スノウドーム・レシピ
やけに晴れた日だった。今年の冬は、あんまり冬らしくないと、朝からさんさんと降り注ぐ太陽を俺は恨めしく思った。せっかくの休日、気持ちよく晴れたなら外に出かけるのもいいが、生憎昨夜の帰宅が午前様だったせいでそんな気持ちにもなれない。ようやく、ドラマのきついスケジュールから解放されたのだ。これくらいのささやかな幸せは許されるだろう。誰に言い訳するわけでもなくひとりごちて、もぞもぞと布団に潜り込んだ。
デビューして数年。安定したグループは、それぞれに見合ったそれぞれの分野で活躍していた。もう一緒に生活しなくても、お互いのことを信頼に足るメンバーだと認識した頃。後輩に部屋を譲るため、俺たちは小鳥遊寮を出た。それからはずっと一人暮らしをしている。
一人暮らしをしている、つもりだったのだが。
扉一枚隔てた向こうから聞こえる、かすかな音に顔がほころんだ。見なくても分かる程度には聞き慣れた、規則正しいまな板を叩く音。心地いいリズムにまたあたたかい夢へとゆるゆる思考が沈んでいく。しかし思考とは裏腹に、身体は嗅覚まで研ぎ澄まされて、ほんのり香るだし汁の匂いに、くぅと小さくお腹が鳴った。
現金なやつだな。お前も、俺も。
瞑った瞳の裏に、機嫌よくキッチンに立つ後姿を思い起こした。淡いピンクオレンジの髪が、包丁がまな板を叩く度にぴょこぴょこと跳ねて。楽し気に揺れる体に、いつかプレゼントした緑のエプロンを纏い。なんでも作り出す魔法の手で、ちょこっとつまみ食いなんかしたりするのだ。
ぴたりと心地よい包丁の音が止まった。具材を切り終えたのだろう。今ごろは鍋に具材を入れて煮ている頃か。散々見てきた手順は、もう見なくてもなんとなく分かる。だからと言って、自分で作る気は起きない。あいつが作る方が間違いなく美味しいに決まっているからだ。
そんなことを考えながら、またうつらうつらしていると、今度はパタパタと足音が聞こえて来る。あぁ、味噌を溶き終わったんだな。なんて頭のどっかで思いながら、無意識に緩む頬を枕に埋めて隠す。
「やーまとさーん」
がちゃり。響いた扉の隙間から、誘うような朝食のいい匂いを引き連れて、その眩しい太陽はやって来た。
「朝ご飯出来たけど、食べられそう?」
ベッドの縁が軽く沈む気配。昨晩帰宅が遅かったことを知っているのか、無理矢理起こそうとはしないようだ。これが前日オフだったなら、容赦なく布団を引っぺがされ床に転がされていたところだろう。
睡眠半分、食欲半分。揺れ動く俺の心は、少女の恋心より繊細で流されやすい。あともうひと押し何かあれば、体温でぬくもった布団とおさらば出来るのに。そう思ったのが分かったのか否か。
「お、は、よー!」
痺れを切らしたピンクオレンジの頭が、ぼすんと掛布団に突っ込んでくる。そのままぐりぐり擦り付けられれば、一気に形成は逆転。
「…はよ。起きるから、そこどいてくれますかねぇ?」
三月くんや。
人間はなんて単純なんだろう。俺はあっさりと白旗を上げ、恋人の美味しい朝食を取ったのだった。
ミツの身体ごと布団を押し上げて起き上がる。その重みが心地よくて自然と笑みが浮かんでしまう。
「今日の味噌汁、」
柄じゃないな。急に恥ずかしくなって、誤魔化すようにいい匂いについて言及するも。
「大根と人参と、とうふ!」
はは、へんな顔!結局は失敗して、ベッドの脇に転がったミツに笑われた。お前さんのせいだって。むっとしてワックスで軽く整えられた頭をぐしゃぐしゃにすると。
「あー!もう!おっさんの馬鹿!今日セット上手くいったのに!」
くふくふ笑っていたミツの表情も途端に崩れ、怒ったままするりとベッドを抜け出してしまった。追いかけるように、名残惜しい寝具を置き去りに俺もリビングへと向かう。準備途中のダイニングテーブルを横目に通り過ぎて、洗面所を覗けば。ぐしゃぐしゃになった髪と格闘するミツの姿があった。気付いていないことをいいことに、入口の扉に腕を組んでだらりともたれた。一生懸命鏡を覗き込む様子を、そっと観察する。
おー鏡近い近い。今日は上手くいったって、普段と同じ気が…おいおいだから前髪そんな弄っても変わんねーだろ。後ろまだ跳ねてるし。またそのワックス使ってんのか、気に入ってんなぁ。もうちょい減ったら買い足しとくか。
ぼーっと起き抜けの頭で、思ったまま気が付いたまま心が好き勝手に呟く。
「よし!」
「まだ跳ねてる」
だから思わず手が出てしまって、あっけなく秘密の観察時間は終わりを告げた。ようやく俺がいることに気が付いたミツと、鏡越しに目が合う。
「そこでなにしてんの…?」
「……見てた?」
「なんで疑問形なの」
「ねむいから?」
答えになってない、やりなおし。理不尽なミツの責めに、後ろから抱き着く形で抗議する。洗面台の照明は朝日以上に眩しい。光から逃れるように抱き着いたまま肩に擦り寄れば、くすぐったいよりも思わせぶりな声が落ちる。
ちゅーして。
やだ。
なぁ、ミツ。
吐息の応酬に、我慢できなくなったのはどちらだったか。朱に染まった頬と薄く開いた唇が、そうっと近付いて離れていった。伏せた瞳が妙に色っぽくて、朝の爽やかな空気なんてお構いなしに、誘われるようにもう一度。
「しません!」
調子に乗ったらすぐこれだ。次の瞬間華麗なボディブローを食らった俺は、耐え切れず床に膝をついた。なんて威力だ。痛みに呻いている間に、三月選手は堂々と余裕の表情でリング…もとい洗面所を後にした。
諦めて顔を洗い、リビングに戻ると、熱々の白米と出来立ての味噌汁が行儀よく並んでいた。俺も俺の胃袋も現金なやつなので、一瞬前の痛みなどすっかり忘れた顔で、いそいそと席に着いた。お手製の漬物を持ったミツが向かいに腰を下ろせば、目くばせで手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
まるで魔法がかかったかのようにつやつやと光る白米に、じんわりとやさしさが染みる味噌汁。ここ数ヶ月は、ミツがロケで農家に習ったという漬物も常連だ。お互いに和食が好きなこともあってか、ミツが作ってくれる朝食はたいてい和食が多い。小鳥遊寮に住んでいた頃は、リクやタマのリクエストを聞いて、洋食を作ることも多々あったが、今となってはミツが料理を作る相手は俺だけなので和食のレパートリーが増えたとかなんとか。どんどん上達する腕前に、胃袋は掴まれっぱなしだ。このぬか漬けも一度しか教わってないのに、もう自分のものにしちゃって。あ、醤油かけないと。
「ミツ、なにそれ」
ふと、醤油に伸ばしかけた手が止まった。塩・砂糖・醤油・七味等に混じって何やら見慣れない球体が朝日にきらめいている。昨夜帰って来た時にはおそらく見た記憶がない…ということは、ミツが持ち込んだのだろう。こうやって部屋にミツの私物が増えるのも、もう慣れたものだ。
しかし、それはあまりにもこの部屋に不釣り合いで。ミツが持ち込んだにしては、いささか疑問だ。
「いいだろ、これ。殺風景な大和さんの部屋にぴったり!」
「シンプルって言いなさい。えーっとなんだっけ、」
「スノードーム」
「あーそうそう、スノードーム。ってなんで?」
怪訝な顔をしている間に、先にミツに醤油を取られた。ぽりぽりとぬか漬けを噛む、小気味よい音が響く。
「なんとなく?」
答えになってない、やりなおし。さっきのやり取りをそのままそっくり返す。
「よぉく見てみ?なんでオレがこれ買っちゃったか分かるから」
はぁ?余計皺が寄った眉間を隠さずに、手のひらに乗るサイズのそれを取り上げる。まあるいガラスに閉ざされた世界の中には、雪だるまがみっつ鎮座していた。動かしたせいで、沈んでいた雪…に見立てた紙切れがちらちらと舞う。どこにでもある、普通のスノードームだ。
「これが?」
「だからよく見ろって」
言われてもう一度、球体を覗き込む。みっつの雪だるまはそれぞれ違う大きさをしていて、表情もみんな違った。一番小さい雪だるまは、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいる。中くらいの大きさの雪だるまは、元気いっぱいの満面の笑みで。一番大きい雪だるまに至っては、なんと眼鏡をかけている!
