕がその証拠であった。
 良かれと思ってやったことが完全に裏目に出て、エクスは頭を抱えた。余計に目の毒である。首をもたげそうな何かを堪えるので精一杯、他に頭が回らない。
「エビさん?」
 もごもごと歯切れの悪くなったエクスの視線の先を辿って、イブラヒムはあっと声を上げた。ようやく自分の痴態に気がついたのだ。
 慌ててスウェットの裾を一生懸命引っ張って叫んでも、エクスにとっては可愛い抵抗である。締まらない顔をしているエクスを見て、イブラヒムはぐぬぬと身体を震わせた。
「もー邪魔すんなら出てけ!」
「ヒムー!ごめんって!」
 ぐいぐいと押し問答を繰り広げるふたりの間で、炊飯を知らせる電子音がぽろんぽろんと鳴く。それはまるで世界は今日も平和だとでも言うようだった。