Moon Fragrance


言えない言葉


 昼を少し過ぎたころ、山奥の倉庫で今日はもうすることがないなと床に座って工具を手入れしていると、背中にツンと固いものが触れた。なんだろうと首だけ振り返ると、大きな黒い壁が目の前を遮っていた。
 驚いて呆けると、その黒いのが私の肩にグリグリと擦り寄った。Dちゃんか。力が強過ぎていつも押し倒されそうになる。

「おっとっと……。ふふっ、Dちゃん1人で来たの?」

 この倉庫へ来るには、ちょっとした山道を登ってこなくてはいけない。辺りを見回しても、首を伸ばして山道のほうを見ても誰もいない。そしてそうだと言わんばかりに、Dちゃんが私の前に回り込んでなにかをポトリと落とした。
 それは苔むした、こぶし程の大きさのボールだった。

「ボール? どこで拾ってきたの?」

 私がそう聞くと、Dちゃんは振り返って鼻先を茂みのほうへと向けた。それだけで素直に山道を通ってきたわけではなく、山の中を散策しながら登ってきたことが分かる。
 このクリフ・リゾートも元は神羅カンパニーの保養地だったし、誰か子供連れの社員がいつか遊んで見つけられなくなった名残りなのだろう。

「迷子には……、ならないか」

 犬、でいいだろうから鼻は効くよね。自分で通った道くらい分かるか。

「山の中で怪我しないようにね」

 私の言っていることを聞いてるのか聞いていないのか、Dちゃんは私の前に置いたボールを鼻でツンと突いた。これで遊べってことかな。

「遊ぶの、下におりてからでいい? ここじゃ狭いからね。片付けちゃうからちょっと待ってて。あとこれ洗おうね」

 私は工具をささっと箱へ片付けると、汚れているボールを外の水道で洗うことにした。ボールを持って立ち上がり、まずは倉庫のシャッターを閉じにかかる。
 電動式だからあまり電気を使わないようにと、手動で半分ほどしか開けてない。それをピョンと飛び上がって掴んで下ろした。預かっている鍵を掛けて、私は脇の水道の前にしゃがみ込んだ。
 主に靴を洗うタワシを手に取って、ボールを水に濡らしながらガシガシと擦っていく。でも長いあいだ外で放置されていたせいか、ある程度の泥や苔は落ちても、染みついた色は取れなかった。

「うーん。これ以上は綺麗にならないね。今はこれでいい? 今度、街に行ったときに綺麗なの探してみる」

 私はツナギの太腿辺りでボールの水気を拭うと、Dちゃんへと差し出した。特に文句はないようで、Dちゃんはボールを咥えて受け取ると、ブンブンと触手を嬉しそうに振った。そのまま早く戻ろうと言わんばかりに山道のほうへ駆けてから私を振り返った。
 私も立ち上がってDちゃんのあとを追いかける。流石に走って下りる体力はないから、普段通りゆっくりとロッジまでの道を下った。Dちゃんも私の歩幅に合わせるように、隣をゆっくり歩いてくれた。
 山道を抜けてロッジの前の開けた場所に着いたとき、ロッジの階段の下のほうに人影が見えた。段差に座っている人は、太陽の柔らかい陽射しに、綺麗な金色の髪と白いスーツが浮き立って見えた。体調のいい晴れた日には、そうやって外の空気を吸いながら日向ぼっこをしているらしい。Dちゃんがその人を目掛けて走り出した。

「ルーファウスさん」
「ああ、リク。おかえり」
「ただいま、です……」

 私も近くまで行くと、柔らかい笑みを向けてくれた。Dちゃんを撫でながら言ってくれたルーファウスさんが光に当たってキラキラしてて、名前を呼んでくれる声も、おかえりの声も優しくて、急に恥ずかしさが込み上げる。
 失礼だなって分かりながらも、どうしても声が小さくなるし、顔も背けがちになってしまう。でもルーファウスさんはいつも気にしていないように、接してくれた。

「どこへ行ったのかと思えば、リクの所へ行っていたのか、D。仕事の邪魔をしていないだろうな」
「それは、大丈夫です。今日はやることが少なかったので」
「それならよかった」

 Dちゃんを見ながら言った言葉に私が返答すると、ルーファウスさんは私をちゃんと見て微笑んだ。

「これは、どこで見つけた獲物だ?」

 そう言いながら、ルーファウスさんはDちゃんが咥えているボールを受け取ろうとしていた。Dちゃんがじゃれるようにボールを強く咥え、頭を振ってからパッと放した。ルーファウスさんがそれを受け取って、軽く向こうへと投げた。

