結び目を数え終わったら
よくある話だ。この世界で特別な人と出会うことを、人々はみな口を揃えて「運命」という。恋愛においては特に。その象徴とされているのが、運命の人と自分を繋ぐ一本の赤い糸だ。
街行く幸せそうな恋人や夫婦は、みな赤い糸で繋がっている。
幼い頃はきっと自分も運命の誰かと繋がっているんだ、そう信じて疑わなかった。
ある日突然、その赤い糸が見えるようになるまでは。
「お疲れ様でした〜!」
長時間続いた撮影もようやくお開きになり、俺はやっと控室に戻ることが出来た。何時間も照明の下で照らされて疲弊した体は限界を迎え、崩れ落ちるようにソファへと倒れ込む。長い溜息をついて体中の力を抜けば、そのまま眠ってしまえそうだった。
今日は万理さんが迎えに来てくれるはずだったが、予定外の時間延長があったため断った。帰りはどうせ帰宅を急ぐサラリーマンの波に飲まれるだろうし、ひと眠りしてから帰るか。そう思いそっと疲労に任せて目を閉じるも。
ぐぅ。
「くそ…腹減ったな」
うつらうつらする直前で、空腹を訴える自分の腹の音で目が覚めるなど、アイドルとしてあるまじき失態だ。しかし腹が減ったものは仕方ない。撮影中は集中していたため何も思わなかったが、休憩時間に何かつまんだとはいえ微々たるものである。
しょうがねぇ、帰るか。重い腰をあげつつ、今日の夕飯は何て言ってたっけな。と思考を巡らせたところで俺ははっと気付く。
まさか今日は。
追い打ちをかけるように、今度は携帯からメッセージの受信を知らせる音が響く。慌ててラビチャを開くと思った通りの人物からであった。
『大和さん撮影長引いてるんだって?お疲れ様!みんなまだ待ってるけど、もう先に食べるからなー!』
やってしまった…予想外の追撃にさらに体が重くなった気がした。明らかにがっくりとうなだれる様子は他人から見れば面白いものだろう。俺自身はとてもじゃないがそれどころじゃない。なんと言っても今日は約束があったからだ。それもメンバー全員で夕食を食べるという、最近忙しくなってきた俺達にとって貴重になってしまった、とっておきの約束。
『ごめん今終わった、気にせず食べててくれ』
なんとか返信をするとすぐさま既読が付いた。どうやら俺の返事を待っていたらしい。
『了解、気を付けて帰って来いよ!』
ミツからの返信を見てほっと息をつきつつ、再び体を深くソファに預けた。自分も久しぶりのメンバー揃っての夕食を楽しみにしていたはずだったのに、忙しなくこなす日々に紛れて約束を忘れてしまっていたらしい。その事実にひとりショックを受ける。
「…いつからこんなになっちまったんだろうなぁ」
ブラックオアホワイトの後、一気に知名度が上がった俺達アイドリッシュセブンの元へは、多くの仕事依頼が届くようになった。しばらくはその怒涛のスケジュールをこなすことで精一杯だったが、ようやく慣れ始めてきた今、一抹の不安と寂しさを覚える自分がいる。前は毎朝毎晩顔を合わせて同じ飯を食って、互いの呼吸が感じられる生活を送っていたのに。今は個人の仕事も入るようになって、朝起きると誰もいないなんてことはざらにある。
ふと手元にあるままの携帯をちらりと見て、思う。連絡もそんなに頻繁に取らなくなったなぁ、なんて。今じゃ俺によくラビチャを寄越すのはミツくらいだ。ミツを通して、他の現場のメンバーの写真や様子が送られてくることもしばしばで。それもやけにタイミングのよい時ばかりに送ってくるもんだから、なんとなく返信してしまって何日もかけてやりとりを続けたりすることもある。変なところで気が合うらしい。
あぁ、この距離が心地良いと感じ始めたのはいつ頃からだろうか。
ずるずると思考に囚われ始めていたところを、再び軽快な音で現実へと引き戻された。
『早く帰ってこい!みんな大和さんに会いたがってんだぞ』
ミツのそんなメッセージと共に、食事中のメンバーの写真が添付されていた。相変わらず目を輝かせて食事を頬張るリクに、水を渡しながら注意するイチ。左側にはミツを手伝って料理を運んでいるソウ、テーブルの上にタバスコはまだ見当たらない。奥の方にはにこにこととびきりの笑顔で熱心に何か話しているナギと、頷きながらデザートのはずの王様プリンを堪能しているタマ。そして一番手前で楽しそうに笑うミツ。
時間がどれほど開いたとしても、変わらない風景がそこにあった。そのミツの陽だまりのようなあたたかい笑顔を見ると、なぜかほっとして泣きそうになる。胸がぽかぽかとあたたかくなっていく。常々思ってはいたが、こいつの笑顔には不思議な力がある。
気が付けば、沈みかけていたはずの心はいくらか軽くなっていた。
そっとひとつ息を吐いて立ち上がる。
「さぁて帰りますかね」
帰る間際、ふと左手の小指の付け根がじんわりと熱をもっていることに気が付いた。まるで胸のあたたかさが移ったかのような感覚に、俺は無意識に何度もそこを撫でていた。
*****
扉を開けると白とオレンジのふたつの頭が振り返った。その他のメンバーの顔は見当たらず、テーブルの上には俺の分と思わしき夕食が、丁寧にラップをかけられて待っていた。
残念ながら俺の帰宅は遅すぎたようだ。ふたりが手に持ったグラスからカランと氷の音が聞こえて、俺はわざとらしい落ち込んだ表情を作った。
「お兄さん、仲間外れは寂しいなあ」
「遅れたのは誰だと思ってんだ」
「大和さんおかえりなさい」
お疲れ様ですと、にこやかに出迎えてくれた壮五の頭をひとつ撫でて、手洗いうがいをし自分の席に座る。外から帰ってきたら手洗いうがい。体の弱い陸への配慮のためにいつの間にか出来たルールだった。規則にルーズな環でさえ、これだけは必ず忘れない。なんだかんだ言って、やはり優しいやつらばかりなのだ。
「ほいよ、お疲れさん」
席に座ったタイミングでほかほかと湯気を立てた白米が差し出される。口では憎まれ口を叩きながらも、さっと夕食を温めなおしてくれるのがミツのいいところである。ありがたく受け取って、手を合わせた。一口食べてつぶやく。美味い。
「ほんっとミツは男にしとくのが惜しいよな」
「うっせーよ」
「それほど三月さんのご飯が美味しいってことですよ」
「壮五、このおっさんを甘やかし過ぎるな。すぐ付け上がるぞ」
「褒め言葉くらい素直に受け取っておきなさいよ」
「それのどこが褒め言葉だよ」
首をすくめる仕草をすれば、ソウがくすくすと笑い出し、それにつられてミツも笑う。俺も我慢出来ずに吹き出して、しばらく三人で笑い合っていた。ふと時計に目をやったソウが、そろそろ寝なくちゃと言い出すまで。
ソウは明日も早いというのに、俺の帰りを待つと言ったミツを放っておけなかったらしい。それでふたりで晩酌というわけだった。なんだか申し訳ない、そう思ったのが伝わったのか、僕が待っていたかっただけなので気にしないでください、と気を使われてしまった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
そうしてソウが部屋に戻った頃合いで、俺も夕食を食べ終わり。流しへ片付けてソファへと移動すると、見計らったように氷を入れたグラスが差し出された。新しい酒瓶を手にしたミツが隣に座り、酔いでほんのりと赤く染まった頬を緩ませた。
「それソウと飲んでたやつと違うな?」
「うん、いい酒もらったんだけど、ちょっと強いから」
「ソウに飲ませてたら、俺が帰ってくる前に大惨事だったな」
「そうそう、だからこれは大和さんと飲むって決めてたやつ」
にしし、とでも効果音が付きそうなミツの嬉しそうな表情を見て、こっちもなんだかくすぐったい気持ちになる。胸のあたりがじんわりとあたたかくなっていくような、ひだまりの中に包まれるような、不思議な感覚が広がっていった。
ミツといるといつもそうだ。一体このちっこい体のどこにそんな力が眠っているというのか。
「改めてお疲れ様」
カチンといい音を立ててグラスが鳴る。くいっと一気に煽ると、喉の奥が熱く焼ける感覚がした。甘すぎず辛すぎず、口当たりもすっきりしていて飲みやすい。なるほど、いい酒だがソウに与えるには少々強すぎる。
ちらりと隣を見やると一気に煽った俺とは違い、ミツはちびちびと舐めるように飲んでいた。すでにアルコールが入っているせいか、ふわふわと楽しそうに頭が揺れている。それがなんだか面白くて自然と手が伸びた。
「何?縮むからやめろよ、おっさん」