「よくできてんなぁ、これ」
思わず関心して言葉を漏らすと、自分が作ったわけでもないのに、そうだろ?とミツが得意げになった。
「んでそれだけ?」
「それだけもなにも、ただのスノードームだろ?」
「だーかーらー、あーもう!似てるじゃん!」
「は?」
「大きいのが大和さんで、中くらいのがオレ!小さいのは、まぁ…関係ないけど、に、似てる…から」
尻すぼみになっていく言葉と共に、ミツの顔が次第にそっぽを向く。ピンクオレンジの髪に隠れていても分かる、その頬と耳が、こちらに伝染してしまいそうなほどに赤い。いけないものを見てしまったような気がして、手元のスノードームに視線を戻す。
なるほど。言われてみれば、中くらいの雪だるまがミツに見えてくるのだから面白い。しかし他ふたつに比べると愛想が足りない大きな雪だるまは、見れば見るほど俺に似ている。寄り添うように並び立つ雪だるまふたつに囲まれて、小さな雪だるまは得意げな表情にも見えた。そんな掌に乗るほど小さなガラスの世界には、あたたかな幸せが満ち溢れていて。
「…家族みたいだな」
自然と口からぽろりと言葉が零れた。
そっぽを向いていたはずのミツが、はっと振り返る。一瞬、その大きな瞳がゆらりと揺れ、戸惑うようにさまよった。ふらふらと行き場を失くした視線が、俺を見て、スノードームを見て、空っぽになった皿の上に落ちて。またもう一度俺を見た時には、何事もなかったかのように鳴りを潜めていた。
「それ、早めの誕生日プレゼントだから」
大事にしろよな。
逃げるように付け加えられたミツの言葉は、ほんの少しだけ震えていた。
*****
吐息も白くなる寒い夜。マフラーに耳あて、ニット帽にマスクに手袋の重装備で、オレは帰宅した。今日はラジオの収録と雑誌の取材だけで、特に取り立てて大きな仕事もなく、早い時間に帰って来れたことが幸いだ。こんな寒い夜は、お風呂であたたまって早く寝るに限る。
駆け込んだマンションのエントランスは、吹き抜け構造になっているせいで中に入っても寒い。手袋で緩和されているとはいえ、かじかんだ手で郵便受けを開くのも一苦労だ。しばらく大和さんの家に入り浸っていたせいで、この郵便受けを覗くのも久しぶりだが、仕事に関係する書類などはたいてい事務所に届くので大方問題はない…はず。
まぁ二十代も後半になって、表向きは独身男性の郵便受けを賑やかすのは、婚活か転職のダイレクトメールだと相場は決まっている。こういう業者は、この情報をいったいどこから嗅ぎ付けてくるんだろうか。ちょっと知りたい気もするが、きっと知らなくていい世界なんだろう。今日もいくつかのダイレクトメールが、冷たい郵便受けでオレの帰りを待っていた。ぺらぺら興味のない内容にちらりと目を通した後、気が付くのだ。最後の一枚に。
「うわーとうとうこいつもかよ」
眩しいくらいの白、結婚式の招待状である。
今年に入って何人目だ?もう数えたくもない事実に目を覆う。エレベーターを待っている間に、怖いもの試しに数え始めたが、片手で足りなくなったところで止めた。
学生時代の頃から、友達は多い方だった。それこそ、浅い付き合いから深い付き合いの友達まで実に様々。そのおかげか、こうして招待状が届くことは珍しいことではなかった。大和さんに言わせれば、多すぎるとのことだったが、招待されることについては嬉しい以外の何物でもない。
でも、式に参列したことは、ほとんどなかった。
到着したエレベーターに乗り込んで、招待状の封を開ける。飛び込んでくる堅苦しい挨拶が、心なしか踊っているようにも見える。
拝啓、新春の候。皆様にはお健やかにお過ごしのこととお慶び申し上げます。このたび、私たちは結婚式を挙げることとなりました。
生涯自分はきっと使うことのないだろう文面を視線でなぞる。文章も封筒もカードも、たったこれだけのために、どれほどの時間がかけられたのだろうか。ふたりで肩を並べてあーでもないこーでもないと、頭をひねらせて考え抜いて作られたもののうち、一枚がこうやってオレの手元にやって来た。このふたりは先に入籍を済ませたらしい。最後に寄り添うように並ぶ、同じ名字のふたり。これから始まる新しい生活を、一緒に祝ってくれる家族と友人に囲まれて、残酷な明るい笑顔で言うのだ。
三月も幸せになってね。
階を押すのも忘れて、動かないエレベーターの中、オレはぐっと唇を噛み締める。
オレ、もう幸せだよ。
念願叶って幼い頃からの夢であるアイドルになれて、最高の仲間に出会えて、仕事もずいぶん安定して、大好きな恋人もいて、これから先ずっと一緒に生きていけたらなって思っていて。十分幸せで、満たされた毎日がいとおしくてたまらない。
だけど時々苦しくなる。
誰も目に見えない幸せなんか、分かってくれないのだと。オレの周りは幸せのカタチがいっぱい溢れている。彼女ができた、結婚した、子供が産まれた。家庭が出来て、家族が増えて。でもオレと大和さんはそのどれにも属することが出来ない。これから先もずっとふたりぼっちだ。だとしたら、オレが幸せだと感じているこれはなんだ?
――家族みたいだな。
スノードームを見た時の大和さんの言葉が、ずっと頭からこびりついて離れない。大和さんがあのカタチを家族だと言うのなら、それをつくってあげられないオレはどうしたらいいんだろう。そればかり、考えている。
*****
「大和くんってさぁ、あんまり浮いた話聞かないよねぇ」
「なんですか、急に」
レギュラー出演しているドラマの撮影現場で。セットの準備を待っている間、共演している女優に捕まった。シリーズも二作目となると、打ち解けてきたのか、こういう話を振られることも多くなった。嫌いじゃないが、正直めんどくさいという気持ちの方が強い。
まぁまぁ座りなよ。経験値の差が違う彼女が、このセットもう少し時間かかりそうだし。と忙しないスタッフを見やって言う。仕方なくスタジオの隅に設けられた休憩スペースに並んで腰を下ろす。女って生き物はどうしてこうもゴシップが大好きなのか。長年の謎はまだ解けそうにない。
「だってナギくんなんかしょっちゅうじゃない」
「あれとは元のつくりが違うんで…俺にはそんな愛想ないですし」
「ははは、言えてる」
艶やかな赤色に縁取られた唇が、無邪気に紡ぐ。
「いい人はいないの?」
自分は秘密を話してもらえるに足りる人物だと、信じて疑わない目。でもそれは、あいつのように澄んだ色ではなくて、信頼を逆手にとって他人を蹴落とそうと画策する色で濁っている。反吐が出そうだ。
「…一応アイドルやってるんですけど」
「それとこれとは話が別よ、彼女いるんでしょ?」
ここでイエスと言ってもノーと言っても嘘になる。もちろん彼女はいない、でも恋人はいる。ミツと俺の関係は、アイドルをやっている限り表には出せない。どんなに大切にしていても、どんなに想っていても、言えないことだった。
今まで生きてきた中で、初めていとしいと思ったのだ。自分のためにも人のためにも、いつだって全力で頑張れる器。ちょうどいい距離で見守ってくれて、甘やかしてくれるあたたかさ。醜い心の内を晒しても受け入れてくれて、そんな時を待っていたと言ってくれる笑顔。どれもがいとおしくて幸せで、手放したくないと思った。
これ以上は何も望まない。だから、せめてミツを守るために、俺はミツとの関係に今日も嘘を塗る。
「ご想像にお任せします」
生憎、嘘をつくのは得意だ。
「なぁんだ、つまんない」
はにかんだ笑みは、引きつっていなかっただろうか。模範解答ではぐらかされてくれるような彼女ではないが、案外あっさりと引き下がった。彼女と仕事がやりやすいのは、このさっぱりした性格のおかげだと思っている。ほっと息をついて、喉を潤すために手身近なペットボトルを引き寄せた。まだ、セットの準備は終わらないらしい。スタッフは相変わらずバタバタと動き回っている。
「若い子はすごいよねぇ」
頬杖をついてしみじみと言う彼女の視線の先で、若いスタッフが機材を運んでいた。無意識なんだろうか。向けられた眼差しは、さっきの濁った色なんかじゃなくて、もっと澄んだ…そうミツが俺に向けるみたいな綺麗で眩しい色に満ち溢れていた。あぁきっとこの人も知っている、隠すことの苦しさに。もがいている、子供のようなわがままで失いたくないと。
「若いうちは好きだって気持ちだけでなんとかなるじゃない?大人になったら、そうもいかない…やぁねぇ」
「気持ちはわかります」
「大和くんはまだまだ若いでしょ〜」
「そんなことないですよ、もうあちこち痛くって」
大人になればなるほど、大事なものが増えて身動きが取れなくなる。大切にしたくて守りたいものほど、失うのが怖くて一歩を踏み出せないのだ。でも結局それは、赤子の駄々と何一つ変わらない。
ミツとこれから先のことを考えなきゃいけない。わかっているのに、どうしても傷付けそうで言い出せないままでいる。きっとミツも、同じことを考えている。
*****
傘忘れた、迎えに来て。
テレビの雑音に紛れて、ラビチャの受信を知らせる通知が鳴ったのは、時計の針が午後七時を回ったあたりだった。家上がってるよ、と送信したのは二時間前のことで。その時からすでに雲行きが怪しかったが、とうとう降り出したか。カーテンの隙間から外の様子を窺うと、なるほどそこそこ降っている。ラビチャの送信主は、今日に限って電車を使ったらしく、天気予報をこまめにチェックする性格でもないため、おそらくスタジオから出てようやく雨が降っていることに気が付いたのだろう。
タクシーで帰ってくればいいのに。思った言葉は飲み込んで、立ち上がる。これはわかりにくい大和さんなりの甘え方だ。わがままを聞いてしまうオレもオレだけど、甘えられることが嫌いなわけじゃない。
