きみだけが知らない

 残酷なことを言う。私達の関係というのは酷く薄っぺらで、シュガーレースの砂糖のように脆く、繊細でありながら、人工的に作られた甘味なのである。これを知っているのは私だけにとどまらず、道行く人々も、猫も、世界ですらそれを理解するだろう。
 ただ、君だけが何も知らない。
 
 おかしな話である。本来巡り合うことのない、許されるはずもない話なのだ。それがどうしてか君は今、私の隣にいて、にこりと微笑んでいる。ソファに腰掛け液晶画面に目を向ける私を横から眺めながら、愛おしそうに笑んでいるのだ。こんなことはありえないと、今この場でただ一人、私が思考するたび君は近付いてくる。そして私は君の体温を感じてしまえるのだと気付き、諦めるように深く背もたれに身を沈めた。

「龍臣くん。私、のどが渇いた」

 ふいに口を開いてみれば、君が嬉しそうに一層口角を上げた。立ち上がろうとする君の手を引き、その腕に額を寄せる。確かに肌に感じる、そんな気がする。君の体温だ。

「どうしたんですか?」

 くすぐったそうに笑いながら尋ねる君が、中途半端に浮かせた腰をどうすまいか少し迷わせて、再びソファに腰を下ろした。

「私が取ってくる。龍臣くんはお茶かココア、どっちが飲みたい?」
「いいんですか? ……それじゃあ、ココアで」
「了解」

 立ち上がり、私の視線より下にきた君の広いおでこに軽くキスを落として、その場を後にする。キッチンの棚からグラスとマグカップをそれぞれ取り出し、一つには君の選んだココアを、もう一つには私の好きなジャスミンティーを注いだ。多分、これが市販の物だとしても、私が淹れるよりも君自身が淹れた方がきっと美味しくココアを作れるだろう。なにせ私はココアを淹れたことがこれまで一度だって無いし、君がいなければこの先も無縁の代物だったはずだ。それが今ではこうして、甘い香りを広がせている。部屋中に広がっていく香りに、ここは異世界だったかと錯覚するほどだった。
 
「どうぞ」
「ありがとうございます」

 ガラステーブルにココアの入ったマグを置き、君の前を通って私もまたソファへ腰掛ける。流れるままにジャスミンティーの注がれたグラスへ一口くちづければ、君もまたニコニコと笑いながらマグに手をかけた。

「熱いから気をつけてね」
「大丈夫ですよ」

 君は落ち着いているときいつも微笑んでいる。別に、本人にそんなつもりはないのかもしれない。しかしながら私は君のそんな笑みが好きで、君の口角に、唇に見惚れているのだ。現に今も、マグに口付けられた君の唇を見ている。その視線に気付いた君が「なんですか?」と照れくさそうに目を細めたことで、私の中のスイッチがひとつ押された。
 テーブルへグラスを置き、君の方に改めて向き直ると、何かを察した君も目を泳がせつつテーブルへとマグを置いた。

「……え……と、苗字さん?」
「龍臣くん、こっち向いて」

 ソファに膝を立て、君との距離をぐっと縮めれば、頬を染めた君がわずかに唇を尖らせながら受け入れるように瞼を伏せた。ちゅ、と触れるだけの軽いキスを唇に落とし目を開くと、君もまた同じように薄く目を開いて私を見る。今度はどちらからともなく、再びついばむようにキスをしながら少しずつ体の距離を縮めていく。私が身を乗り出せば、それを支えるように君が腰に腕をまわし、片手で頬を撫でてやれば今度は君が身を乗り出す。触れるだけだった唇はいつの間にか開き、お互いの舌が絡みついていた。

「……ふ、ン」

 口の端から漏れた声に反応したのか、君が一層深く口付けてきたのを手で押し返し、距離を取る。切ないと言わんばかりの視線から逃げるように君の胸へ顔をうずめると、うやうやしく髪を撫でられた。

「どう、したんですか……?」
「龍臣くん、もっかいココア飲んで」
「え? あ、はい」

 私を胸に抱いたまま君がおずおずとマグへ手を伸ばし、一口ココアを口に含んだ。ゴクリと喉が跳ねたのを確認し、再度君の唇を奪う。驚いて一文字に閉じられた唇を舌でこじ開け歯列をなぞってやると、ピクリと体を震わせた君が喜びのあまり口の端をひくつかせて口を開いた。
 口内に広がる甘ったるいココアの香りを一通り味わい、離れる。すっかりその気になった君の唇を指でつまんで閉じさせると、不服そうにじっとりと見つめられた。

「甘いね」
「むむむむ、むむむん」
「なんて?」

 唇をつままれ喋れないことを分かっていながらあえて聞き返してやれば、君はまた、もどかしそうに「むー」と唸った。
 
 笑いながら彼の膝の上へ移動し背中を預けると、自然と両脇から君の逞しい腕が伸びてきて、じゃれつくように私を抱きしめる。後ろから私の首筋を食むように当てられた唇にこそばゆさを感じたものの、ガッチリと抱え込まれた体は逃げることを許されず、私はなすすべなく君の腕の中でくつくつと笑った。
 ふと、テーブルに置かれたココアのマグが目にとまる。
 ほとんど減っていない中身は淹れたての温度を過ぎ去り、刻々と冷めていく。カチカチと部屋に響く時計の秒針がその速度を私に感じさせた。

「ねぇ、ちょっと貰うね」
「どうぞ」

 手を伸ばしたマグはずしりと重く、私にとって毒物でしかないチョコレート色の液体がそこに待ち構えていた。ゆっくりと口をつけ、マグを傾ければ、舌先から喉へと滑り落ちていく小さな洪水のできあがり。まわされた腕と預けた背中から君の体温を感じながら、懸命にそれを流し込む。たった二口分のココアを飲み込むことがこれほど辛いことだとは思わなかったな。

「……甘いなぁ」

 果たして私は、これを無駄にすることなく飲み干せるだろうか。部屋に広がった甘ったるい香りで死んではしまわないだろうか。君がここにいてくれたら、私はココアをもう少し好きになれただろうか。

「苗字さん……」
「……なぁに? 龍臣くん」

 頬を擦り寄せる君は幸せそうに私の名前を呼び、私はそれに甘くなった声で応え、君に身を委ねて瞳を閉じた。
 シュガーレースなんか溶けてしまえばいい。そしたらきっと、もっと君に近付けるだろうと、私は思うのだ。

まだ冷めないで、覚めないで、醒めないでほしいよ。