軽く手を置いただけなのに、その言いようはないだろう。不満気にじっとこちらを見つめてくる大きな瞳を見つめ返すと、ぷいっと視線を逸らされた。なんだそれ、そっちから先に見てきたくせに。ミツの態度に少しむっとして言葉を重ねようとした俺は気付いてしまう。特徴的な髪色から覗く耳が、少し赤いことに。酔いのせいか照れのせいかはわからないが、それが可愛く思えてきた俺は、ミツに見つからないように笑みをこぼしながら言う。
「すまんすまん。あんまり楽しそうだから、つい」
「…オレそんなに楽しそう?」
逸らされたはずの瞳が再びこちらを向いた。先程とは違い、恐る恐るといった具合だった。それがまるで小動物みたいで、ついに堪え切れなくなった俺はもはや笑みを隠さずにミツに向き直った。
「まぁね、何かいいことでもあった?」
「べっつにー?」
ミツらしくないはぐらかされた答え。ということは本格的に踏み込まない方がいいということか。なんとなく追い打ちをかけることを躊躇った俺は、あえて茶化すように続ける。
「あらまお兄さんには言えないことなのか、ミツは薄情だなぁ」
「あーはいはい、薄情で結構」
そうしてミツはまたちびちびと酒を飲み始めた。そのせいでミツの返事を境に、ふたりの間に沈黙が落ちる。普段こうやってミツとふたりでいる時は、大抵ミツが何か話を振ってくることが常だ。だからこうしてミツが黙ってしまうと、途端に会話がなくなってしまうことはよくあった。沈黙はあまり好きではない人が多いだろう。俺だってそうだ。会話が途切れてしまうと、何か話さなければと柄にもなく話題を探して振ったりすることもある。
しかしミツとの沈黙は違った。居心地が悪いというより、むしろ心地よい。会話がなくても互いの空気はわかるし、再び口を開くタイミングも自然なのだ。何も喋らなくても破綻しない空気を作れる相手というのは、とても貴重だと思う。
もちろん他のメンバーだって赤の他人と比べれば、かなり気を許している方だと自覚はしている。しかしそういう意味で俺にとって気を使わなくていい存在は、いつの間にかミツになっていた。
そんな心地よい沈黙と、回っていく酔いにゆるゆると浸っていると、オレンジ色のふわふわした塊が、ぽすりと音を立てて俺の肩へと落ちた。
「…久々に大和さんとこうしてゆっくり出来たからだよ」
俯いたまま、ぽつりとかろうじて聞き取れる声量で告げられたそれを、俺は一瞬理解出来なかった。ようやくさっきの問いの答えだと気付いた時には、いつものように冗談であっさり躱せる範疇を越えてしまっていて。俺の頬はミツの髪色に負けないくらい、真っ赤に染まっていた。
「なっ、に…小っ恥ずかしいこと言ってんだよ…」
今度は俺が俯く番だった。見られないように手で顔を覆い隠してへなへなと力なく呟く。
「大和さんが言えって言ったんだろ!?」
ばっと俺の肩から顔を上げたミツの頬も真っ赤で、林檎みたいだなんて場違いなことを考えた。
確かに最近忙しいせいで、以前よりミツとこうして晩酌することも減っていた。俺が時間が空いている時に限って、ミツが早朝ロケだったりと、こういうところではタイミングが合わない。俺だって、久しぶりにミツと飲めて嬉しいという気持ちはある。
しかし、まさかミツから面と向かって言われるとは思っていなかった。柄にもなく動揺してしまって、本当に自分らしくない。顔が熱くて仕方なくて、パタパタと扇ぐ素振りをするも、効果はあまりなかった。
それにしても大の大人がふたりして、深夜に何やってんだか。
「もういい!寝る!」
返事のない俺にしびれを切らしたミツが、赤い顔を隠そうともせずに唐突に立ち上がった。
その瞬間、左手の小指の付け根がきりりと痛んだ。衝動に任せてミツの手を掴み、驚いて振り返った大きな瞳を見つめて言う。
「まだここにいろよ」
ぽかんとこっちを見て驚いている、ミツのぽってりとした小さな唇が、妙に艶めかしく光っていた。吸い込まれそうな程に限界まで大きく見開かれた瞳が、まるで水面のように一瞬ゆらりと揺れて。ゆっくりと目蓋の向こうへと消えていった。
こんな沈黙でさえも心地いいと思ってしまうのは、ミツだからだろうか。
「はぁぁ…」
大きなため息をひとつついた後、途端に静かになったミツはそのまますとんと元通りに腰を落とした。そのまま落ち着くかと思いきや、
「おっさんのアホ!」
「ぐえ、」
そう叫んで、突然腹に飛びついてきた。ちっこい体でも男は男である。勢いがつけば尚更、踏ん張ることなど出来ない。当然受け止めきれなかった俺は、ミツを腹にくっつけたままあっけなくソファへと雪崩れ込んだ。男ふたり分の重みを受け止めたソファがずんと沈む。まるで声無き悲鳴をあげるように。
「おいミツ!」
反射的に声を荒立てて起き上がろうとすると、腹の上に乗ったミツの様子が何やらおかしいことに気が付いた。眼下に広がるオレンジ色の塊が、ふるふると忙しなく震えている。まさかこいつ泣いて…?いや泣く要素なんてなかったろ。すぐに思い直すも、一度可能性に辿り着いけばそう簡単には拭えない。
正直、ミツの泣き顔は勘弁してほしい。普段見慣れない分、どう対処していいかわからないからだ。
俺が混乱の中にいると知らないミツは、俺の腹のあたりで、ぐりぐりと頭を擦り付け始めた。時折堪え切れなかったらしい忍び笑いのような声がかすかに漏れ聞こえ…って、
「この七五三!笑ってねぇでさっさと降りろ!地味に重いっつーの!」
「あっははははは!今おっさん俺が泣いてるとか勘違いしただろー?だっせー!」
ぱっと顔を上げたミツは泣いているどころか、満面の笑みで。そのことにどことなくほっとする自分がいて。結局こいつの謎の行動に怒る気もなくなってしまった。あんまり楽しそうにするもんだから、こっちまで毒気を抜かれて笑いが漏れてしまうのだ。
「ったく、アホはどっちだ…」
もうなるようになれ、そんな諦めの気持ちで体の力を抜く。ミツと触れ合っているところから、じわじわとあたたかいものが溢れ出してくるような気がした。まるで日向で太陽の光に包まれている時に感じる心地よさだ。また出会えた感覚に心の奥が喜ぶように震えた。この感覚はミツといる時にしか感じたことがない。
ミツといるとどうしてこんな気持ちになるのか。どうしてミツなのか。それはまだ触れてはいけない問いだと直感的に思った。触れてしまえば、この心地よい距離は二度と感じられなくなる。そんな気がした。
気を紛らわせるために、目の前でふわふわと揺れるミツの頭を、先程と同じようにぽんぽんと軽いリズムで叩く。
「ふあ…ねっむい……」
「ミツそこで寝んな、布団行け」
「ん*大和さんの手、きもちいい*」
やけに静かだと思っていたら、片足をすでに夢の中に突っ込んでいたらしい。返事がゆっくりと途絶えがちで、とても眠たげだ。起こすために揺さぶるも効果はないようで、数分も経たないうちにすぅすぅと寝息が聞こえ始めた。本当に寝てしまったらしい。こいつも忙しいはずなのに、帰りを待っていてくれたのかと思うと、純粋に嬉しく思った。
顔を覗けば、くるくると忙しなく様々なものを映す瞳は今は閉じられていて。ふっくらとした頬はすっかり押し潰されていた。
「幸せそうな顔しやがって、むかつく」
悪態をつきつつも、自然と頬が緩む。触り心地のよい髪を、飽きもせずに撫で続けた。
ふいに俺の視界の端を、キラリと何かが掠める。
それはオレンジとも黄色とも言えない色をしていて。それこそ太陽の光に色をつけたような色だった。風もないのにゆらゆらと頼りなく揺れるそれは、ミツの頭に乗せた、俺の小指から出ているようだった。光の角度のせいで良く見えないが、糸に見える。
…糸?もしかして。慌てて目を凝らして行き着く先がどこなのか辿ると、その糸はすっと音もなく消えてしまった。
「…まさか、な」
とくとくと心臓が速く打つ。有り得ない考えに、見ない振りをするように。開きかけた扉を、押さえつけるように。心地良さに任せて、俺もそっと目を閉じたのだった。
*****
あ。と思わず声が漏れた。また知らぬ間にオレンジ色を、目で追っていたからだ。ちょこまかと楽しげに揺れるそれは、先日腹の上で寝こけたものと同じだった。
あの後、俺までそのまま寝てしまい、翌朝イチにゲンコツを食らう羽目になったのはお察しの通りだ。
「お子様は元気だねぇ」
同じスタジオの隅から、中央で痛いくらいの照明を浴びて、ころころと表情を変えるミツを眺めていた。ミツの調子はいつになく絶好調だった。今日はこの雑誌の撮影の後に、バラエティ番組の収録が待っている。この調子なら、この後のMCも問題なさそうだ。今日は特番の収録だから、余計に気合が入っているのかもしれない。
手持ち無沙汰に頬づえをつく。視線の先で、ミツがくるりとターンした。柔らかい髪がふわりと広がって、まあるい頬を撫でて。カメラの奥を見つめたミツが、笑みを崩す。そこだけ、一際キラキラと輝いて見えた。
