上空から差した一筋のライトが、海底洞窟の入口を示した。
 確かそういう設定だったかと、役割を終えたばかりのレイザーは久々に海岸に出て海を眺めていた。如何なるものも通さず、月明かりを反射するばかりだった黒い海面は、今日という日だけはその光を身の内へ許していた。さざ波でまだらに揺れる海面が、自然の中でも見慣れぬコントラストを魅せる。否応もない美しさの前に、レイザーは場違いなほどに草臥れていた。
 右頬は腫れ上がり、両の足の裏は火傷の損傷で熱を孕んでいる。靴なんかは機能しておらず、海水の染み込んだ砂の上に素足で立っているざまだ。しかし、草臥れているのは体よりも気持ちの方が大きかった。ここ暫くはゲームマスターという立場もあり、感情が強く振れることなど無かったのだ。疲れもする。

 ゴンとその仲間が"レイザーと14人の悪魔"を倒してから少しの時間が経った。ゴンたちはこの施設の真上にある灯台でゲームシナリオを聞いている頃だろう。強い光の差す見慣れた筈の暗い海はどこか神聖さがあり、レイザーは眩しいものでも見てしまったような気がして、薄い目を更に細めた。

 随分と長い間待っていたものだと、レイザーはどこか気の抜ける思いだった。
 感傷に浸る性質では無いが、凪いだ海を眺めているとどこか宥められている心地があり、自覚出来る程度には昂ぶっていたのだと思い知る。誰が来ようと手を抜くつもりは当然無かったが、恩人に頼まれて以来ずっと待っていた小さな待ち人相手には、気が昂ぶるのも当然。そして理性とさざ波の音によって平静を取り戻した頃には、祭りの後のような静けさだけが余韻に残っていた。

 そうしてどこか穴の空いた心地でいたレイザーは、背後に一人分の気配を察知した。その大きさ、歩幅、身のこなし等から見知った相手であると警戒を解く。しかし、レイザーは一度振り返って相手の確認をした。いつもは物静かなオーラが、少しばかり波打っているように感じたからだ。予想通りの姿を認め、少しの取っ掛かりを覚える。

「随分はしゃいだねぇ」
「なんだ、こんなとこまで来て茶化しに来たのか」
「まさか、素直に労わりに来たんだよ」
「どうだかな」

 レイザーの隣まで迷わず足を進めたのは、同じくグリードアイランドを動かすメンバーの一人、ゴリ子。製作当初からのメンバーでは無いが、割と最初の方からの付き合いであるサポートメンバーだった。大柄なレイザーの隣に並ぶゴリ子はまるで小人のような対比で、しかし押せば折れそうな見た目と程遠い性格をしている事は、犯罪歴のある大男の腫れた頬に冷たいアルミ缶のスポーツドリンクを押し当てた事からも察することが出来るだろう。
 嫌がらせと労わりを一遍にやってしまうゴリ子を、レイザーは不器用と評していた。昔からゴリ子という人間は、礼を言おうとすると歯肉に小骨でも刺さったかのような顔をする。口を閉じながら何かを言ってるようなのだが、その理由に全く検討がつかないのだ。ドリンクを受け取ったレイザーは、言葉の代わりにゴリ子の脳天を軽く小突いて返事をした。

 それから特に口を開く様子の無いゴリ子に構わず、レイザーは片手で缶を開ける。プルタブを引っ掛けるとアルミの口が押されて軽快な音を立てた。その反動で跳ね返った中身が指に少し掛かるが、気にせずに一口飲んで、レイザーはまた海面に伸びる光の筋を眺めることにした。

 体内へ流れた冷たさに、温度差による異物感は無かった。頭も体も冷めて、すっかりひと心地ついてしまったようだった。

 ――やはり、オレはうらやましいのだろう。

 レイザーは、一周回って心底納得した。ジンにゲームの話を永遠聞かされていた時、ジンにゴンの話を聞いた時、そしてゴンと対峙した時にも思った事だが、自分の気持ちを客観的に見た今、それが駄目押しのように自身に沁み込んできた。

 誰でも良かった。ジンとゴンのような親子で無くてもいい。家族なんて言葉など羨ましくもなんとも無い。だから、誰でもいいから自分を――。その切望を叶えてくれたのはジンだった。叩かれて、力強く掴まれた右肩。頼んだぞ、と。そう言って自分の名前を呼んだあの瞬間を、今もまだ昨日のことのように覚えている。それ程の衝撃だった。そして未だ自分を自分たらしめているのも、またそうだった。これだけあればいい。これだけあれば生きていけると思ったし、事実生きていけた。十分だった。