「リクが与えてくれたのか?」

 Dちゃんがボールを取って戻ってくるあいだに、ルーファウスさんはまた私を見てそう聞いた。話す相手に、ちゃんと視線を合わせてくれる人だ。

「あ、いえ。Dちゃんが茂みの中で見つけてきたみたいです。私は洗っただけで……」

 ちゃんと汚れは落ちなかったんですけどとか、今度街で綺麗なものを探してくる約束をしたんですとか、モゴモゴと話してしまっても聞いてくれている。

「そうか、ありがとう。私もこんなだしな、Dは暇らしい」

 仕事でもみんないなくなっちゃうもんね。たまに遊んであげるけど、ボールも今までなかったから走り回ることしかできないし、私もすぐバテちゃうからDちゃんには物足りないのかも。
 よく取って来たなと褒めながらボールを受け取ったルーファウスさんが、また向こうのほうへと投げた。Dちゃんはそれをキャッチしてすぐに戻ってくる。ルーファウスさんも、軽く投げる分には怪我も痛くないのか、何度も2人で繰り返していた。

「いい遊びができた。これで普段よりは構ってやれる」
「よかったですね」

 ルーファウスさんがいつになく笑っている。Dちゃんも楽しそう。そっか、ルーファウスさんと遊びたかったから見つけたボールを持ってきたんだね。じゃあ、私はもういいかな?

「それじゃあ私は部屋に戻りますね」
「あ、ああ……?」

 私が告げると、ルーファウスさんは私を見上げて不思議そうな声を上げた。だけどどうしてなのかは分からないし、Dちゃんも楽しそうなのにと、私も首を傾げた。そして、ルーファウスさんがなにか言いたそうに口を開いたけれど、すぐに噤んでしまった。

「……わかった」

 そのあとすぐにそう言ったから、私は階段の1段目に足を置いた。そのとき、ダダダっと地面を鳴らす音が向かってきて、気付いた瞬間には背中から服をグイッと引っ張られていた。

「わっ……」
「リク!」

 よろけて後ろに倒れそうになったけれど、なにかに支えられて軽く尻餅をついただけだった。体を支えてくれたのは私を引っ張った本人で、そのDちゃんはすぐに私の前へ移動すると階段を大きな体で塞いでしまった。

「D、ちゃん?」
「リク、怪我はないか?」
「だい、じょうぶ、です……」

 驚きで目をしばたたかせていると、ルーファウスさんが申し訳なさそうに言って、私に手を差し出してくれた。ルーファウスさんは体を痛めてるし星痕だってあるのに、手を貸してもらうわけにはいかないと首を横に振って自分で立ち上がろうとした。だけど、目の前にもう一度手をずいと差し出された。流石に2度目は断れなかった。
 その手を掴むと、しっかりと握り返して軽々と私を引き寄せた。しゃがんだ体勢まですんなり戻れて、私はお尻の砂を払って立ち上がった。

「ありがとうございます。ごめんなさい」
「謝るのはこちらだ。Dはキミにここにいてほしくて引き留めたようだ。驚かせて悪かった。リクがよければだが、いてやってくれないか」
「いいです、けど……」

 ルーファウスさんと遊びたくてボールを持ってきたんだと思ってたんだけどな。

「D、いきなり引っ張っては危ないだろう。力加減もしろ。だが――」

 ルーファウスさんがDちゃんに苦言を呈していたけど、すぐに顔を寄せてなにかを言ったようだ。だけど私には聞こえなかった。
 少し叱られているのに、なぜだか嬉しそうなDちゃんに私は疑問を投げかける。

「Dちゃん、ルーファウスさんと遊びたかったんじゃないの?」
「リクとも、遊びたいんだ」

 Dちゃんの代わりに、ルーファウスさんがそう答えた。なんで私とも? そう思っているとDちゃんは改めてボールを取りに行って、咥えて戻ってきたそれを私に差し出した。そしてすぐ離れて投げられるのを待っている。

