Moon Fragrance


掠める指に


「ひゃあっ!」

 もうすぐ昼だと呼びに来たのだが、伸びてきたリクの髪の毛。雑にまとめて、まだそんなにも長くないせいでピョコンと小鳥の尾羽のように飛び出しているのが少しばかり気になり、仕事に集中しているリクの背後に立った。なにも気づいていない彼女のうなじを人差し指で撫で上げると、そのまま掠めた指先が束ねた髪を揺らす。ついでにリクも変な声を上げて飛び上がった。振り返ったリクが、なにをするんだと言わんばかりに睨みつけてきた。

「流石にただの輪ゴムでまとめているのはどうなんだ」
「だって、ヘアゴムなんて持ってないし、切りに行くのもまた今度でいいやって思ってたら……」

 バツが悪そうに目を逸らすリクの髪から、痛くないよう丁寧に輪ゴムを取り外した。加減なくまとめられた髪は、括っていた箇所でくっきりと跡がついている。それを手櫛でほぐした。

「オレの席へ移動しろ」
「へ?」

 窓際に置いた、仕事中のリクをただ眺めるためだけに置いた椅子を目線で指す。リクが首を傾げた。

「オレが切ってやる」
「え、えぇ?」

 美容室のように自由自在にとはいかなくとも、普段の髪型に戻すことならできるだろう。切る際にもともとのレイヤーに分けて少しずつ鋏を入れればいい。幸いなことにリクの髪型はいつもショートだ。なんとか輪ゴムでキツく括れるほどにしか伸びていない。
 リクがどうしようかと悩んでいる。いつもは美容室、ではなく理容室へと行っている。スタイリング重視ではなく、自分が仕事中に邪魔にならない長さになればいいらしい。その結果が持ち合わせることのないヘアゴムではなく、作業部屋に置いていた輪ゴムなのだろう。

「どうせ、当分行くつもりもないんだろう」
「……う、うん」
「切りたくない理由は?」
「ないです」
「なら」

 椅子のほうへ促すように腕を差し出した。まだ渋りながらも、リクは立ち上がって椅子へと向かった。

「準備してくる」

 オレはそのまま作業部屋を出て洗面所へと向かう。髪を軽く整えるために置いてある鋏とフェイスタオル、リクがたまの寝癖直し用の霧吹きと櫛を持ち、次はキッチンへ移動してケープ代わりに新品の大きな袋を横に割いてから作業部屋に戻った。
 オレの椅子に座るリクを見ると、居心地が悪そうにしている。自分の作業机をチラチラ見ている表情は、いつもの癖の通りに唇が尖っていた。

「不満か?」

 タオルをリクの首の周りに巻いて、その上からケープ代わりの袋を纏わせる。後ろは床に滑り落ちるからいいが、前は服に落ちないよう広げさせた。

「そうじゃなくて……」

 首を捻って自分の作業机を見遣った。それを手で正し、前を向かせる。

「ここに座ると、仕事してる私丸見えだね」

 霧吹きで髪を軽く濡らしていると、リクがそうボヤいた。

「そのために置いている。オレの今の特等席だ」
「と……」
「仕事に熱中しているリクに惚れたと、何度も言っているはずだが。……前」

 オレの言葉に振り向こうとしたリクを窘める。リクがハッとして少し申し訳なさそうに縮こまった。
 切るぞと、襟足の髪をひと掬いすると、リクが笑いながら身を捩った。

「ふふっ、くすぐったい」
「動くな。危ないだろう」
「だって」

 リクが落ち着いたところで鋏を縦に小さく入れていく。パラパラと短く切れた髪が、肩や床に落ちていった。それを繰り返しながら、たまに指が首筋に触れるたびにリクが身を捩る。

「くすぐった……」
「こら」

 そんなにくすぐったがりだったか? この状態で理容室ではスムーズに髪を切れているのか? 何度も首筋に触れるであろう指に、それに合わせてくすぐったいと言っていては……。

「そんなに掠めるように触っているつもりはないが、理容室でもそうなのか?」
「え? ううん。くすぐったいの初めて」
「初めて?」
「うん」

 改めて髪に鋏を入れながら考える。店ではならないのか。だが、もう指が首筋に触れない部分を切っているのに、オレの指が髪をひと掬いするたびにリクがピクッと肩を跳ねさせる。だんだん縮こまっていく背中。耳が赤くなっていた。

「……っん」

 その耳に、髪を掬う際に指の背が触れるとリクが鼻から声を漏らした。普段は夜に聞けるような声に、こんな簡単なことかと納得した。そのつもりはなかったが、どうやらオレの指が何度も掠めるから、夜の触れ合いを思い出しているらしい。髪を切り進めながら、もう片方の耳に触れても息を跳ねさせていた。
 後ろはいい頃合いか。最後は前髪だと、リクの前に回り込んだ。俯き加減になっているリクの顔を覗き込むと、ギュッと目を瞑っていた。耳同様、顔も真っ赤だ。顔に切った髪が落ちる前にと、我慢するように引き結んでいる唇にそっと同じものを触れさせた。リクがそれにヒクッと喉を鳴らした。

「ったく……」

 様子を窺うように薄らと目を開けたリクは、恥ずかしげにオレを見上げている。そんな顔をされては、オレだって思い出すじゃないか。

「もうすぐ終わる」
「う、うん……」

 リクの顔を上げさせ、前髪にも小さく鋏を入れていく。前髪を掬い取るたびに額に指が触れるせいで、リクがどんどん首を窄めていった。
 最後に櫛で髪の生える方向に整え直して確認すれば、いい感じだな。

「終わったぞ」

 そう告げるとリクがほぉっと息をついた。床に落ちなかった髪を頭から払い落とし、ケープ代わりの袋とタオルも取り除いてやる。

「わーすごい! いつも通り! ありがと!」

 リクが立ち上がると、窓ガラスに自分を映して確認していた。歓声を上げながら振り返った表情には、先ほどの恥ずかしげな様子はカケラもなかった。

「さぁ、頭を洗ってこい」
「うん」

 リクが頷いて部屋から出て行くと、作業部屋に置いてある箒と塵取りで落ちた髪を掃除する。まぁ無理にでも括れるくらいだ。集めて捨てた髪の量に、随分と伸びていたんだなと感慨深くなった。
 片付けを終わらせ、先ほどまでリクが腰掛けていたオレの定位置に腰を下ろす。いくらか待っていると、ドアが静かに開いてリクが戻ってきた。

「ルー、ありがとう」

 リクが満面の笑みで礼を言ったのに、オレは立ち上がって短くなった髪を一房掬って顔を近づける。

「ああ。で、さっきの調子だと、今夜は貰ってもいいのか?」

 冗談めかして言った言葉に、リクが息を呑んだ。威勢よく、“もー”とでも返ってくると思ったが、小さく頷いて面食らった。

「なら、楽しみにしておこう」

 口元が自然と綻んで、掬い上げた髪に口付けを落とした。

「また伸びたら切ってやる」

 そう言って笑いながら部屋から出ようとした後ろでリクが叫んだ。

「つ、次からはちゃんと散髪屋さん行く!」

 オレは当分のあいだ、笑いが収まらなかった。

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