夢の終わりはまだ知りたくない

 握っては開く。握っては、開く。
潰れた豆が悲鳴を上げても、短く切りそろえた爪が皮膚に食いこんでも、握ってはその感触を確かめ、開いてはその感触を逃すことをやめられない。
 もう、ずっとだ。
 目を閉じればそこは大歓声に包まれたバッターボックスで。鶯嬢が高らかに俺の名前を呼び上げる。5番、ファースト、エクス、くん。ベンチから歓声なのか怒号なのか判別のつかない声が飛び、溢れ、勢いを増す。俺は、ふぅ、と息を吐いてグラウンドを見渡した。ツーアウト、一塁三塁。三年前の絶望的な状況を思い出さずにはいられない。奇跡的な巡り合わせとしか思えなかったあの夏。夢中で球を追いかけた夏、夏、夏。
 真正面の投手をしっかりと見据える。一球目、ど真ん中ストライク。二球目、見送ってストライク。三球目。バットを握りなおす。ここに俺の、俺たちの三年が。いける。これはいける。しっかり振り被って––
「エビさん、まだ帰んないの」
 はたと、我に返る。もうそこは熱されたグラウンドではなく、夕陽が差し込む何の変哲もない放課後の一室だった。
「あ、いや、」
 無意識に息を詰めていたらしい。うまく言葉が紡げずに、はくはくと口が空気だけを発した。怪訝な視線がこちらを窺っている。
「いや、もう帰る」
 なんとか言葉にすると、ヒムはほっとした顔つきになった。
「じゃあ途中まで一緒に帰ろ」
「いいよ」
「早よ準備しな」
「おう」
 急かされ、のろのろと立ち上がる。特に入れるものもない通学バッグを取ろうとして、ふと固く握り締めたままの拳が目に入った。見られただろうか。ヒムを見やるも、彼は特に何も言わなかった。
「お待たせ、ヒム」
「うし、帰んべ」
 廊下にふたりの足音が響く。ぺたぺた、長い廊下をいつもの倍以上かけて歩く。まるで出口のないトンネルを歩いているような気分だった。もちろん足取りが重いのは、踵を踏みつぶした上履きのせいだけではない。
 あの日からずっと、喉から出かかっては、聞けずじまいのことがあった。
「……エビさん?」
 グラウンドから運動部の掛け声がして、つい足を止める。一年生だろうか。顧問に怒られながら、何度も何度も走り込みをしている。つい数日前まで俺もそこで泥砂にまみれて球を追いかけていたはずなのに、今はこうして制服に身を包み、ガラス一枚隔てた先からグラウンドを見下ろしている。
 週末の部内紅白試合が終われば、俺たちは引退だ。もっともっと続くと夢見た夏は、残酷にもあっさりと終わりを告げた。いや、俺が終わらせた。俺がこの手で終わらせてしまったんだ。それなのにずっと、俺だけあの日に、夏に取り残されている。
「ヒム。俺さ、夢見るんだよね。いつもあの日のバッターボックスに立ってる」
 ひゅっとヒムの細い喉から空気が溢れる音がした。これは甘えだ。しかもいっとう酷くて、ずるい甘えなのだ。分かっている。でも一度切り出せばもう止まれなかった。
「一球目は、ストライク。二球目見送ったら、それもストライクなの。絶体絶命だった。でも俺、三球目は絶対打てると思うんだよね」
 息が浅くなる。やめろ、言ってどうする。遠くで理性が警報を鳴らしている。
「だってあの日も絶対打てたはずなんだって」
 また知らずしらずのうちに手を握り締める。またあの時の感触が戻ってくる。硬いグリップ、潰れた豆、鉄の匂い。俺にとってそれが全てだった。
「そしたらまだ俺たちはグラウンドに立ってた」
 じわじわと視界が濁る。汗なのかそれとも。言うまい、言うまいと踏ん張っていた足場がどんどん崩れていく。もうヒムのことを気にする余裕などなかった。噛み締めた唇が解け、俺はとうとう言ってしまう。
「俺が打てなかったせいだよね」
 それは祈りにも似た懺悔だった。
 優しい友人にすがるにはあまりに身勝手な願いだろう。しかしヒムに情けない姿を晒してもいいと思えるほど、俺は追い詰められ、焦燥していた。誰も悪くない。それは魔法の言葉のように見えて、その実真綿で首を絞める悪しき呪文なのだ。
 じっとりと滲む汗がシャツの下を滑り落ちる。いつまでそうしていただろうか。太陽がふたりだけの廊下を真っ赤に照らし、長く伸びる影を残して沈んでいき。そうして訪れた夕と夜の境目で、ヒムはその空を擁した瞳で俺を貫いて言い放った。
「そうだよ、エビさんのせいだよ」
 待ち望んでいた言葉が突き刺さる。
「俺たちが負けたの、全部エビさんのせいだよ」
 普段のやさしげな表情などどこにもなかった。怒りと悔しさ、憎悪、そしてやるせなさ。負という感情全てをのせた視線で俺を貫き、責め立てた。これはきっとあの日俺が受けるはずだったものだ。逃げることなどしない。正面から受け止めると、その重さにぐっと息が詰まった。深く突き刺さった場所から、どろりどろりと濁り固まった膿が溶け出す。痛みに耐えきれず、思わず拳を強く握る。手にあの時の感触が戻ってくる。でもそれを痛いとも辛いとも思わなかった。
 そうして次に開いた時、全身に巣食っていた何かが、すうっと抜けていった。いや、消えたという表現が正しかったのかもしれない。ほっとして、妙に叫びたいような泣き出したいような気分だった。もう、この拳をきつく握り締める事はないだろう。きっと夢を見ることも。
開いた掌を感慨深く眺めていると、ふっときつい視線が和らいだ。
「満足したかよ」
 顔を上げると、拗ねた表情のいつものヒムが立っていた。泣きたいのはこっちだ、とでも言いたげだ。
「……ごめん」
 無茶なことを頼んだ自覚はある。こんな情けない姿、ヒムには見せたくなかった。でもすがれるのもヒムだけだった。三年間同じ時間を過ごして、同じ夢を見たヒムにしか俺の夢を終わらせることなどできない。
「そうじゃねーよ、エビさん」
 ヒムの言いたいことはわかっていた。俺たちらしくないことをしたのが分かっているからこそ、気恥ずかしさで素直に言葉が出てこない。もごもごと口の中で何度か転がして、ようやっと形となって絞り出すことに成功する。
「ヒムありがと」
 校内に明かりが点き始めた。それは俺たちの新しい日々を照らす、道標のようにも星のようにも見えた。外から運動部の声が聞こえてきても、もう何も思わない。
「ん。じゃ、アイス一個エビさんの奢りで」
「えっそこは強請らなくないフツー!?」