「ヤマト」
目線で追いかけ続けていると、ミツはモニターの前で撮ったばかりの写真をチェックし始めた。先程とは打って変わって真剣な表情で液晶を眺めている。あの視線に射抜かれてしまえば最後、きっと全てを見透かされてしまう。ミツにリーダーを託された時、そんな錯覚に陥ったことを思い出した。
「ヤーマート」
カメラマンとにこやかに話している様子から、無事にオッケーが出たようだ。強い瞳はすっかりなりを潜めていた。何やら言われたらしいミツが、きょろりとあたりと見渡して、俺を見つけてぴょんぴょん飛び跳ねながら手を振る。どうやら俺を探していたらしい。
「ヤマト!!!」
「うおぉ!?」
文字通り飛び上がるように振り返ると、そこには大層ご立腹なナギがいた。涼し気な瞳も整った眉も釣りあがっている。せっかくの美形が台無しだ。
「ワタシ何度もヤマト呼びました!シカトよくないです!」
「ごめんごめん、ぼーっとしてた。どした?」
「どうしたもこうしたもありません!次、ヤマトの番です!ミツキも呼んでいます!」
ずれた眼鏡を戻しながら急いで立ち上がる。はいはい、行きますって。自分でも知らないうちに、夢中になってミツを見ていたいたことが、今更になって恥ずかしいことのように思えた。
「何してんだよ、おっさん」
加えてミツが揶揄う笑みを浮かべているのにむっとして、すれ違いざまにくしゃりとオレンジの髪をかき混ぜる。非難の声は気にせずに照明の下へ立った。怒った顔も可愛いなんて、成人男性には似合わない言葉が思い浮かぶ。言うと面倒くさくなることはわかっているので、声には出さないでおいた。
撮影は滞りなく終わった。何度もお世話になっているところだ。おかげさまで、こうやって度々アイドリッシュセブンを起用してくれる会社も増えている。それは雑誌だけでなく、テレビ番組もそうだ。ブラックオアホワイトの後から、元々出演していた歌番組だけでなく、バラエティやクイズ番組なんかにも呼ばれるようになった。クイズ番組では頭脳派のイチと天然なリクの組み合わせがウケているらしく、バラエティはお察しの通りミツの独壇場である。
「そうなんですよ、こいつら楽屋でもこんな感じで」
「それは一織が口うるさいから!でもそれは俺のために言ってくれてるってわかってる。ありがとな一織」
「ちょっ、七瀬さん!」
「あはは、一織顔真っ赤!」
「はぁ…青春だねぇ」
「おっさん目が遠いぞ」
「うるさい」
「へぇ、アイナナは相変わらず仲良いね、喧嘩しない秘訣とかあるの?」
「それは…」
それは人数の多い特番でもそうだった。上手く立ち回り、程良いペースと分配でトークが割り振られ、緊張しがちなソウやリクも普段通りに話せている。それは経験から培ったというより、天賦の才能と言っても過言ではなかった。おかげで、ミツのいるバラエティ番組で苦労したことは一度もない。
けれども、光を浴びたいと願い続けたミツにとって、それは皮肉な才能だった。ナギの美貌やリクの歌声のように、表立った才能ではないからだ。画面の向こう側の視聴者の何人が気付くだろうか。
それでも、ようやく手にした武器で、ミツは戦っていた。俺たちと一緒に戦えることを、心から喜んでいた。俺は嬉しかった。仲間の頑張りが認められて、嬉しくないわけがない。ミツが人一倍努力してきたことも、上手くいかなくてひとり泣いていたことも、俺たちが誰よりも知っている。
だから、きっと許せなかったのだ。
「三月くんさぁ、」
無事に特番の収録を終え、楽屋に戻る途中だった。前から今日の収録を共にした、先輩とも言える芸人が歩いてきた。バラエティでよく見かけるその顔は、すれ違い様に俺たちににこやかに声をかけていった。俺もお疲れ様でした、と返そうとして、あることに気が付いた。その芸人が、三月にだけ全く違うことを言っていることに。
―三月くんさぁ、いつ辞めんの?
ミツが下を向いて、唇を噛み締める。以前からいい噂を聞かない芸人だった。おそらくぽっと出のアイドルごときに、収録を仕切られたのが気に食わなかったのだろう。
ミツの反応を見るに、これが一度や二度ではないことが分かる。いつからだ。いつからあいつらはミツの努力を踏みにじろうとしていた。かっと頭が沸騰して、その勢いのまま振り返りざまに言葉を叩きつける。
「あんたさぁ、新人虐めるなんていい趣味してんね?」
隣に立っていた俺以外、先程の言葉は聞こえていなかったらしい。急に立ち止まった俺と芸人を見て、怪訝そうにしている。
しかし、敏いイチやナギはなんとなく察しているようで、不安げな表情を浮かべていた。当のミツはうつむいたままだった。
「人聞き悪いなぁ、アドバイスだよアドバイス」
予想通りのにやにやと気持ちの悪い笑みが返って来る。舐めつくような視線を、あえて無視して続けた。
「それのどこが?流石の俺でも気になるんだけど?やるならもっと分かりにくくやれよ」
はらわたは煮えくり返っているというのに、頭は変に冷静だった。
売れ始めた今が肝心なのは百も承知。それこそ喧嘩なんて起こせば、マスコミのいい餌だ。だったら、上手く立ち回ればいいだけ。狡賢い知恵だけは、昔から嫌というほど持っていた。
「おー怖い怖い、本当のことは本人に直接言うべきだろ?最近MCが上手いからってあちこちで見かけるけど、話の回しもまとめ方もオチの付け方も全然ダメ、なってないね。みんなイライラしてるのが伝わってくるようだったよ」
「へぇ、それは貴重なアドバイスだ」
「だろ?加えて自分は喋りたがりと来た。MCとしては最悪だ、才能無いから辞めた方がいいよ。君たちもそう思ってるだろ?」
ミツはスタッフ受けがいい。だが、そこに全ての出演者が含まれているわけではない。だから時々酷く理不尽なやっかみを受けることがあることは知っていた。まさか、自分がその原因と向かい合う羽目になるとは思いもしなかったが。
もしかしたら俺たちが気付いていないだけで、こうやって理不尽なやっかみを受けることが、これまでにも多々あったのかもしれない。ミツがあの小さな体に溜め込んでしまったら最後、俺たちは何にもしらないままだ。それはミツの悪い癖だった。
「貴重なご意見ありがとうございます。でもミツはアナウンサーでも芸人でもない。アイドルだ。同じネタこねくり回すあんた以上に、他に出来ることはたくさんある。」
「なんだって?」
「少なくとも、あんたみたいに新人虐めて泣かすようなことはしないさ。その代わり、ライブでファンを笑顔にする」
だろ?そんな意味も込めて、ミツにちらりと目線をやると。さっきまでもしおれた姿はどこへやら。泣いてなんかないと、今にも零れそうな滴を浮かべた瞳で睨み付けてきた。
流石ミツ、このくらいじゃへこたれないか。
「俺たちはそんなミツに支えられてここまでやってきたんだ。大事な仲間だ。だから、部外者は黙っててくれますかね?」
片眉を吊り上げて、意地の悪い笑みで言う。さっきまでミツへの侮辱を連ねていた得意げな顔が、ぐしゃりと歪んだ。面白いくらいに煽られてくれたらしい。頃合いだろう、そろそろ仕上げだ。
「さて、そんな先輩に、後輩からひとつアドバイス」
すっとトーンをひとつ落として囁くように重ねる。
―頑張ってる新人を虐めるってことは、過去のご自分の努力を否定することになりますよ
最大限の嫌味を込めて。歪んだ顔が、じわじわと驚きへと変わっていった。
ここまでやればもう大丈夫だろう。
誰だって新人だった時期がある。それはこの芸人だって例外じゃない。要するに初心を忘れるなという話なんだが。皮肉なことだ。視聴者を笑顔にするはずの芸人が、裏で新人虐めて泣かせてるなんて。俺たちは、これからどんなに売れたとしても、こうはなりたくないなと心の隅で思った。
「失礼します。さ、お前ら戻るぞ。マネージャーが待ってる」
一声かけると、恐々と様子を伺っていたメンバーが、ぞろぞろと歩き出す。
そっと隣にいるミツを盗み見た。噛み締めた唇が赤く腫れている。痛々しいのに、表情はどこかすっきりしているようで。ふと俺を見上げたミツと目線が絡む。目の前にいるのはもういつものミツだった。それに安堵した途端、自分でも予期せぬ言葉が口から滑り出た。
「よく頑張ったな」
まんまるの瞳がさらに大きく見開かれる。何か返事しようとして開いたミツの口から洩れたのは、嗚咽だけだった。みるみるうちにぽたぽたと雫が溢れて落ちていく。
緊張が解けて、泣きじゃくるミツの頭をそっと優しく撫でた。相変わらずふわふわと手触りはよくて、日向の匂いがした。
「…ありがと」