あとどんくらいで着く?コートを羽織りながら、返信を打つ。あと二十分。またすぐ返ってきて、それならもう家を出ようとテレビと照明を消した。駅までの短い道のりでも、冬の夜にマフラーは欠かせない。ぐるぐるっとひと巻きして、玄関でちょっと考えて傘を二本持った。
一歩踏み出した外は、雨のせいか一段と冷え、容赦なく暖房であたたまった身体からぬくもりを奪い去っていく。閑静な住宅街を抜けて大通りに出ると、帰宅ラッシュの車が列を成していた。ワイパーがリズムを刻むように交互に揺れ、それがたまたま口ずさんだ新曲と合っていたもんだから余計おかしくて。街灯が水溜りに反射して輝く街を、軽い足取りで抜けていった。
駅に近付くにつれ、疲れた顔をしたサラリーマンがちらほら増えていく。人の波を避ければ、もう駅だ。改札の外で雨宿りをしている人が、軒下のあちこちに見える。連絡をしようと、ポケットの中の携帯に手を伸ばしたところで気が付いた。
いた、大和さんだ。
マスクをしていても見間違えるはずがないその姿は、人混みに紛れて寒そうに突っ立っていた。距離にしてほんの数メートルなのに、大和さんはオレに気が付いていないらしい。深緑のマフラーに顔を埋めて、何かをじっと見つめていた。つぅっと何気なくその視線の先を辿って、辿ったことを、後悔した。
「ねぇ、パパまだー?」
小さな傘にカラフルな雨合羽を身に着けた女の子が、可愛らしい声を上げて母親にしがみ付いた。
「もうちょっとかなぁ、いい子に待てる?」
「まてるー」
母親と繋いだ手を上機嫌に振って彼女が歌い出した鼻歌が、段々とメロディーを帯びて曲になっていく。聞き覚えのありすぎるそれは、出たばかりのオレたちの新曲だった。見つめていた大和さんの目が、眼鏡の奥で細まって。あぁ、わかるよ。笑ってるよな、いま。認識した途端、オレの心は音を立てて軋んだ。
やっぱり、オレには無理だ。大和さんに心からあげたいものを、この手では、この身体では、つくってあげられない。現実はいつだって残酷だ。この身体でなければ、同じグループの仲間として出会うことも許されなかったというのに、仲間であることも恋人でいられることにも心から喜びを感じているのに、たったひとつ叶わないだけでこんなにも苦しい。
「ミツ?」
声をかけられて咄嗟に顔を上げる。上手く笑えている自信がなかった。アイドルとして失格だ、こんな顔誰にも見せたくなかったのに。
「おかえり、」
それでもなんとか絞り出した声は情けないくらい震えていて。呆れたように笑う大和さんを見て、あぁ失敗したなと悟るのだ。
「…相変わらずミツは演技下手だなぁ」
表情に反して、かけられる声はひどくやさしい。それがかえってつらいことを分かっていておそらく無意識にやっているのだから、大和さんは本当にずるい。自分は甘やかされる方が好きなんて嘘だ、オレだって大和さんに甘やかされてる。
うるさい、言われなくても分かってる。いつもの軽口を返した時には、もう声は震えていなかった。
「傘、ちょーだい」
言われて、握りしめていたもう一本の傘を差し出す。冷たい外気のせいか、握りしめていたせいか、右手はいつの間にか冷え切って白くなっていた。ぐー、ぱー。一度閉じて開くと、一気に血液が流れた感覚がした。その感覚が面白くて何度か繰り返すうちに、大和さんがそれを見つめていることに気が付いた。自分で強請ったくせに、どうして受け取らないんだろ?急かそうと口を開いた瞬間。
「違う、こっち」
完全に不意を突かれて、さしていた方の傘が掌からすり抜けていった。持ち手が変わった傘は高さを変えて、オレの方へと差し出される。
「もっとこっち入れば?濡れるだろ」
「ん、ありがと」
大和さんが選んだ一本は、オレが差し出した傘より小さいせいで、くっついてないと濡れてしまう。だけど、触れ合ったところから、じんわりじんわり大和さんの熱が伝わってきて、身体の奥にゆっくりと溜まっていく。
ざあざあと振り続ける雨に包まれた街を、今度はふたりで歩く。行きよりもゆっくり、何かを確かめるように一歩一歩踏みしめた。時折、靴底から跳ね返った水滴が踵を濡らして冷たくて。街灯が雨に反射してきらきら輝く世界で、それだけが現実だった。
まっすぐ、前だけ見つめて、白い息とともに吐き出す。
「さっきの女の子さ、」
「うん?」
「オレたちの歌うたってた」
「そうだっけ」
「…しょうらい、オレたちのライブとか来てくれるかな」
「かもな」
人気のない住宅街に入る角で、ふいに触れ合った大和さんの手に自分のそれを摺り寄せた。何も言わずに握り返してくれるやさしさに、思わず泣きそうになって。堪えるように空を見上げた。
あったかいなぁ。ぐっと胸にこみ上げるこれは、きっと。
「なぁ、やまとさん」
すきだよ。
これから先、何があっても、オレは大和さんの味方だ。
ようやくたどり着いた玄関で。扉を後ろ手に閉めて、吐息だけで誘えば。やさしい大和さんは、震えるオレを抱きしめてそっと唇を重ねてくれたのだった。
*****
うっすらと意識が浮上して、まだ日が昇る前の薄暗い部屋がぼんやりと映った。大きな腕にゆるく抱き込まれた身体は、睡眠のおかげかあまり疲労は残っていなかった。
掛布団からはみ出たむきだしの肩が寒い。早く出て行かなければ。そう思う心とは裏腹に、身体は無意識にぬくもりを求めて潜り込む。怠惰にずるずるとシーツの上をさまよう中、突然ぴりりと体のあちこちに鋭い痛みが走った。おかげで半分眠っていたままの脳が、痛みに呻いて起き上がる。しかしそれは受け入れたための鈍痛ではなく、もっと表面的な…乾いた肌が亀裂を訴えているような軽い痛みだった。
「ぅ、わぁ…」
徐々に明るくなる部屋で、目を凝らして自分の身体を観察すれば、その傷はいたるところに残されていた。
食い込まれ、引っ掻かれ、縋られた、爪の痕。
みみず腫れは軽い方で、酷いところは鬱血している。今まで幾度となくふたりで身体を重ねてきたが、こんな風に傷がついたことはなかった。……いや、最後に身体を繋げたのは、いつのことだっただろうか。
やさしく抱きとめ、心地よさを与えてくれるその掌は、常に清潔に保たれ、手入れがなされていた。
お兄さんも一応アイドルだからな。いつか環に言っていた姿を思い出す。あの時はやっと自覚が出て来たか、としか思わなかったけれど、もしかして違うんじゃないのか。こうしてオレを傷付けないように、爪を切って、手入れをして、加減してくれていたとしたら。あぁ、最後に手入れをしている大和さんを見たのは、いつだっけ。丸くなった背中を記憶に探すも、思い出せない。起こさないようにそっとシーツの海から探し出した大和さんの手は、思った通り伸びきった爪で縁取られていた。
「…あいされてるなぁ、オレ」
今まで気が付かない程、たくさんのやさしい嘘に守られていたのに。自分の小さな世界を守るのに精一杯で、甘受するだけだったのだ。これ以上側にいても苦しいばかりで、やさしいこの人を困らせてしまう。
心はもう、決まっていた。
ぬくもりを持った腕からは簡単に抜け出せた。ひんやり冷たい床に両の足を降ろして、今だ眠る大和さんに背を向ける。背後から聞こえるゆるやかな呼吸をずっと聞いていたいけれど、いればいるほど名残惜しくなる。扉まで点々と散らばった服をひとつひとつ拾い上げて、身に着けて。あちこちに出来た傷が、セーターに引っかかってびりびりと痛かった。コートまで羽織って、部屋の隅に転がっていたバッグを引き上げる。メモなんて持ち歩いていないから、少し迷って財布の中からレシートを一枚取り出した。ひとことで済むように、なるべく短いやつを。バッグの底に沈んでいたボールペンをレシートに滑らす。
しあわせにできなくてごめんな。
我ながら酷い恋人だ。別れを直接言えない程に、臆病で弱り切っている。これまで大和さんに何度も弱いところを晒してきたけれど、自分のエゴが詰まったこの矛盾を晒す勇気はなかった。
嫌われたくない。大和さんを誰よりもしあわせにしたい。あったかい家をつくって喜ばせてあげたい。だけど叶えてあげられない。そんな自分に嫌気がさす。
枕もとに置かれた大和さんの眼鏡を、重石にしてレシートを挟む。この部屋から出れば、もうさよならだ。わかっているのに、わかっているのに、足がその場から動かない。自分で決めたことだというのに、こんなにも意思が弱い人間だと思っていなかった。扉の前で立ちすくむオレに、ふいにかすれた声がかかる。
「…それがミツの答えか?」
いつの間にか止まっていたゆるやかな呼吸に、問いかけられて初めて気付いた。背を向けたままの大和さんの声が、薄暗い部屋に落ちる。
「……そーだよ」
声を聞いて、揺らぐ心を叱咤する。
「そうか、」
ドアノブに手をかけて、声を振り切るように、一歩踏み出した。これが大和さんと迎えた、最後の朝だった。
*****
現実味のない日々は、心を置き去りにしたまま足早に過ぎていった。
これからのことについて先に答えを出したのは、ミツの方だった。俺はそれを受け入れて、ふたりの関係はあっけなく幕を閉じた。後悔は、していない。ミツが俺の側にいることで、苦しんでもがいていることが分かっていたからこそ、引き留めることが出来なかった。
それでも。朝起きて、昼仕事して、夜寝に帰ってくる。そんな単調な毎日の中に、ミツの姿を探しては落胆する。
しあわせにできなくてごめんな。
あの言葉の意味を考えても考えてもわからなくて、まだ心のどこかでミツを待っているのだ。
自分の部屋なのにいつの間にか増えたミツの私物はそのままだし、冷蔵庫だって使いかけの食材が残っているし、次の週末にするはずだった洗濯は、ミツがいないと終わらないくらい溜まっているし、合鍵も渡したままだ。
部屋のあちこちにミツがいて、そんな簡単に忘れることなんて出来なくて。欠片を拾い集めて、なんとか日々を過ごしていた。仕事は欠かさず行った。それもミツがくれた欠片のひとつだから。
大事にしすぎて失った。だったら俺はどうするのが正解だったのか?