「私がいないあいだ、世話をしてくれていただろう」

 世話をしていたというより、塞ぎ込んでいた私のそばにDちゃんがいてくれただけだ。

「ほら、Dが待っている」

 ルーファウスさんに促されると、離れた向こうでDちゃんが早くしろと、ピョンピョン飛び跳ねていた。私はDちゃんに向かって、下から優しくボールを投げた。

「Dはキミを大切な友人と認識している」

 弧を描いて飛んだボールをDちゃんが難なくキャッチする。

「私が、そばにいてもらってたんですよ」
「大切な相手だからそばにいるんだ。だから、いてほしいとも思う」

 大切な相手。なんだか不思議でくすぐったい響きだ。でもどこか遠いような言葉に、私はルーファウスさんを見つめた。ルーファウスさんも私を見上げて、フッと笑っただけだった。
 Dちゃんが、キャッチしたボールを私に持ってきた。そしてまた向こうへと駆けていく。私は渡されたボールを眺めてしまう。

「待っている」

 その言葉はDちゃんを見て言われたものだから、Dが待っているという意味なのだろうけれど、“誰が、誰をですか”と聞きたくなるような雰囲気を纏っていた。Dちゃんが早くしろと吠え始めた。

「ごめん」

 私は我に返ったようにハッとしてボールを投げた。そんなに離れていないはずなのに、それはDちゃんの所まで届かなかった。それでもDちゃんは転がったボールを走りながら捕まえて、私の所へと持ってきた。ありがとうと受け取って、また投げようとする前にはDちゃんがもう走り出してスタンバイしていた。
 そのあとも、話題を変えたルーファウスさんと他愛のない話をしながら、Dちゃんとボール遊びを繰り返す。そしてどんどん距離が伸びていっている気がする。

「そんなに遠くは投げられないよ」

 下から優しく投げていたはずが、いつの間にか勢いをつけて投げないといけない距離だ。だけどDちゃんはボールという獲物取りに気分が高揚しているのか、向こうのほうで跳ね回って待っていた。

「ほらー……」

 力いっぱい投げても届かないどころか、ボールが変な方向へと飛んでいく。それをルーファウスさんがクスクス笑っているし、Dちゃんはまっしぐらに捕まえに行った。
 だんだんと投げ疲れてきた私のボールは飛距離も落ちてきた。だけどDちゃんは何度も私が暴投しても気にならないらしく、やっと体が温まってきたと言うように全力で走り回っていた。あのDちゃんに体当たりされたら吹っ飛ばされそうだな……と内心、考えてしまう。

「持って来てくれていい子。あはは、Dちゃん、放して。投げられないよ?」

 ボールを持って来てくれて、頭を両手でわしゃわしゃと撫で回しても、素直に放してくれなくなってきたくらいにはDちゃんは興奮していた。Dちゃんとボールの取り合いをして、なんとか受け取る。少し息をついてしまった。

「アイツは体力が有り余っているな。リク、疲れただろう」
「ちょっと、腕が……」

 明日、筋肉痛だろうな……。

「そろそろ終いにしよう。陽も傾いてきた」

 言われてみると、空が少しオレンジがかっていた。風も少し涼しい。早くご飯の準備も始めないと真っ暗になってしまう。

「リク、ボールを私に」
「どうぞ」
「D、これが最後だ。しっかりキャッチしろよ」

 私がボールを渡すと、ルーファウスさんは階段から立ち上がった。Dちゃんにそう言って体を少し斜めに構えると、容易くDちゃんが離れた遠くまで投げてみせた。Dちゃんもそれを見事にキャッチした。

「すごい……」

 私がポツリと呟くと、ルーファウスさんは私を見てどうだと言わんばかりの笑みを浮かべた。その顔が余りにも様になっているから、ドキッとして顔が熱くなってしまった。

「よくやった」
「Dちゃんも凄かったね」

 ルーファウスさんが戻ってきたDちゃんからボールを受け取り、何度も撫でて褒めている。Dちゃんも息を切らしながら嬉しそうに前足を跳ね上げてじゃれていた。そのあとDちゃんは私の周りを2周ほど回って、最後にグリグリとお腹の辺りに擦り寄ってくれた。

「礼を言っているようだ。私からも礼を言う。ありがとう。また、時間があれば付き合ってくれ」
「はい! Dちゃん、また遊ぼうね」

 私も撫でてそう言うと、Dちゃんは大きく吠えて返事をしてくれた。そして、ルーファウスさんとゆっくり階段を上がってロッジへ入った。戻ったことに気付いたのか、キッチンからイリーナさんの大きな声が聞こえた。

「もうご飯できますよー」
「あ! イリーナさん、ごめんなさい!」

 早くご飯の準備をしないといけないどころか、イリーナさんがほとんど作ってくれたらしい。私は、先に行きますねとルーファウスさんに声を掛けて、慌ててキッチンへと向かった。キッチンではなぜか、イリーナさんがニヤけて待っていたのだった。

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