後ろから聞こえてくる鳴き声に、誰も何も言わなかった。けれど、その空気は、優しくミツを包み込んでいた。
*****
年下組が寝静まった頃、俺はひとり自分の部屋で頭を抱えていた。もちろん原因は昼間のことである。正直、柄じゃないことをしてしまったと思う。あんなの、俺じゃない。この歳になって、仲間を揶揄られたぐらいで、ムキになって怒るなんて恥ずかしいったらありゃしない。
「…やるんじゃなかった」
ベットの上でごろりと寝返りとうつ。手持無沙汰に付けたテレビから、ミツの跳ねた声が聞こえた。たまたま準レギュラーとして出演している番組だった。元気で、明るくて、どこかあったかいミツ。画面の中のミツはまだ危なっかしくて、苦笑いも多い。きっとあの芸人が言っていたことに、間違いはなかった。ミツがMCを任されるようになってまだ日は浅い。けれど着実に成長していた。
画面の中のミツが笑って言う。
「自分に出来ることは全部やりたいんです!」
コンコンとノックの音が響き渡った。こんな時間に訪ねてくるやつは、だいたい決まっている。どうぞ、と声をかければ、予想通りの顔が扉から覗いた。
「大和さん、ちょっといい?」
俺は見ていたテレビを消して、現実のミツに向き直った。半分だけ覗いているその顔は、羞恥心半分、不安半分といったところだ。きっと昼間のことをまだ気にしているのだろう。あえて気が付かない振りをして部屋の中に招いたのに、ミツは断った。
不思議に思った俺は、ミツの顔を覗きこんで茶化して言う。
「どうしたんだ?入れば?」
「あのさ、」
昼間は、ありがとう。
文脈を無視して唐突に落とされたそれに、一瞬で顔が火照るのがわかった。ミツのことだから、ちゃんとお礼が言いたかったのはわかる。でも聞きたくなかった。聞いてしまったら、自分の痴態を嫌でも自覚させられる。
「オレがどんなに頑張っても、伝わらない人がいるって知ってた。それが悔しくてたまらなかったんだ。だからずっとがむしゃらに突っ走ってきた。でも今日大和さんがああ言ってくれて、オレすごくほっとしたんだ」
「や、めろって」
お兄さん恥ずかしいから、と続けようとしたのに、それすらも遮ってミツは続ける。
これだけでもうお腹いっぱいだ。今すぐ消えてしまいたい。
「変に頑張ってもいいもの出来ないし、なにより、こんなに近くにオレのことわかってくれる人がいるから大丈夫」
胸が焼けるようにあつい。いつかとは違う熱を、小指の付け根にじわりと感じた。
どうしてこいつは。
「オレの努力が報われなくても、今は大和さんが知ってくれてたらいい」
それだけ言いに来た、聞いてくれてありがとう。
そう言い残して逃げるように扉を閉めようとするミツを、引き寄せて腕の中に閉じ込めた。ふたり分の鼓動が、どくどくと耳の奥に響いてうるさい。首筋から匂い立つ優しい香りに、頭がくらくらした。
「ちょ、なにすんだおっさん!」
一回り小さな体を潰さないように、強く抱きしめる。変な顔をしている自覚はある。それを見られないように、ミツの肩に埋めた。
あんなこと言われて嬉しくないわけがない。
不機嫌な表情を隠す方法は知っていても、緩む頬を止める方法は知らなかった。今口を開けば、ろくでもないことを口走ってしまいそうで怖くて。何も言わない俺に、抵抗していたミツもしばらくすると大人しくなった。
そうしてどのくらい経っただろうか。焼けるように熱かった胸は、ゆるやかなあたたかさに変わった頃。俺はようやく口を開くことができた。
「…ミツ」
「なに?」
呼ぶ声も、応える声も優しい。それがくすぐったくて、嬉しくて。するりと抱きしめていた腕を解いて、そっとミツの頬を両手で包み込んだ。
まろやかな頬が、じんわりと赤く染まっていく様子をどこか遠くのことのように見つめていた。目尻は昼間泣いたせいか、まだ少し赤く痛々しい。明日には治っているだろうか。治っていればいい。そんな気持ちで、目尻にそっとキスをひとつ落とした。そのまま美味しそうな頬にもひとつ。可愛らしい鼻にひとつ。前髪をかき上げてひとつ。
ミツが体を捩ったのに気が付いて目線を合わせれば、輝く大きな瞳がうるうると揺れていた。誘われるように、最後のひとつを唇に落とした。しっとりと重なったそれを、惜しむように離せば、ミツがもっとと重ねてくる。
胸の奥から、あたたかい何かが溢れだして止まらない。その何かに溺れるように、俺はミツの体にキスを落とした。
ただ、ミツが一度も抵抗しないことだけが、不思議だった。
鳥の鳴く声がする。閉じた瞼でも、光の気配を感じられた。
いつの間に眠ってしまったんだろう。まだゆるい睡魔に支配されたままの頭で、ぼんやりと考えた。隣にはあどけない顔を晒して眠りこけるミツがいた。昨夜のことは上手く思い出せなかった。でも、なんだかひどく幸せだった。
ふわふわと寝息で揺れる頭を撫でようとして気が付く。自分の左手の小指から、真っ赤な糸が垂れ下がっていることに。そしてそれは、今なお夢の中の、ミツの小指へと繋がっていた。
「…は?」
人間、驚きを通り越すと何をしでかすか分からないものだ。
この時の俺は全く冷静じゃなかった。なぜならこれまで二十二年年生きてきて、自分の手に赤い糸など見たことがなかったからだ。
震える手で、そろりと赤い糸を触る。それは見た目以上に脆く、繊細だった。素手で強く触れば、ちぎれてしまうほどに。
だから俺は、そのミツとの赤い糸を、そっと、切り落とした。
目が覚めると、そこは空っぽだった。日の光が差す中で、ぱしぱしと瞬けばぼんやりと意識が覚醒した。
目は覚めたものの、昨夜の記憶はひどく曖昧で。昨夜は酒を飲んだ覚えはないはずなのに、どうしても何も思い出せない。カーテンから差し込む日の光が優しく頬を撫でるのに、いくらか癒されるものの、違和感は拭えなかった。
胸の奥がざわざわとうるさい。ひとり置いてけぼりを食らって、立ち尽くす子供の気持ちと言ったら分かるだろうか。さっきまですぐ側にあったあたたかさが、どこにも見当たらなくて、泣く子供の気持ち。
昨夜、何かとても大切なものを掴んだはずだったのに、それが手のひらから零れ落ちてしまったような。そんな気分だった。
ぽっかりと胸に空いた穴。それはいつからそこにあったのか。その穴を確かめるように、そっと胸に手を当てて、深く深呼吸する。どうか、この胸騒ぎが収まりますように。
ひとりで考えていても、このままどんどん気分が急降下するだけだと判断したオレは、ようやくベッドから抜け出した。
「おはよー」
「おはよう三月!」
リビングに顔を出せば、一織と陸が朝食を食べながらニュースを見ていた。元気に挨拶してくれた陸とは対照的に、我が弟は珍しく朝寝坊ですね、と苦笑いで返した。
今日はもうそのふたり以外は、仕事に出てしまったようだ。香ばしいパンが焼ける匂いと、陸と一織が喧嘩腰に話す声。いつも通りのそれになぜか安堵する自分がいた。
ふたりと挨拶を交わして、顔を洗おうと洗面所に向かう。
「うわっ」
ぼすん。ぼーっと歩いていたせいで、何かにぶつかってしまったらしい。ぱっと顔を上げると、驚いた表情の大和さんがいた。てっきりもう出かけていると思っていたが、大和さんも朝寝坊していたらしい。
でも、今はそんなことはどうでもよかった。なぜなら、その緑の瞳と、一瞬目線が交わった瞬間、
――苦しい。
ぐっと喉の奥が呻いたのだ。ひりひりと焼けるように、声が喉の奥に張り付いて、上手く発することが出来ない。ぱくぱくと意味のない空気だけが、中途半端に開いた口の端から漏れていく。大和さんは大和さんで、ぶつかったきりこっちを見つめてびくともしない。心臓が痛いくらいに早鐘を打っていて、息苦しくて仕方なかった。
「大和さん、おはよ」
沈黙を先に破ったのは、ようやく声を取り戻したオレの方だった。なんとか絞り出した声で、ありきたりないつも通りの挨拶をしたが、大和さんは返事もせずにすっと洗面所を出て行ってしまった。
「…なんだあれ」
唐突に緊張感から解放されたオレは、ぺたんと腰が抜けたまま、その場にしゃがみ込んだ。
いつもなら眩しそうに眼を細めて、寝起きのちょっと掠れた声で、返事をしてくれるのに。寝起きは機嫌が悪いせいで、目付きはさらに鋭くて。きっとこういうのを、百年の恋も覚めるって言うんだろうな、なんて面白がっていた。
だけど、それが実はけっこう好きだったりしたのだ。他のメンバーにも当てはまるかもしれないが、ファンの知らない素顔を知っているというのはちょっとした優越感がある。大和さんは特に、のらりくらりと素顔を隠す悪い癖があるせいで、余計に優越感に浸っていたことは否めない。だから、そういうちょっとした瞬間は、なるべく欠かさず拾ってきたつもりだった。それが分かっているのかいないのか、最近は大和さんもオレには少し心を許してくれている気がしていたのに。