欠片をひとつ拾って思い出す度に考える。俺にとってのしあわせはなにか。ミツが描いたしあわせはなにか。それは果たして同じだったんだろうか。冷え切った部屋でひとり思考を巡らせても、答えは出なかった。
もしかしたら、もしかしたら。
根拠のないレシートのような薄っぺらい希望を、きつく握りしめて乗り越える毎日。今まで何度も重ねた喧嘩を思い出して、ミツにかける言葉を探して、ミツが作り置きしていた惣菜も食べ終わって、洗濯はなんとか自分でやって、新しい仕事に没頭して、毎日毎日毎日ミツの言葉の意味を探して。
だけどそんな日々は突然終わった。
単独の仕事を終え、疲れた体を引きずって帰宅したある夜。春を匂わせるあたたかい陽気に、きっと油断していたのだ。だから。
何気なく覗いたポストに、雑に投げ込まれた銀色に光る最後の砦を見つけて、一気に心臓が凍った。
震える手でそれを拾い上げる。随分前にミツに手渡した、自室の合鍵が、どうしてここに。
まさか。……まさかまさかまさか!
エレベーターが降りてくるのを待てずに、非常階段に駆け込んで最上階まで一気に駆け上がる。一段一段上っている余裕などない。足が縺れて上がらなくて。上がる息が我先に出口を欲して競り合い、気道を余計に圧迫する。上手く呼吸が出来ずに咽るのもお構いなしに、とにかく走って。ぶつかる勢いで自室に繋がる扉に辿り着き、あぁ手が縺れて鍵が差し込めない。急く気持ちがもどかしさに拍車をかける。平常なら一分もかからない動作に倍の時間をかけて、ようやく飛び込んだ自室は。
「ぁ、あぁ…うそ、だろ……」
照明に照らされた下、ざっと見渡して。見覚えのあるミツの私物が、綺麗さっぱり跡形もなく消えていた。
よく抱きかかえていたクッションも、おそろいだと言って笑ったマグカップも、プレゼントした緑のエプロンも、窓辺に置かれたサボテンも、歯ブラシも、パジャマも、ワックスも、本も、雑誌も、箸も、レシートも。
「……ない」
ない…ない、ない!
家中ひっくり返して、まき散らす。残っていた、縋っていたミツの欠片がどこにもなくて、必死で探した。だけどどんなに探しても、どれだけぶち撒けても、何ひとつ見つかることはなく。気が付けば、ありとあらゆるものが散乱した部屋の中心で呆けていた。
これだけ溢れているのに、ミツはどこにもいない。
荒い呼吸が空っぽの部屋に虚しくこだまして、やがて静寂に包まれた。ぼうっとした頭で、あたりを見渡す。いたるとこにものが落ちていて、足の踏み場もない程だった。
ふと、知らないうちに倒してしまったらしいごみ箱が目に映った。悲しいかな、中の紙屑やらも他のものと同様に散らばっている。しかし気になったのは紙屑のことではない。その中に知らない紙袋が混じっていて、妙に胸がざわついた。動きの鈍った腕が吸い寄せられるがごとく、それを拾い上げる。
しゃり。響いた音は、まるで割れたガラスが擦りあうような。嫌な予感が呼吸を奪う。
力の入らない手が暴いた紙袋の底。粉々に砕け、見るも無残な姿に形を変えたスノードームがあった。
瞬時に悟る。もうミツは帰って来ないと。
春先とはいえ、まだ少し肌寒い風が頬を撫でる。薄く開けた窓から、風に乗ってかすかに桜の匂いがした。近所に公園でもあるのだろうか。子供たちのはしゃぐような声も聞こえてくる。のどかな、なんてことない休日の一幕。
「兄さん」
それにしてもいい天気だ。白いレースのカーテンから、柔らかな日差しが、午後のゆったりとした時間に降り注いだ。ここまで気持ちよく晴れたのは久しぶりな気がする。あまりにもいい天気にもったいない精神が働いて、朝からやれ洗濯やら掃除やら衣替えやら忙しなく走り回っていた。
一織が。
「兄さんっ」
「…なに、一織」
ごろりと寝返りを打った先、呆れたように腕を組んでこちらを睨む一織の姿があった。おうおう、そんな怖い顔したら、クールでシャープな顔が台無しだぞ。メンバー一の常識人は、実の兄にも容赦がない。早業でブランケットを奪われて、オレは悲しみに震えた。あぁこんなことなら寝起きの悪いリクを起こすために、布団を奪う超絶技巧を教えるんじゃなかった。今になって自分に帰って来る仕打ちに、頬を膨らます。
「いい加減ぐうたらしてないで、少しは手伝ってください」
本当、しょうがない人ですね。
ため息と一緒に吐き出された言葉は、一織の家に転がり込んでからもう何度も耳にした。例えば、転がり込んだ日の玄関で。一緒に夕飯を作ったキッチンで。並んでテレビを見たソファで。そのすべてに気が付かないふりをしたまま、オレはしぶしぶ起き上がった。
「あーはいはいはい」
「はい、は一回で十分です。さぁほら早く。働かざる者食うべからず、ですからね」
まだ終わっていないらしい風呂掃除を任されて、ぺたぺたと素足で冷たい廊下を歩く。日差しが差し込む窓辺から一歩離れただけで、部屋の温度が一度下がったような気がした。足の裏から伝わるひんやりした空気が、少しだけ頭の中をすっきりさせた。
一織の家に転がり込んで、もう二ヶ月ほどになる。
オレが小鳥遊寮を出たのと同じように、一織も今はひとり暮らしだった。事務所近くのマンションにちょうどいい部屋が見つかったとかなんとかで、大学進学と共に引っ越した。遊びに来たのは数回程度だが、いつも片付いていて綺麗な部屋だ。
かしゃんと軽い音を立てて、風呂場の扉を開く。清潔に保たれた浴槽は、もう磨く必要も感じなかったが、居候している身だ。家主の言う通り、働かざるもの食うべからず。スウェットの裾を膝まで捲って風呂場に入る。乾いたスポンジを濡らして、洗剤を泡立てた。
あの日、大和さんの家を出て。ふらふらと寄る瀬なく朝日に包まれた街をさまよったオレは、何を思ったのか気が付けば一織の家の前にいた。
自分の家には帰りたくないと思った。誰もいない静かな部屋でひとりになったら、抑えた何かが溢れてしまいそうで怖かったのだ。必死で隠した汚い感情と向き合う勇気さえなくて、無意識に誰かといたいと思ったのかもしれない。
一織がいる保証も、迎え入れてくれる確証もなかった。震えの止まらない手でインターホンを押して、じっと待つ間も唇を噛み締めていた。でも一織は家にいて、早朝に突然訪ねたというのに家に招き入れてくれたのだ。
酷い顔。本当、しょうがない人ですね。
そう、困ったように笑って。
蛇口についた水垢が気になって、スポンジを滑らせた。ごしごしごし。一心不乱に擦れば、跡形もなくきれいさっぱりなくなった。シャワーのコックをひねって、泡だらけの浴槽を洗い流す。ざあっと底を叩く音が、まるで雨のようで。脳裏に大和さんの細めた瞳が浮かんだ。
自分で壊した。痛い程わかっている。
それなのに、壊した自分が一番傷ついているなんて馬鹿みたいだ。
栓を抜くのを忘れていたせいで、泡を含んだ水の濁流が行き場を失い溜まっていく。それはどこにも吐き出すことの出来ない感情で溺れそうな、オレの心にとてもよく似ていた。大和さんが好きだから、嫌われたくないから、オレじゃ与えてあげられないから、自分から手放した。しあわせになって。いつか誰かに言われて傷ついた言葉を、そのままそっくり投げつけてオレは苦しむことから逃げたのだ。
しゃがんで栓を抜く。溜まった水は、一気に排水溝に吸い込まれていった。オレのエゴも矛盾も、全部全部一緒に流せてしまえたら。ただ好きだという澄んだ感情だけで隣に立てるのに。
「兄さん、それが終わったらお昼にしましょう」
様子を見に来たらしい一織が、声を荒げる。
「ちょ、ちょっと!もったいないじゃないですか!」
「へ?……うわっ!」
「あーもう、なにやってるんですか」
ぼーっと思考にふけっていたせいで、シャワーを止めるのを忘れていた。おかげで無駄な水を使ってしまったし、いつの間にかスウェットまでびしょびしょになってしまっていた。
「……ごめん」
オレの手からシャワーを奪って、水を止めた一織が背を向けたまま言った。
「頭は冷えましたか」
「うん」
ぽたぽたと裾から落ちる雫が、浴室にやけに響いた。
「じゃあ、お昼にしましょう、ね?」
やさしい笑顔が今は心に刺さる。ちくちく。ずきずき。それはあの日掌を刺した小さな破片のように、胸をえぐってやまなかった。ふと濡れた掌に目をやる。今だ残ったままの傷が、ただ静かにオレを見つめ返していた。
気が付けば通り過ぎていった春も、
うだるような熱を残して駆けていった夏も、
ミツは帰ってこなかった。
「今日は十二月下旬並みの寒さとなるでしょう。防寒対策をお忘れなく」
街路樹が色づき一段と華やかになった街中を、マスクと深くかぶった帽子で歩く。ついこの前で暑い暑いと騒いでいたと思ったら、もう防寒具が必要とは。日本の四季はちょっとせっかちだ。朝の天気予報の通り、少し厚手のコートは冷たい風から身を守ってくれた。
空っぽの部屋から逃れるように、仕事を詰め込んだ。今まで断っていたドラマも映画も出来るだけたくさん。部屋には疲れて寝に帰るだけ。おかげで今年一番活躍している俳優だと言われている。
皮肉なことだ。ミツに見てほしくて、ミツが背中を押してくれたことに今だしがみ付いている。未練たらしいったらありゃしない。以前ならきっと、こんなことはしなかった。去っていくものに追いすがって、忘れられないなんてどうかしてる。過去の自分がくすくすと嘲笑う。
だけど知ってしまった。メンバーが、マネージャーが、ミツが、教えてくれた。大事なものを守ること、甘えること、さらけ出すこと。肩を並べて笑いあうことの楽しさ。呼んだらこたえてくれるやさしい声。ぬくもりに包まれることがどんなにしあわせか。
もう間違えたくない。
こつこつと重たいブーツが歩道を叩く。小気味よい音に機嫌を良くして、今日は駅から歩いて帰ろうとタクシー乗り場を通り過ぎた。そのまま自転車が軒を連ねる駐輪所を突っ切って、大通りへ出た。相変わらず車通りの多い道だ、なかなか変わらない信号をじっと見つめて待つ。
青か赤か。白か黒か。男か女か。
世界はいつもふたつに分かれている。ミツも俺もそれに倣おうとして、あがいて、諦めた。だけど本当にそうしなければならなかったのか?
ぱっと青に切り替わって、ぞろぞろと動き出す雑踏に紛れ横断歩道を急ぎ足で歩く。渡った先はもう住宅街へとつながる路地だ。途端人気がなくなって、静かな影がそっと落ちる。秋の夕暮れはどこか寂寥を漂わせ、降り注ぐ日差しもひっそり物悲しい。ぽつぽつ灯っていく街灯が、さながら魔法のように思えて。夕暮れから夜へ変わっていく街は、切ないほど綺麗だった。
ふと音楽が聞こえて立ち止まる。あたたかい光が漏れる住宅の内のひとつ。それはそこから聞こえていた。
吸い込まれるように近付くと、イルミネーションで飾り付けられた一軒の家に辿り着いた。屋根から長く垂らされた光が、壁をも包んできらきら輝く。ご丁寧に植え込みまでクリスマスまでまだ一か月以上もあるのに、なんて気が早い家だ。心の中で苦笑する。
よく見るとショーウインドウに似た出窓が付いていた。綺麗に磨かれた窓から、部屋の中が見える。子供部屋のようだった。かすかに聞こえる音楽は、この部屋から流れているのだろうか。メジャーなクリスマスソングに混じって、子供のへたくそな鼻歌が聞こえて笑みが深くなる。笑ったせいでずれてしまったマスクを上げた拍子に目線が変わって、俺は目を見開いた。
出窓のすぐ側にぬいぐるみやオーナメントと共に並べられたそれは。色とりどりのイルミネーションの光を受けて、ガラスの球体を一等綺麗に輝かせていた。
「……スノー、ドーム」
閉じ込められた世界で降り続ける雪は、ちらちら静かに積もっていく。どうして忘れていたんだろう。いや忘れてなんかいなかった。見ないふりをしていただけで。ぎゅっと心臓が掴まれたように、息が苦しくて。脳裏に散らばった破片を思い浮かべた。
家の引き出しの奥で眠る、割れたスノードームがよぎる。破片ひとつも捨てられなくて、紙袋に包まれ、あの日のままだ。
ふいに久しぶりにみっつの雪だるまの顔を見たくなった。愛想が足りない俺みたいな雪だるまに、ミツみたいな満面の笑みの雪だるま、そして寄り添うように微笑む小さな雪だるま。透明な家を失ったあいつらに、会いたくなった。
早く帰ろう。
数ヶ月ぶりの感情に、慌てて踵を返し再び歩き出す。こつこつこつ。響く足取りはより軽く、駆け出す歩幅はより大きく。競歩でもマラソンでもないのに、ポケットに入れた掌をきつく握りしめて一直線に自宅に向かった。
マンションに着くころには、だいぶん息も上がっていた。いつもなら空っぽの部屋に入る前、一呼吸置かないと苦しかったというのに、今日は早く入りたくて入りたくて、もどかしさに震えながら鍵を開けて滑り込んだ。
靴を脱ぐのも億劫で、適当に脱ぎ散らかして廊下の奥へ突き進む。コートすら脱がずに、バッグもソファに放り投げて、ずんずん進んだ先にある寝室に辿り着いた。
洋服やら靴下やらを詰め込んでいるチェストの、引き出しの一番下。さらにバスタオルや普段使わない季節外れのシャツをかき分けたその先に、それはあった。
「…よ、久しぶりだな」
少し埃の被った紙袋は、見ないうちに随分ぼろぼろになっていて、時の流れを感じさせる。たった一年、されど一年。よく頑張ったよなぁ、俺も。人知れずごちて、中身を広げるためにリビングに移った。
破片を散らかして怪我をしないように、そっと紙袋を開ける。あまりにもガラスが粉々になっているせいで、上手く取り出せずに、結局紙袋に鋏を入れて切り開いた。改めて照明の下で見るスノードームの残骸は、思った以上に無残だった。ひび割れた球体ガラス、中に入っていたであろう雪だったものは半分以上なくなっていて、プラスチック製だった土台も欠けている。これを見つけた時の苦い記憶がぶり返して、手が少しだけ震えた。
しかし幸いなことに、みっつの雪だるまだけは奇跡的に無事だった。ガラスの破片が散らばる中、壊れる前と同じ姿の雪だるまを拾い上げる。
相変わらずぶっさいくで、やっぱり俺に似てる雪だるま。お前はもう少し愛想ってもんを覚えた方がいいんじゃねぇの。俺みたいに置いてかれるぞ。つん、と指で弾くと、余計なお世話だとでも言うかのごとく跳ね返った。
隣に並ぶのは、ミツみたいにひだまりのような笑顔で笑いかける中くらいの雪だるま。もう随分こんな笑顔を見ていない。まだ、笑いかけてくれるか?指でやさしくなぞれば、吸い付くように肌に馴染んだ。
最後にいちばんちっこい恥ずかしそうに微笑む雪だるま。他のふたつの雪だるまに気を取られてしまいがちだったが、こいつのおかげでミツは俺たちの「これから」を考えたと思うと、ちょっと感慨深い。ありがとな、俺もなんとなくだけど、いまさら向き合う覚悟が出来たよ。
テーブルの上で、みっつの雪だるまを並べてみる。そのまま飾るのも悪くない。でも、やはりこいつらはスノードームの住人なのだ。いちばん小さな雪だるまが、ちょっぴり寂しそうな笑顔に見えて、思案する。
作り直したい。
でもどうすれば。迷ったのは一瞬だった。今はインターネットという文明の利器があるのは強い味方だ。さっそくスノードームを修理してくれるところはないかと検索して、俺は知った。
「すげえ、スノードームって自分で作れんのか」
今まで踏み入れたことのないハンドメイドの世界では、スノードームが自作できることは当たり前らしい。未知の領域におののきつつ、様々な方法を紹介するブログにざっと目を通す。初心者でも家にあるもので簡単に作れると書いてあるが、本当にこんな風に作れるのだろうか。材料は?時間はどれくらいかかる?綺麗に作るコツは?