どう考えても無視されたよな、オレ。
拭えない不安が少しでもなくなればいいと、ゆっくり立ち上がって顔を洗う。洗おうとして、ふと鏡の中の自分の首に、何か傷のようなものがあることに気が付いた。近付いてよく見てみると、それは虫刺されのような、いやもっと違う何かだった。
「キスマーク、とか」
ふとひとつの考えに行きついて、ありえないと首を振る。
だって昨夜どころか、生まれてこの方そういうこととは縁がない。アイドルに憧れてレッスンやオーディションに走り回った青春の日々、そしてようやく掴み取ったこの場所は恋愛ご法度だ。スキャンダルなんてもってのほか、オレに好きな人なんていない。
じゃあやっぱり、ただの虫刺されか。ひとりでに納得してリビングに戻れば、そろそろ一織と陸が出かけるようだった。
「いってきまーす!」
「今日は遅くなりますから、夕飯は一緒に食べれないと思います。すみません」
「気にすんな、気を付けて行ってこいよ」
パタパタと慌ただしく駆けていく陸に、後ろから一織が小言を言っている。怒られているにも関わらず、陸はとても楽しそうだった。最近は発作も起きず、順調に仕事をこなしている。調子がいいのが嬉しいのか、それとも一織と一緒の仕事だからか。答えは聞かなくてもわかるような気がした。沈んだ心には、そんなふたりが眩しくて、目を逸らしてひっそりため息をついた。
そうしてふたりを見送って、さぁ自分も朝食を食べようか、と振り返れば。
「うわっ」
ぼすん。覚えのある衝撃を食らって、思わずよろめいた。デジャヴを感じながらも、顔を上げれば。思った通り綺麗に身支度を整えた大和さんが、そこに立っていた。
「あれ?大和さんも、もう出んの?」
「ん、まぁ」
先程のように息苦しさはなく、すっと声を発することが出来た。今度も無視されるかと身構えたが、そっけないものの一応の返事があってほっとした。流石のオレでも、何度も無視されたら堪える。大和さんだと特に。
「いってらっしゃい」
それ以上の会話はなく、玄関の扉を開けるその背中に声をかけると、一拍置いて大和さんが振り返った。オレにはその動作がやけにゆっくりに感じられた。
振り返った大和さんは、なんとも言えない表情をしていた。まるで眩しい太陽を見るときのような。切なくて苦しい気持ちを抑えるような。複雑に入り混じった感情が、幾重にも絡まりあっていて、全く読み取れなかった。
ただひとつだけ言えることは、その大和さんの表情を見た瞬間、先程の苦しさが思い出したかのようにぎゅっと競り上がってきて、ぐっと喉を詰まらせた。今朝感じた、胸に空いた穴がズキズキと痛んで、地面がぐらぐらと不安定に揺れている。
オレがその苦しさに呼吸できないでいるうちに、大和さんは扉の向こうへ消えてしまった。大和さんがどうしてそんな態度を取ったのか、自分の身に何が起こっているのか、オレはよく分からなかった。
*****
大和さんに避けられてる。オレがそのことに気が付いたのは、それから数日後だった。
最初は小さな違和感だったが、それが日々大きくなっていくのに、そう時間はかからなかった。寮だけならまだしも、楽屋や移動中の車内、仕事中を除いたほぼすべての時間において、ここ数日大和さんとちゃんと会話というものをした記憶がない。話しかければ返事は一応返っては来る。しかしそれはどれも曖昧だったり、相槌だけだったりと、とにかく会話が長続きしない。
以前は、そんなことなかった。ふざけた冗談も、真面目な話も、なんだかんだ言って大和さんは付き合ってくれていた。オレにとって、大和さんとの距離はとても心地いいもので。何も気を遣う必要のない関係というのは、この歳になってそうそう得られるものではない。だから嬉しかった。はずだった。自信がないのは、大和さんがどう思っていたか分からないからだ。
「つっかれたー」
誰もいない楽屋でごろりと寝転ぶ。今日は雑誌の撮影と取材の仕事が入っていて、ちょうど撮影が終わったところだった。メンバー全員での仕事だが、スケジュールの都合で集合写真だけはもうすでに撮ってある。ブラックオアホワイトの後、仕事が極端に増えたオレたちは、以前のように常に一緒に行動することは少なくなっていた。こうやって同じ仕事を日程を分けてやることもしばしばだ。だからここにいるのは、ピン撮影が残っているメンバーだけだった。
しかもよりにもよって、大和さんとオレだけ。みたいな。
そりゃもう気まずいったらありゃしない。万理さんが送ってくれた車内でも、撮影が始まる前までの楽屋でも、大和さんは一度もこちらを見ようともしなかった。こうなったらこっちだって意地だ。無視されてもめげずに何度も話しかけて、イエスノーで答えられない質問を繰り返して。結果は惨敗だったけど。
最初に感じた息苦しさは、そんなことを繰り返しているうちに薄れていった。感じなくなったと言えば嘘になる。だけど、こう何度も繰り返していれば、耐性も付くというものだ。
それでも、ひとつだけ全く進展していないことがある。
「大和さんなんでオレのこと無視すんだろーなぁ…」
根本的な原因は怖くて聞けていない。なんて返って来るか想像も出来なくて。それこそ、あの声でオレのことが嫌いになったなんて言われたら、もう立ち直れないだろう。人に嫌われるのは怖い。人一倍、人が向ける好意に敏感なことは自覚している。大和さんが怒ってくれた先輩芸人とか、ライバルグループであるTRIGGERのファンから嫌われるのならまだ耐えられる。彼らとは物理的な距離も心理的な距離もある。駆け出しではあるがアイドルになったからには、それも必要なことだと理解もしている。
でも、自分が心預けた相手に嫌われるのは無理だ。信じていたのに、そう思うのは押しつけがましいだろうか。
ソファに身を任せていたら、ゆるゆると瞼が落ちてきた。最近仕事で疲れていた上に、大和さんの一件で悩んで眠れない日を過ごしていたせいで、やはり疲労が溜まっていたようだ。そっと目を閉じて浮かんでくるのは、眼鏡に隠れた緑色の光だった。目付きが悪いだなんだと言いながら、あれは存外優しい色をしている。陸なんかを見ている時は特に。本人は気が付いていないようだけど、オレにはお見通しだ。
随分長い間、その瞳にオレは映っていない。こうしてオレとはほとんど口を聞かないくせに、陸や環とは普通に会話しているもんだから驚きだ。
やっぱり俺のことが、嫌いに、なったんじゃ。口に出したら、本当に実現してしまいそうで怖かった。いつからこんなに弱気になってしまったのか。持ち前の元気と男前は、数日前から休業している。
「ふぁぁ、」
本格的に睡魔が思考を覆い始めた。取材までもう少し時間があったはずだ。寝れる時に寝ておくべきだというのは、誰が言い出した教訓だったか。
――さみしいな。
半分夢うつつの状態で、確かにそう思った。
誰かの話し声が聞こえる。その声のトーンがとても心地よくて、ふわふわとした意識の中から抜け出せない。あとちょっとだけ、このまま微睡んでいたい。ぼんやりと霞がかった頭が、そう訴えた。思うまま、小さく身じろぎすれば、肩に何かがかけられているのに気が付いた。そういえば、眠りに落ちる前はこんなにあたたかかっただろうか。ぬくぬくと心地よい眠りは、どうやら肩にかかっているブランケットに守られていたらしい。きっとスタッフか誰かがかけてくれたに違いない。あとでお礼を言っておこう。今だ抜け出せない睡魔のせいで上手くまとまらない頭が、そう結論付けた。
いつの間にか話し声は止んでいて、誰かがこちらに近付いてくる気配があった。
少し低めの声が、優しい音でオレの名前を呼ぶ。その声をオレはよく知っているはずなのに、返事をしたいと思うのに、睡魔にとらわれたままのオレは声も出せなくて、瞳は相変わらず開かないままだった。
近付いてきた誰かは、オレの様子を伺っているようだった。オレが寝ていると分かったのか、そのままオレが寝そべっている隣に腰かける。ゆっくりと座る動作から、オレを起こさないように気を遣っているのが分かった。ゆるゆると微睡んでいたオレも、流石にその気配が誰か気が付く。大和さんだ。
「お疲れさん」