この時、俺は無意識のうちに、自分で作り直すこと前提で考え始めていた。
ブログを一旦閉じて、ひと息つく。もし、もしも自分で作り直せたら。そしたら、ミツに。
あぁ今日の俺はなんだか変だ。全然柄じゃない。それでも、小さな希望に賭けてみたいと思った。
椅子から立ち上がる。着たままのコートを脱いで、これもソファに投げ、腕まくりをする。まずは材料集めだ。頭の中でさっき見たブログの内容を思い出す。瓶と、中に入れるオーナメントと、土台になるスポンジと、雪に見立てる飾り、…あとなんだっけ。うっかり思い出せなくて、慌てて携帯で閲覧履歴からブログを呼び出す。あ、そうそう。洗濯のりだ。
中に入れるオーナメントは、雪だるまみっつにするとして、それ以外の材料が家にあるとは到底思えなかった。とりあえず、まずは空き瓶を確保しようとキッチンへ向かう。最近瓶ものを買った記憶は全くない。まぁなかったら、明日どっかで買ってくればいいか。そんな気楽な気持ちで食器棚を覗いて俺は絶句した。
「…………あった」
掌に乗るくらいの大きさで丸底の空き瓶が、待ってましたというように食器棚の奥で鎮座していた。いやいやいや、こんなあっさり見つかるなんて。驚きつつ、せっかくなのでありがたく使わせてもらうことにする。しかしこれは何が入っていた瓶なんだろうか。かぱ、間抜けな音を立てて開ければ、鼻腔をくすぐるオレンジの匂いがかすかに香った。もしかしてこれは。
『実家から大量に届いてさぁ、あんまり多いからジャムにしたんだ。大和さんにもおすそわけ!』
『って言われてもなぁ…お兄さん、そんなに甘いもの得意じゃないよ、ミツ』
『オレお手製のオレンジマーマレードジャムだぞ!寮でもちょっとは食ってたじゃん。いーよ、大和さんが食べなかったら、オレが来たとき食うから』
『あー…そうして』
ここに来るまですっかり記憶の彼方に飛んでいた、ミツとのやりとりを鮮明に思い出す。結局ジャムの大半はミツが消費したんだっけ。ミツが焼くパンケーキにのせたら食べれるって言ったら、しぶしぶ作ってくれた。ミツは文句言ってたけど、確かにジャムは甘さ控えめで美味しかったよ。
ぎゅっと空き瓶を握りしめて、今度はキッチンの引き出しを探る。予想通りスポンジの予備はそこにあった。ミツがよく好んで使っていたオレンジ色のスポンジは、常に予備が用意されていて常々俺は不思議だった。しかし今ここで役に立ったので、これもミツに感謝しないといけない。
ジャムの空き瓶とスポンジを持って、キッチンをあとにする。次は、降り続ける雪に見立てる飾りだ。ブログには、ラメやパウダー、耐水性であればリボンやモールを細かく切ったものでもいいと書かれている。殺風景な独身男性の部屋にはもちろんそんなものが常備されているわけもなく。これは流石に諦めるか。と、思いつつ、なんとなく机の引き出しを開けてまた絶句する。
「……あった、」
キラキラとラメが散りばめられた少し硬めのリボンと、俺とミツのイメージカラーとされる緑とオレンジで縁取られたリボン。普段ほとんど開けない引き出しのせいで、全然頭になかった。これはどうしてここにあるんだろう。記憶を掘り起こし、思い当る。
『大和さん、映画主演お疲れ様〜!』
『んー、ありがと』
『これはオレからプレゼントです』
『えっ、なに、酒?って、めっちゃいいやつじゃん。どうしたのよ、これ』
『きつい現場で頑張った大和さんに、ご褒美!今日はこれで飲み明かすぜー!』
『お前さんも飲むのかよ』
『当たり前じゃん!』
得意顔で振り返ったミツの笑顔が、眩しくて。目を細めたのを覚えている。あまりにもいい酒だったから、包装すら捨てるのが惜しくてリボンだけ抜き取った気がする。それがここにあったなんて。我ながら、記憶力のなさに驚いてばかりだ。銀色のラメがあしらわれた上品なリボンは、もったいないが細かく切って雪にしてしまおう。緑とオレンジのリボンは…そうだな、外側に飾りとして巻いてもいいだろう。またひとつ、材料が集まった。
最後は洗濯のりだ。自分で買った記憶はないけれど、どこかで見たことがある気がする。確証はなかったが、とりあえず洗濯機のある脱衣所へ足を向けた。
普段、洗濯洗剤が置いてある戸棚を覗いてみるが、それらしいものは見当たらない。予備のシャンプーや歯磨き粉が入っている洗面台下の収納にもなかった。俺の勘違いだったのかもしれないと、自信のなくなってきた記憶をたどって思い出す。
『ミツ、それなに入れてんの?』
『洗濯のり!これで大和さんのシャツもぴしっとパリパリにしてやるんだからな』
『いつになくミツがやる気』
『明日は大事な打ち合わせなんだろ?私服とはいえ、ちょっとは見栄えよくしていかねぇと』
休日になると溜め込んだ洗濯を手伝ってくれていた。いつの間にか洗濯洗剤や柔軟剤までミツの好きな匂いに変わっていて。それが当たり前になっていた。せっせと洗濯にいそしむミツは、どこからあれを取り出していたっけ。さらに記憶をたどって、ヒントを探す。確か、下じゃなくて…上を見ていたような。
「あっ……た」
バスタオルなんかを入れている籠の横、半透明のボトルがちらりと姿を見せていた。ミツは背伸びしないと届かなかったな。じゃあなんでわざわざこんなところに置いたんだよ。内心で突っ込むけれど、今は理由を教えてくれるやつはここにはいない。
これで材料は全部そろった。最初のリビングに戻ってきて、テーブルにすべて並べる。ミツが作ってくれたジャムの空き瓶に、ミツのお気に入りのスポンジ、ミツがくれたプレゼントに使われていたリボン二本に、ミツが俺のシャツを仕上げるために使ってた洗濯のり。材料のすべてにミツがいて。この部屋から消え去ってしまったと、なくなってしまったと思っていたミツとの思い出が、こんなにも家中にこぼれているなんて。
「これで忘れてくれなんて、無理に決まってる…」
はぁ。ついたため息は、もう悲しくはなかった。
さて、作りますかね。
さっきから参考にしているブログをもう一度開いて、作り方を確認しつつ実際に作っていくことにした。
まずは、スポンジを瓶の蓋に合わせてくり抜く。カッターなんてものはないので、強引に鋏で切ろうとしたが案外これはいけた。くり抜いた土台は、接着剤で蓋に張り合わせて取れないように抑える。
少し待って完全に乾いたら、次は土台に雪だるまみっつを接着剤でくっつけるのだが。これが結構難しい。そもそもオーナメントが小さいので、素手で乗せたいところに持っていくのが至難の業だ。それに加えてみっつも雪だるまがあるので、その位置を決めるのも一苦労で。キャラ弁やなんやと割と手先が器用な方であると自負していたが、ハンドメイドの世界ではまだまだのようだ。まぁこんな機会二度とないだろうが、少し悔しかった。
最後に、銀色のラメが光るリボンを細かく刻んで瓶に入れ、雪に見立てる準備をする。一方で、使わなくなっていたグラスに水と洗濯のりを七対三の割合で入れ、よくかき混ぜる。ブログによれば、洗濯のりのおかげで水に抵抗が出来て、飾りがまるで雪のようにゆっくりと落ちるらしい。まさか洗濯のりがこんなところで活躍するなんて、ミツも思っていなかっただろう。くるくると割り箸でグラスを混ぜながら苦笑する。さて、そろそろ大丈夫じゃないか。目分量で入れたにしては、いい感じにとろみがついた。そうしてグラスを持ち上げて、水を瓶の中に注いで、注ごうとして、俺は手を止めた。
いや、これはいるか?