オレが半分起きているとも知らないで、優しい声で大和さんが言う。それがなんだかとても懐かしくて。胸の奥からじわじわと溢れだしてくるものがあった。なぜならもう久しく、ちゃんと自分に向けられる声も瞳も与えられていない。よほど堪えていたらしい。空っぽだった穴に静かに注がれる優しさに心が震えた。ぽすりと遠慮がちに置かれた大きな手で頭を撫でられて、与えられる心地よさを甘んじて享受する。前から思っていたが、大和さんはオレのふわふわな髪の毛がお気に入りらしい。頭を撫でて毛先を弄る手からは、遊んでいる気配さえしていた。
まるでここ数日間の違和感がなかったかのように、満たされていく自分がいた。とくとくと響く鼓動があたたかくて、しあわせだった。大和さんは機嫌がいいのか鼻歌なんか歌っちゃって、それが余計オレの眠りを誘うものだから厄介だなぁ、なんて働かない頭の片隅で思った。
この低い声で何度名前を呼んでくれただろう、この声で何度励まされただろう。いつも困った時に、気が付けばさりげなく隣にいてくれるのは、大和さんだった。我関せず、なんて涼しい顔をしているくせに、欲しい時に欲しい言葉をくれる人だ。
ここまでゆるゆると考えて、ふと気が付く。何か大事なことが、失くした何かが、すぐ側まで迫っているような気がしてもどかしいことに。
そんなオレのことなんか知らない大和さんが、大きな手で歌に合わせてゆるやかなリズムを刻むから、オレは思考を放棄してまた眠りの世界へ旅立っていこうとした、その瞬間。
――あぁ、好きだなぁ
そう、切に思った。唐突に思い付いたその言葉は、想像以上にすとんと心に落ちた。オレは大和さんが、好き。
心の中で繰り返せば繰り返すほど、『好き』という言葉は、なんとも甘い響きをもって心の奥深くへ沈んでいった。そうして落ちていった先で、あの日から胸にぽっかりと空いていた穴に、それはもう綺麗にぴったり当てはまった。なんだか懐かしい感覚に、オレは心を躍らせた。この気持ちは、ずっと前からそこにあった、オレの大事な宝物だったからだ。
大和さんを恋愛的な目で見ていると気が付いた時のことは、今でも忘れられない。あの日も、ひとり単独でバラエティの収録だった。例の先輩芸人が一緒の収録と聞いていたせいで、正直気分はあまり乗らなかった。だけど仕事はそうも言っていられない。口から零れそうになるため息をなんとか飲み込んで、寮を出ようとした時だった。
「行きたくないなら、今日くらい休んだっていいのよ?」
後ろからかけられた声に驚いて振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべた大和さんが立っていた。
「そんなの出来るわけないって知ってるだろ」
出来ることなら、休んでしまいたい。今すぐその胸に飛び込んで、行きたくないと駄々をこねて。泣きわめいたっていい。きっと大和さんは優しい笑みを浮かべて、全部思い通りにさせてくれる。でも、オレがそう簡単にその選択肢を選ぶことが出来ないことも知っている。知っていて、こう言ってきているのだ。
本当にずるい人だよ、あんた。そっぽを向けば、拗ねたように見えたらしい。
「ミツは頑張り屋だからな、たまには息抜きしないと潰れるぞ」
「…分かってるよ」
ぽんっと肩に手が触れる。触れたところから、じんわりと優しさが伝わってくる気がした。強張っていた肩の力がするすると抜けて解れていく。大和さんの言葉には、不思議な力があった。
「ミツが頑張ってること、オレは知ってるから」
そう気負いなさんな。
熱烈な励ましに、かっと胸が熱くなった。萎れていた体が、一気に熱を取り戻して騒ぎだす。ぽろりと目から雫が零れ落ちそうになって、慌てて下を向いた。本人はそんな熱烈な励ましをしてしまったことに気が付いていないらしい。きょとんとした顔で、固まってしまったオレを見下ろしていた。おそらく指摘すれば、真っ赤になってしまうだろうけど。そんな大和さんの様子は容易に想像できたけれど、今は、この気持ちに水を差すのは嫌だから、からかうのはやめておこう。その代わり、俯いたままくふふと笑っておいた。
好きだな、と思った。普段は飄々としているくせに、オレが弱っているのを見つけて励ますなんて柄じゃないことをする、大和さんのことが。一度思ってしまえば、認めてしまうのは早かった。俯いたままだった顔を上げる。そこにはもう不安そうな表情のオレはいなかった。いつもの、元気いっぱい満点の笑顔を浮かべるオレを見て、大和さんが満足そうに頷く。今なら、なんでも出来る気がした。
「ありがとう、元気出た。いってきます!」
「おう、いってこい」
その言葉通り、その日オレは絶好調で一日を乗り切り、ご機嫌で帰宅したのだった。
するすると蘇ってきた随分前の記憶が、きらきらと心を彩る。世間一般に恋心と呼ばれる感情は、見ないうちにいくらか輝きを増したようだ。
どうして今まで忘れていたんだろう。オレは随分と前から、こんなにも大和さんが好きだったのに、どうして。
不思議に思うも、心当たりはなかった。ただ、大和さんが好きだという気持ちが帰ってきた今、この状況は非常にまずい。なにしろ距離が非常に近いのだ。あんまりにも優しい眼差しが注がれるせいで、無視されていた数日間のことなどすっかり忘れ、舞い上がってしまいそうだった。どくどくとうるさく鳴り始めた心音が、大和さんに聞こえませんように。切に願うのはそんなことばかり。このままだとオレの心臓がもたないけれど、身動きをすればまた無視される日々に逆戻りかもしれない。その不安が、いっそうオレの選択肢を狭めた。
そわそわと落ち着かない気持ちが伝わってしまったのか。気が付けば大和さんは、オレの頭を撫でる手を止め、こちらの様子を伺っていた。起きるなら今だ。名残惜しい気持ちを捨て、ゆっくりと身を起こした。
「おはよ、オレどんくらい寝てた?」
出した声は震えていないだろうか。
「三十分くらい、だな。あともう少ししたら、取材記者が来るらしいから、用意しとけってマネージャーが」
大和さんの様子を見るに、オレの態度におかしいところはないようだ。ほっと安堵から胸を撫で下ろす。安堵したらしたで、大和さんと普通にしゃべれてることに心は騒ぎ出す。自分のことながら、忙しい性分だなと思った。さっきの半ば夢の中だった時に、起こったことは現実だったことを思い知った。
「な、なに」
ふいに大和さんがオレの方に手を伸ばして、すっと頬を撫でた。急なことに驚きすぎて、声が裏返ってしまった。どきどきと心臓が高鳴って、今にも走り出してしまいそうだ。触れられたところから、じんじんと熱が伝わって、顔が熱をもっていく。そんなオレの様子を見て、大和さんがぷっと噴き出した。
「別に?随分と熟睡してたんだなと思って」
「うん?」
「跡がついてんぞ七五三」
「それを先に言え、おっさん!」
今度は違う意味で、顔がかっと熱くなる。恥ずかしいったらありゃしない。ぱっと大和さんから距離を取って、すぐに消えはしないのにごしごしと拭った。わざと目に見えて怒ったふりをすれば、大和さんはくすくすと笑った。オレを見つめる目は全く冷たくなくて、むしろあたたかさに満ち溢れていた。ちょうど、無視される前に戻ったようだった。
眼鏡の奥の緑の瞳に、オレが映ってる。この数日間、大和さんに普通に接してもらえていた、環でも陸でもなくて、オレが、オレだけが映ってる。これ以上嬉しいことがあるだろうか。自然と笑みが漏れてしまうくらい、今は許してほしい。だって、ふたりが、いや大和さんに普通に接してもらえる他の人すべてが、羨ましくて仕方なかったのだから。
「大和さん?」
気が付けば大和さんは、俺と大和さんの間に出来た空間をじっと見つめていた。オレの問いかけにも反応しないくらい、集中しているのか、考え込んでいるのか。まるでそこにある何かを見つめているようだった。見えないオレには何も分からないけれど。もう一度大和さんを呼ぼうとして、口を開いた。が、出たのは空気だけだった。
――苦しい。
ぎゅっと心臓を掴まれて、呼吸が出来ない。咄嗟に口を開こうとしても、はくはくと意味もない空気をこぼすだけで。見開いた目から、生理的な涙が落ちそうになる。
しかし、痛いのは、心臓ではなかった。
待って、行かないで。
せっかく掴み直した「好き」が、手のひらからするりと抜けていく。ちゃんと地面に足を付けているはずなのに、その地面がぐらぐらと揺れて崩れていった。あたたかいと感じていた体はとうに冷え切っていて。だけど、左手の小指だけは焼ける程に熱かった。そうやって消えていく感情に、心が付いていかずに悲鳴を上げる。絶叫とも言えるその声を、耳の奥で聞きながら、オレは必死に何度も唱えた。オレは大和さんが好き。オレは大和さんが好き。オレは、大和さんがすき。オレは大和さんが、すき。オレは、大和さんが、すき。オレは、大和さん、が、あれ?
オレは――なんだっけ?
満たされていた心は、段々冷え切っていき、もはや何がそこにあったのか、分からなくなって。
「ミツ?どうかしたか?」
大和さんにそう聞かれる頃には、オレは、すっかり、元通りになっていた。
「ん?何でもない」
大丈夫。絞り出した声は、そこまで震えていなかった。しかし、喉の奥深くから湧き上がって来る何かを堪えるので精一杯で、これ以上はまともに言葉を紡げそうになかった。無性に泣きたい気分で。ひとりに、してほしかった。
「二階堂さーん、取材記者さん到着しましたよ〜!」
軽いノックの後に、続いた声はマネージャーだ。ちょうどいい、大和さんを部屋から追い出す口実が出来た。
「おっさん、マネージャーが呼んでるぞ」
「お、おう」
それでもオレの様子を伺って、なかなか出ていこうとしない大和さんに腹が立って、立ち上がったその背中をぐいぐいと扉の方へ押す。顔はもう見れなかった。見てしまえば、堰き止めているものが一気に溢れ出しそうで。
「ちょ、おいミツ!押すなって!」
ようやく渋る大和さんをドアまで押しやって、がちゃんと鍵をかけた。扉の向こうでまだ何か言っている気配がするが、何も聞きたくなくて耳を塞ぐ。そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
ぽとり、一滴落ちれば後は簡単だった。ぼろぼろと流れていくそれを、オレはどこか他人事のように眺めていた。
何にも知らないオレは、こうしてまた、大切なものを失くした。
*****
ざわざわと風の音がする。窓の外は暗い雲が立ち込めていて、今にも泣き出しそうだ。沈んでいた気分がさらに加速して落ちていく。久しぶりのオフだというのに、寮から一歩も出る気にならなかった。というのも、外に出かけて買い物や何かをするよりも、興味を引くものがあったからなのだが。
目を閉じれば、ミツの顔が思い浮かんだ。
花開くように笑う顔も、怒って拗ねる顔も、困って頼りなさげに眉を下げる顔も、ミツの作る表情なら、何でも好きだ。ただ、最後に見せたミツの顔は、泣くのを必死で堪えている顔だった。ミツに泣かれるのは無理だ。どうしていいかわからなくなるから。
ここ数日、俺は意図的にミツを避けていた。しかし、あの楽屋での一件から、今度は俺がミツに避けられている。
お互いに、大人げないなと思うけれど、どうやって接したらいいのか分からないというのが本音だ。
あの日、どうして赤い糸を切ったのか、自分でもはっきりとは分かっていない。ただ、あんなにもあたたかなしあわせをくれるミツと、自分のエゴのために生きてきた自分では、到底釣り合わないと思ったのは確かだ。
俺には恋愛は向いていない。大切なものを作るのが怖いのだ。本気になればなるほど、失った時のことを考えて、手を伸ばせなくなる。あんな思いは二度とごめんだ。
だから、ミツとの赤い糸を見た時、直感的に思った。切らなければならないと。こんな俺に構う必要などない。ミツにはもっと似合うやつがいるし、そもそも男で、同じグループのメンバーなんてハードルが高すぎる。ミツをこんなところで立ち止まらせるわけにはいかない。そう思ったら、止まらなかった。
あの楽屋で、俺は完全に油断していた。眠りこけるミツを見て、ミツに触れられるチャンスだと、思ったところからもう間違っていたのだろう。やはりミツに近付くべきじゃなかった。なぜなら、消えていたはずの赤い糸が再び現れたからだ。
しかし一度切ってしまえばあとは簡単だった。俺は、ミツの目の前で、赤い糸を切ってみせた。心は何も悲鳴を上げなかった。
ひとつだけ誤算だったのは、自分に何も影響がないからといって、ミツに何もないとは言えないということだった。初めて赤い糸を切った日から、ミツの態度はどこかおかしかった。まるで今まで積み上げてきた信頼や、縮めてきた距離がなくなってしまったかのように、俺に対する態度は一変していた。俺に避けられている、そのことだけが原因とは思えなかった。俺が赤い糸を切ったせいだと確信したのは、楽屋で赤い糸を切り落とした時だった。
赤い糸が再び現れた時のミツの態度は、切る前のミツのそれだった。あの大きな瞳に俺を映して、しあわせそうに笑うのを見たのは久しぶりだった。しかしもう一度切ったあと、ミツの表情は一変して、苦しげなものに変わっていた。
――俺が、ミツを苦しめている。
その事実を突きつけられて、呆然とした。
俺は、俺とミツが赤い糸で繋がっていることで、ミツが苦しむと思って切ったはずなのに。ミツは結局苦しんでいたのだ。あの、俺が揶揄した先輩芸人と全く同じことをしていると、気が付いてしまった。
俺は、ミツのことを考えていたつもりで、結局は自分の気持ちを認めたくなかっただけなのだ。もう、逃げられないと分かっていた。
赤い糸を切る度に、ミツへの想いは消えるどころか、逆に強くなっていった。思い知らされたのだ、ミツが好きだと。じゃなきゃ、あんな風に手を伸ばしたりしない。
「とはいえ、どうするもんかね…」
きっとこのままでうやむやな態度を取っていれば、いずれ失ってしまうだろう。また、手を伸ばすのをためらって、傷付けたまま、何もなかったかのように、ただのメンバーとして。
「…嫌だ」
口に出せば、かっと胸が熱くなった。比例して、小指がじわじわと熱を持つ。もう、見なくても分かる。またそこに赤い糸が現れ始めていることに。
「ただいま〜」
誰もいなかったリビングに、がちゃりと扉の音が響いた。ゆるゆると思考に浸って考え事をしている間に、メンバーの帰宅の時間になっていたらしい。しかし、今一番会いたくなかった声が聞こえて、咄嗟に体を強張らせた。向こうも同じだったようで、俺の姿を視界にとらえた途端、表情を固まらせた。
「おかえり、ミツ」
気まずさをなんとか軽減しようとして、声をかけるも一瞥くれただけで無視をされた。そのままミツはキッチンに向かい、冷蔵庫からお茶を取り出して飲んでいた。重い沈黙で体が圧縮されてしまいそうだ。ミツとの沈黙は、どんなことでも心地よいと思っていたはずなのに。そんなことすら変わってしまったのかと、内心落ち込む自分がいる。
「あのさ、大和さん」
声は案外遠くから聞こえてきた。聞き取れるか取れないかの大きさで呟かれたそれは、震えていた。
「なに?」
ざあざあと雨の音がする。いつの間にか降り出した雨が、余計不安感を煽った。あれだけ聞きたいと思ったミツの声を、今だけは聞きたくないと思った。
「…オレが、無視してる原因、分かってる?」
あぁ、やっぱりミツには敵わないな、そう思う。
「いや、まぁ、うん」
俺は曖昧な返事しか返せなかった。キッチンを隔てた向こう側で、ミツが泣きそうに笑う。それがあんまりにも切なくて、苦しくて。心臓のもっと奥の方が、ぎゅうぎゅうと締め付けられて息が止まりそうだった。
「だったら、放っておけよ」
そんな優しい声で、オレの名前なんか呼ばないで。真っ赤に腫れた両目が、ミツの悲痛な叫びとなって俺を貫く。きっとその腫れた目の原因を作ったのは、俺だろう。あの日のように、手を伸ばしてキスを落とせたらいいのに、ふたりの距離は果てしなく遠かった。何か言わなきゃいけないと思うが、頭は正常に働いておらず言葉は出てこない。それでも絞り出そうと、口を開いた俺を遮って、ミツは言った。
「期待すんのはもう疲れた」
息が、止まる。全身が一瞬で硬直して、咄嗟に意味を理解出来なかった。ミツのその言葉が、頭の中で反響して鳴り響く。ようやくそれを飲み込めた時、俺はすぐ隣をすり抜けていくミツを引き留めることをしなかった。
がちゃりと玄関の扉が閉まる音がして、再び部屋に静けさが戻った。反論は思い浮かばなかった。なぜなら、これは俺が招いた結果だからだ。俺が、ミツのことを何も考えずに、突っ走った結果。当のミツが嫌だと言うなら、俺にはもう口出しする権利などない。
だけど、本当にこのまま諦めていいのか。
瞼を閉じれば、いつでも笑顔のミツがそこにいた。しかし今は、さっきの切ない表情をしたミツしか思い出せなくて。ミツの、笑顔が恋しいと思った。ひとまわり小さな体も、くるくるとよく動く瞳も、ちょっと低くて可愛らしい鼻も、一旦開けば止まることのない口も、愛しくて。あの日のように、抱きしめて、腕の中に閉じ込めてしまいたいと思った。
すり抜けた背中は泣いていた。それを分かっていながら、追いかけることが出来なかった。なんと臆病なことか。