頭の中をある思考が走り抜けていく。そうだ、俺はずっと。最後のピースがぴたりと当てはまったように、頭がすっきりと晴れ渡っていく感覚を噛み締める。
持ち上げたグラスをテーブルの上に戻した。ついでに瓶の底に積もって、雪として舞う時を今か今かと待っているリボンの欠片もひっくり返して取り除く。残念だけど、お前たちが散るは永遠に来ないみたいだ。
空っぽになった空き瓶を、そのまま土台にかぶせて蓋を閉めた。きゅ、と軽い音でしまったら、そこはもう閉じ込められたガラスの世界だ。だけど、以前のようにやさしさという重たい水で満ちた世界ではない。いつでも緩めることが出来るし、隔てるガラスを取り除くことだって出来る。
これでいい、これでよかったんだ。仕上げに緑とオレンジのリボンをぐるっとひと巻きすれば完成だ。透明なガラスを覗き込んで、ひとり満足げに頷く。
雪の降らないスノウドーム。
これが、俺の出した結論だった。
*****
「ただいまー」
今日の仕事を終えて、もはや自分の家のように一織の家に上がり込む。とっくの昔に渡された合鍵を使って開けた部屋はまだ真っ暗で、部屋の主が不在であることを教えてくれた。
「あれ、一織いないのか」
まぁいいや、どうせ今日はオレが食事当番だし。ぽちぽち部屋の照明を点けながら廊下を歩く。誰もいない部屋は冷え切っていて、思わず背筋を震わせた。もう冬なんだなぁ、そうぼんやり思う。
リビングに着くなり、暖房とこたつのスイッチを入れたが、部屋が暖まるまでしばらくかかるのでこたつに避難することにした。一織が帰って来るのは、多分もう少し後だろう。少し暖まってから、夕食の準備に取り掛かっても遅くない。言い訳を並べて、ずるずるとこたつの中に潜り込んだ。
暗くて寒いのは嫌だ。あの日を思い出すから。
耳の奥で、ざあざあと雨の降る音がする。それに交じる幼い女の子の鼻歌も。今だに思い出す、大和さんが目を細めて秘かに笑う瞬間。突きつけられる現実を噛み締めることしか出来ない現実にめまいがしそうだ。
大和さんのいない、一年。長かったような短かったような。でも確実に言えることは、まだ、忘れられないということ。夏が過ぎて、秋が来て、冬になっても、自分から手を離したくせにいつも大和さんを探している。
この広い世界には、たくさんのしあわせが溢れている。でもそのどれにも当てはまることの出来ないオレたちは、オレは、どうすればよかったんだろう。この骨ばった手と身体じゃ、何も作ることが出来ない。
鬱々とした気分がさらに急降下していく。一織がいないせいでひとりだから、余計に沈んでしまう。まだ部屋は暖まらない。もういっそこのまま寝てしまおうか。細めた瞳をゆるゆると閉じる。ぽかぽかとちょうどいい温度になってきたこたつが、より眠気を誘って。静かに息を長く吐き出せば、寒さで強張った身体も解れ、うとうと夢の世界へ足を踏み入れる。心地よいあたたかさに、とろとろ思考が溶けていって、あぁねむいなぁ。あくびをひとつ、くぁぁと漏らして本格的に眠りの縁へ手をかける。と。
ピリリリリリリ!
突然、つんざくような着信音があたりに響いた。
「……う、るさ…」
音の正体を手探りで探す。あれ、携帯電話どこにやったっけ。あれ…あぁもう鳴り止め!結局探す間も止まらない音で、眠りから強制的に引きずり出された。せっかく眠れそうだったのに、誰だよ…電源落とそうかな。しつこすぎる…胡乱な目で液晶を確認して、思わず跳ね起きた。
「もっもしもし、母さん?」
「三月〜、久しぶり。元気にしてた?」
電話の向こうで、相変わらずのほほんとした母の声がこだまする。何年経っても変わらない、やさしさとあたたかさに満ち溢れた声だ。不思議と、構えた身体からするすると力が抜けて行った。ふぅ、と息を吐いて、肩までこたつに潜っていた身体を起こす。
「どうした?そっちから電話してくるなんて珍しい」
いつになく上機嫌の母は、鼻歌でも歌い始めそうだ。のんきだなぁ。我が親ながら、いつも明るくて笑顔が絶えないところは本当に魅力的だと思う。天然が過ぎるところは…まぁちょっとしたお茶目だ。
そんな母は意外にも電話はあまりしてこない。もちろんメールのやりとりは頻繁にする。ただ仕事柄向こうは朝が早いし、オレは不規則な生活をしているせいで、生活リズムが合うことは滅多にない。だからすぐに取らないと繋がらない電話はほとんど使わないのだ。じゃあ、電話にしたということは、よっぽど緊急か、重大か。そう思い当ってごくりと唾を飲む。去年みたいに、クリスマス商戦既刊中の手伝いの依頼とか、可愛いもんだといいな。
しかし母の口から出たのは、まったくもって予想外の話だった。
「ね、三月。今日二階堂くんがうちに来たの」
ひゅ、呼吸が、止まる。
上手く息が吸えなくて、声が出て来ない。ようやく絞り出した声は、震えていた。
「……な、なんで」
落ち着け、落ち着けオレ。メンバーが実家のケーキ屋に来ただけだ。それ以上もそれ以下もない。だから、震えるな。落ち着くんだ。
「全部、聞いたわ」
ぜんぶ。知らずに口から漏れた。握りしめた掌に、伸びた爪が食い込んで痛い。身体じゅうがぶるぶる震えて、心臓が激しく皮膚を叩いて。自然と呼吸が荒くなる。電話の向こうから聞こえる口調が、聞いたことのないくらい優しくて真剣なものになっていく。駄々をこねる子供をあやすように、抱きとめるように。それは昔よく聞いた母の声だった。
「大事にしたいけど自分は不器用だから、傷付けたって悔しそうだったわよ」
今度こそ完全に思考が止まった。上手く言葉を理解することが出来なくて、何度も頭の中で反芻する。大事にしたかったじゃなくて、大事にしたいって。
なんでそんな。それじゃあ、まるでまだ。
まるでまだオレのこと、好きでいてくれるみたいな。
俯いた視界は薄く幕が張ったかのごとく、ゆらゆら不安定で定まらない。それはオレの心とよく似ていた。
ねぇ三月。いっとうあたたかい声で母が言う。
「あんなすてきな人、諦めていいの?」
ぽたり。一粒落ちた瞬間、ダムは決壊した。
もう駄目だった。一年分我慢した、会いたいが一気に溢れ出す。想いが嗚咽となって、涙となって止まらない。
諦めていいわけがない。だってまだこんなに好きなのに、会いたいのに、抱きしめてほしいのに。手放したのは自分で、大和さんはそれを受け入れた。それで終わったはずの恋をずるずると引きずって、今だひとりに慣れずに自分の部屋にすら帰れない。自分がこんな臆病で女々しいやつなんて、大和さんに出会うまで知らなかった。
大和さんと出会って、あいされる喜びを知った。笑うと眼鏡の奥で細くなる目も、大きくて力強い腕も、不思議と落ち着く匂いも、オレの手料理を美味しそうに頬張る姿も、酔うと甘えたになるところも。簡単に忘れるわけがない大和さんへの大好きで溢れている。
電話の向こうで母が困ったように笑う声がする。みっともないところ見せてごめんね、母さん。今だけ許して。
しあわせにできなくてごめん、の裏側は、オレが誰より一番しあわせにしたかった、だ。なのに今、オレが喜びで胸いっぱいになっていて。
やっぱり大和さんはずるいや。
聞きに行かなくちゃ、大和さんの答えを。オレが逃げたふたりの「これから」をもう一度やり直せるなら。
ぐちゃぐちゃの顔で、鼻を啜って母に問いかける。
「……大和さんって、いつぐらいに帰った?」
「ん〜?さっき」
「うんうんさっきね、…さっき!?」
「そうよ、夕飯食べて行かないか誘ったんだけど、駅前で買い物して帰るって断られちゃって。この時間ならまだいるんじゃないかしら?」
慌てて時計を見る。まだ電話で話し始めて十分も経っていない。ここから地元まで電車で三十分。駅前のショッピングモールに入ったとしたら、きっとあと一時間はいるだろう。案外あそこはいい店が揃っている。もしいなかったとしても、家に行けばいい。ここまで考えたら、もう身体は動き出していた。
「あ、そうだ!三月、今度二階堂くんの好きな料理聞いといてくれる?せっかくだからご馳走したいわぁ」
「えっと、ぶり大根!ぶり大根かな!ありがとう母さん!また連絡する!」
電話を片手にもう一度コートを羽織り、バッグを掴む。短い廊下すらもどかしくてバタバタと忙しなく走った。
「そう?じゃあ今度はぶり大根用意して待ってるから、ふたりで来なさいね」