ふと視界に赤が映って、目を見張る。こんな状況だというのに、赤い糸は切れておらず、見たことがないくらいに綺麗な赤い光を放っていた。まだ、俺とミツはダメになんかなってないと、確信する。諸々の原因に励まされるとは皮肉なことだ。苦笑を漏らしつつも、いくらか心は落ち着きを取り戻した。心が決まれば後は早い。硬直はいつの間にか解けていて、すっと深呼吸をしてしっかり前を見つめる。
――もう、逃げたりしない。
そうして俺は、雨の中を傘も持たずに、玄関を飛び出した。
*****
夜の街は、静かに雨に包まれていた。その中を必死で走り抜ける俺は、きっと滑稽に映っているだろう。だけど、今はそんなことを考えている暇はない。あたりに目を配りながら、もつれる足をなんとかして動かした。息は切れているし、眼鏡に水滴がついて視界は最悪だ。だけど、諦めはしなかった。
数分走ったところで、見慣れたオレンジ色がちらりと見えた。案外、まだ遠くに行っていなかったらしい。見失わないように、急いで追いかける。しかし角を曲がったところで分からなくなってしまい、焦ってきょろきょろと付近を見渡す。
いた。
そのオレンジ色が、公園に入っていくところを見つけ、速度を落として追いかける。もう見失わないだろう。
ようやく見つけたミツの背中は、雨に濡れた寒さだけじゃないもので震えていた。
「ミツ」
呼びかけても反応はなかった。ざあざあと雨の音がうるさい。公園の中央を突っ切って、ミツはどんどん進んでいく。まるで、思いを断ち切るかのような潔さにたまらなくなって、叫ぶように呼んだ。
「ミツ!」
ミツの足は今度こそぴたりと止まった
「放っておいてって言っただろ!」
雨の音にかき消されない音量で、ミツが叫んだ。振り向いたミツの顔はびしょ濡れで、雨のせいなのか泣いているのかよく分からなかった。しかし、眉根を寄せた表情は明らかに苦しげで。
「じゃあなんで、そんなつらそうな顔すんだよ」
「…そんな顔してない」
「してるだろ」
「惨めなオレに構ってそんなに楽しい?」
ぐるぐると頭の中を色んな言葉が駆け巡っては消えていく。違う、こんな言い合いがしたいんじゃなくて、ちゃんとミツと向き合って、話して、この気持ちを伝えて、
「楽しいわけないだろ!」
だけど、重ねられる言葉を聞きたくなくて、
「はぁ?じゃあ追っかけてくんな!意味わかんねー!」
どんどん、思いとは裏腹に、言葉が滑り落ちていく。
「意味わかんねぇのはお前の方だろ!?こんな雨の中飛び出して!いい加減にしろよ!」
「オレがどうしようと大和さんには関係ねーじゃん!」
「あるわ!あんなこと言われて気にならないやつがいるか!あぁもうわかったから、落ち着いてちゃんと、」
「なっっっんにもわかってない!!」
ミツから驚くほど一際大きな声が飛び出した。目線の先でミツがはぁはぁと肩で呼吸をする。驚いた顔のままで固まる俺をしっかり見つめて、ミツはもう一度重ねた。
「……わかってないよ、何にも」
沈黙が、ふたりの間に落ちた。あんなに激しかった雨はいつの間にか止んでいて、雲の隙間から月明かりがあたりを照らしていた。ふたりの間に繋がった赤い糸が、光に照らされてきらきらと輝いている。その光は、不思議と俺に力をくれた。すっと息を吸って口を開けば、するすると言えなかった言葉が紡がれ始めた。
「確かに、俺は何にも分かってなかった。分からないってことからも逃げた。怖かったんだ、自分の中にある感情と向き合うのが」
だけどもう逃げない。
そう続けると、今度はミツが息を飲んだ。もちろん今だって、怖いものは怖い。けれど、後戻りはごめんだった。ミツはいつだってまっすぐなのに、俺が逃げてしまうのは卑怯だ。たとえそれが、散々傷付けてしまった後だとしても。
「傷付けるつもりはなかった、ごめん」
素直に紡がれた言葉に、ミツの眉が下がる。
「…言いたいことはそれだけか?」
ゆっくり手の届くところまで近付いて、泣き腫らして真っ赤になってしまった瞼を優しく撫でる。ミツは静かにその手を受け入れた。受け入れてくれたことに安堵してほっと息をつく。こうやって、簡単に手を伸ばせるこの距離が、心地よくてたまらない。この心地よさを知ってしまったら、もうただのメンバー同士じゃいられない。
久しぶりに見た、ミツの瞳は、相変わらず澄んでいて吸い込まれてしまいそうだ。その瞳に、自分しか映っていないことに、歓喜を覚えて苦笑する。雨で濡れているせいで体は冷たいはずなのに、触れた指先からじんわりと熱が灯っていく。迷いはすでに消えていた。
「俺さ、めんどくさいぞ」
「知ってる」
「今回みたいに、またミツを傷つけるかも」
「どんとこい、受け止めてやる」
「…本気になるのが怖い」
「それはオレもおんなじ」
「まだ言えないことがたくさんある」
「それくらい待てるって」
すうっと息を吸って、吐く。
「好きだ、ミツ」
ゆらゆらと揺れる瞳の端から、ぽろりと一粒雫が流れ落ちた。
「…遅いっつーの馬鹿」
月明かりに照らされたそれは、光を放ちつつミツの頬を濡らしていく。あぁなんて綺麗なんだろう。一度気が付けば止まらなかった。あの日のように、涙をいっぱいに溜めた瞳、ほんのり赤いふっくらした頬、かわいらしい鼻先、つやつやと光る小さな口。順番にそうっとひとつずつ、唇を落としていく。くすぐったそうに、ミツが笑って身を捩る。ふわふわの髪が頬に当たってくすぐったくて、俺も釣られて笑った。最後にぎゅうっと抱きしめると、ミツの手も俺の背中に回って。まるでぴったりとピースが当てはまったかのように、その体はしっくりと馴染んだ。認めてしまえば、何か変わると思った。怖いと思っていたのに、逆に安心させられるなんて、ミツに言えばきっと笑われてしまうだろう。
胸の奥からあたたかいものが溢れだしてくる。欠けていた心が満たされて、なんてしあわせなんだろう。そう、思った。
「帰るぞ、ミツ」
「ん、」
難しいと思っていたことは、こんなにも簡単なことだったのか。そう知っていれば、最初からこうしておけばよかったが、後悔する必要はもうどこにもない。えらく遠回りをしたけれど、逆に俺たちらしいとも言えた。
俺は今度こそ、赤い糸を切ることなく、ミツの手を取った。
静かな夜の街を、ふたり手を繋ぐ帰り道。ふとミツが口を開いた。
「そういえば、俺知ってるんだからな」
「何を?」
「大和さんが隠し事してるってこと」
言えないことなら、別にいいけど。続けられた言葉とは裏腹に、少し不満そうだった。ひとつ息を吐いて問いかける。
「ミツはさ、赤い糸って信じる?」
一拍置いて、ミツが噴出した。
「大和さんに赤い糸とか似合わねー!」
さっきまでの泣き顔はどこへやら、容赦なく笑い飛ばすミツに少しむっとして言い返す。
「笑うなアホ。しっかし本当にあるんだなーここに」
繋いだ手を目の高さに持ってくる。俺を、いや俺たちを散々振り回した赤い糸は、月明かりに照らされて相変わらず綺麗に輝いていた。
「ふうん、オレには見えねーけど」
ミツはちょっとだけ残念そうだ。
「なぁ、どんな感じなんだよ、オレらの赤い糸」
こんな信ぴょう性の欠片もない話なのに、楽しそうに付き合ってくれる姿に、また愛おしさがこみ上げる。ゆっくりと目線で糸を辿りながら言った。
「んーそうだなぁ、赤くて、きらきらしてる。最初は細かったはずだけど、今はちょっと太い。あと、」
「あと?」
言うか迷ったけれど、ミツが催促してくるので、目を逸らしながら白状した。
「結び目がいくつか」
「結び目ぇ…?」
最初は飲み込めていない様子だったミツが、俺の態度を見て察したらしい。途端にきっと眉を吊り上げて、叫んだ。
「一発殴らせろ!」
ミツのお怒りはごもっともである。
「今回においては反論出来ねぇな…、お好きなようにどうぞ」
そう言えば、ミツは待ってましたとばかりに腕をぐるぐると回した。おいおい、痕は付けないでくれよ。
「よっしゃ!覚悟はいいか?おっさん!」
「はいよ」
衝撃に備えて身構える。ミツの手が勢いよく近づいてきて、咄嗟に目を瞑った。しかし俺を襲ったのは、予想とは違う衝撃だった。
ちゅっ。
「これでおあいこな!」
唖然として声を出せない俺を見て、ミツがおかしそうにくすくすと笑う。その度に揺れるオレンジ色が、月明かりを浴びて赤い糸に負けじと輝いていた。
「…ほんと、お前さんには敵わねぇな」
「そんなオレでも好きなくせに」
「まぁな」
再び手を繋いで歩き出す。寮はすぐそこまで見えていた。だけどもう少しだけ、このままふたりで歩いていたいと願った。