じゃあまた。急いでいるのがわかったのか、くすくす笑った声で電話は締めくくられた。母さんには頭が上がらない。こっちこそ今度なにかご馳走しようと心に決めて、ブーツに足を突っ込み閉めたばかりの鍵を開ける。そのまま体当たりでもするかのように勢いよく扉を開けようとして、勝手に扉が向こうに開いた。
「うわっ、」
「わ、ぶっ!」
勢いを付けたまま何かにぶつかってしまい、ぶつけた鼻頭をさすって見上げる。
「兄さん!すみません、まさか扉の向こうにいるなんて気が付きませんでした!怪我はないですか?」
正体は仕事帰りの一織だった。夜にまぎれた黒い髪が、街灯に照らされて輝く。外の冷気にあてられたのか、一織も鼻を真っ赤にしていた。
「おう、おかえり一織。こっちこそごめんぶつかって、オレは大丈夫だ」
「そう、ならよかったです。ってあ、ちょっと!」
本当はもっとちゃんと言いたいことがあるのだけど、とにかく今は急がなくちゃ。急く気持ちのまま、あっけに取られる一織を残してオレは駆け出した。
「ちょっと出かけてくる!」
一織が降りてきたまま止まっているエレベーターに駆け込んで、一階と閉めるボタンを連打する。壊れたらごめん、だけど今だけは許して。一刻も早く大和さんに会いたいんだ。エレベーターの扉が閉まる直前。
「いってらっしゃい!」
一織の声が滑り込んだ。
オレは知らない。一織が困ったような笑みではなく、ほっとした顔で、しょうがない人ですねと微笑んだことを。
*****
帰宅ラッシュのせいで、ぎゅうぎゅうに押し込まれた車両からようやっと解放されたオレは、改札を抜けて駅を飛び出した。
数か月ぶりに見る地元の景色は、クリスマス一色で、あちこちにイルミネーションが施されていた。ちかちかと眩しい明かりの中、金曜日でにぎわう街を行く。駅から直結のショッピングモールはすぐそこだ。広場を行き交う人ごみをかき分けて、見慣れた姿を必死で探した。
まだ店内にいるのか、もう帰ってしまったのか。
携帯電話で連絡すればいいのに、そんなことはすっかり頭から抜け落ちていて、とにかく流れる人ごみを目で追う。家族連れ、サラリーマン、カップル。たくさんの人々が行き交い、すれ違う。その中心でオレはたったひとり、大和さんだけを探し続けた。
しかしあまりの人の多さに、到底見つけられそうになく。気持ちだけが急いて、焦る。大和さんの気持ちが変わる前に聞きたい。今じゃなきゃだめなのに。聞きたいことがたくさんある、言いたいことも。あぁどうして今日に限ってこんなに人が多いんだよ!
かじかんだ指が寒さで痛い。そこでようやく急ぎすぎて手袋すらしてくるのを忘れたことに気が付いた。なにやってんだろ、オレ。はぁっと手に息を吹きかけて、少し後悔し始めた時。広場の奥から、わっと歓声が上がった。
何かやっているのだろうか。その声に誘われるように近付くと、次第に大きなツリーが見えてきた。こんなツリーあったっけ。記憶を探るも思い出せなかった。人の身長の二倍くらいの高さで作られたツリーは、流れる音楽に合わせてきらきらと色を変え、輝く。群がった子供たちが、色が変わる度に楽しそうに騒いだ。
ふと、その近くに立つ、人影を見つけた。その視線は子供たちにではなく、ツリーに注がれていて。眼鏡の奥の瞳を眩しそうに細めている。
いた、大和さんだ。
咄嗟に声をかけようとして、出来なかった。どうすればいいか分からなくて。ついさっきまで会いたいと叫んでいた心も、いざ目の前にすると途端に静かになってしまい困惑する。何から聞こう、どうやって話そう。あと数十歩の距離で、俯く。
大和さんがオレの実家に来たってだけで、やっぱり諦めたくないと思ってやって来たけれど、もう今更じゃないのか。大和さんはオレに完全にさよならするつもりで来たのかもしれないんだから。今になって、なんだかそう思えて来て。立ちすくんだまま、つま先を見つめて震えた。
じっとそのままでいると、突然、視界の中にもうひとつつま先が増えた。見慣れた、茶色いブーツのつま先。履き潰されて、ちょっと先っぽに傷が付いている、去年オレが大和さんに選んであげたブーツ。それを見て、自然と言葉がこぼれた。
「……まだ、履いてんの。それ」
「あぁ、部屋もそのまんまだよ」
「うん」
沈黙が落ちる。久しぶりの会話はぎこちなくて苦しい。
「ミツのさぁ、しあわせってなに?」
今度は大和さんが問いかけた。
オレのしあわせってなんだろう。
色んな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え、結局オレは口をつぐんだ。今何か言えば、全部ぶちまけてしまいそうで怖かった。何も答えないオレに大和さんが続ける。
「ミツと別れて、色々考えた」
言いながら大和さんが小さな紙袋を差し出す。まだ顔を見れないまま、俯いてそれを受け取った。
「だけどようやくわかった」
おそるおそる中を開けてみると、そこにはスノードームがひとつ、入っていた。
「……これ、」
そっと掌にのせて取り出す。ガラスに閉じ込められた世界の中で、見覚えのある雪だるまがこちらを見て笑っていた。オレが合鍵を使った最後の日、手を滑らして落としてしまったスノードーム。罪悪感で押し潰されそうになって、紙袋に包んで捨てたはずなのになんで。
ガラスにイルミネーションの光が映って、きらりと瞬く。だけど逆さまにしても一向に雪が降らなくて、中に液体も雪もそもそも入っていないことに気が付いた。
頭上で大和さんが笑う気配がする。つられて思わず上を向くと、泣くのをこらえるかのように顔をゆがめた大和さんがいた。その表情に、ぎゅっと胸が掴まれる。
なぁミツ。
声は白い吐息となって、ふんわり消えていった。
「雪の降らないスノウドームだって、あってもいいだろ?」
だったら、ふたりぼっちの家族だって、あってもいいんじゃない?
すぐにふざけて茶化す大和さんが、ひとつひとつ言葉を選んで伝えようとしてくれる。オレはその言葉を紡ぐ唇から、真剣な瞳から、目が離せなかった。
「ふたりだけの家族のカタチ、俺はミツと作りたい。それが…俺のしあわせの答え」
遠くでまた、こどもたちの歓声が上がる。でももう、気にならなかった。
オレたちには、ふさわしいしあわせのカタチなんかないと思っていた。普通のしあわせのカタチなんか。でもそれはオレの身勝手な理想だったんだ。世間ではこれが当たり前だからって、最初から望んでいなかった大和さんにまで押し付けて、自分もそれに苦しんで。結局何にも残らなかった。
泣くつもりなんかなかったのに、じわじわと涙が競り上がってくる。嫌だ、まだ泣きたくない。大和さんが真剣にオレと向き合ってくれてるとこ、一秒たりとも見逃したくない。けれど想いとは裏腹に雫はぽたぽたこぼれ初め、じっとり頬を濡らした。
「今はまだ、俺はミツに指輪もろくにあげられない。ミツがまた不安に思って喧嘩するかもしれない。でも、そんなめんどくさいとこ全部ひっくるめて、俺はミツと一緒にいたいよ」
ふいに母の声が耳をかすめた。
こんなすてきな人、諦めていいの?
ぐっと噛み締めて首を振る。
――よくない!
手を伸ばして大和さんの腕を掴む。突然のことにバランスを崩した身体にぎゅっと抱き着いて、久しぶりの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。大好きで、一番落ち着く匂い。帰って来た、またこのあたたかい腕に抱かれて眠ることができるんだ。そう思った瞬間、また涙が溢れた。泣き止まないオレをあやすように、大和さんの腕が背中に回る。
「…オレ、いま死んでもいいや。嬉しくて死んじゃいそう」
「死んでもらったら困る、まだ返事聞いてない」
うん、と答えようとして、ちらりと視界に何かがよぎる。
「あ、雪だ」
ふわふわと舞い降りる白いそれは、オレたちのスノウドームにはない雪だ。一層歓声が上がる子供たちを横目に見て、目を閉じる。もう、大丈夫。怖くない。
「オレも大和さんとつくっていきたい、ふたりだけの家族のカタチ」
手始めに、オレも大和さんの家族に会いたいなぁ。
大和さんばっかりずるい。付け加えれば、背中に回った大きな腕にさらにきつく抱きすくめられた。
ミツならそう言うと思ったよ。
その声は、少しだけ、涙で滲んでいた。