 ゴンとその仲間とのゲームは楽しかった。彼らの間には共にした時間と確かな信頼があり、この見事なチームワークが無ければゴン達が勝利することは無かっただろう。ジンの息子がそれを知っている事に嬉しさがあり、同時に羨ましさがあった。
 ゴンと同じくらいの頃、自分は誰に救われることも無く、ただただ暗闇の中を転がり落ちていた。もがいてもあがいても、どこへ行っても同じ。自分に何の価値も見出すことができず、程なくして他人すらも諦めるようになり、鬱屈な時代が続いた。そう、まるで何をしても、何を信じても無駄だと、この黒い海のように自らを落とし、全てを撥ね付けていた時代だ。

 ゴンがジンの息子じゃ無かったら、自分はどう思っていただろうか。レイザーはそう考えて、苦笑を漏らした。もしかしたら、ただのムカつくガキだと嫉妬していたかもしれない。疎む事はない。自分にはもう信じてくれる人がいるのだから。しかし、親の愛情を信じ、すくすくと育ってきた甘っちょろいガキ、程度には思っていたかもしれなかった。漏れた声に反応して、ゴリ子が視線をチラリとレイザーに向けた。

「なに、どうかしたの」
「いや、何でもない。オレもまだまだガキだと思っただけだ。……どうした」

 レイザーは、子供のような感情だと思った。そうして今度はゴリ子に視線を向けた。ゴリ子のオーラが緊迫に波打っていたからだ。

「私、あなたに言いたいことがあった。ずっと、ずっと……前から」
「……なんだ」

 レイザーは短く言葉を切った。何か言いたげにしていた事は知っていたが、そう言って茶化せばもう二度と口を開かないかもしれないゴリ子の性格を思ってのことだった。静かな深呼吸の音が聞こえる。暫くの沈黙の後、ゴリ子の呼吸の音が波の音に紛れて消えた。その間、レイザーはゴリ子の横顔を見ていた。ゴリ子は、海を、海に差す一筋の光を見ていた。
 ゴリ子の目がレイザーを捉えた。突如向けられた視線と、その熱量にレイザーは驚いて身を引いた。飛び上がった両肩に不意に圧迫された喉元が、同時に息を呑んだ。そのまま呼吸が止まったことに、レイザーは気がつかなかった。

「――お礼を」

 身の内から重そうに吐き出されたその一言に、二人の視線が一瞬、強烈に交じわる。レイザーはゴリ子から目が離せなかった。ゴリ子は続く言葉を探して足元や左右斜め上に視線を投げている。レイザーからの穴があきそうな程の視線は感じていたが、自分が言い出した手前、ゴリ子は見るなと言うことも出来ずにただただ体温が上がっていくのを自覚していた。

 ゴリ子は白んでいく頭で懸命に言葉を繋げた。自分が以前いた場所、そこでどういう生活をし、どうやって生きてきたのかを。それは、レイザーと然程変わりようもない経緯で、濁される言葉の端々から女であることの理不尽すら受け入れてきたのだと推測できる内容だった。レイザーには静かに語るゴリ子の暴風のような感情が理解できた。すれ違う他人にまで苛立ち、周りどころか自分すら信じていなかった荒んだ記憶。その救いようもない歴史の中に、突如としてレイザーの名は現れた。

「そこで、あなたの話を聞いた。あなたはジンに雇われて、一緒に外へ出たと。その時の私にとって、それは凄く衝撃だった。ここから、また前を向ける人がいるなんて思えなかったから。……でも、どうしてもその話が気になって、気になって気になって仕方なくて……それで私、たまたまムショにきてたジンに聞いたの。その人と話がしたいって。そしたら、なんて言ったと思う?」

 ゴリ子は少しおどけたように抑揚をつけた。ゴリ子自身が通ってきた長い長いトンネルを抜けて、やっと一息つけたような、そんな印象をレイザーは受けた。

「じゃあハンターになれ、って言ったの。今のままじゃダメ、足手まとい、中も外も弱すぎて、お話にならない。今のままじゃあ、あなたには会わせられないって言ったの」
「……それは」
「全く、その時は頭に血が上って三日間ジンの声を思い出しては怒りっぱなしだったわ」

 レイザーがやっと発した言葉は、ただの相槌だった。もう少し遅ければ、捻り出すように声が枯れていたかもしれないと、口を閉じる。ゴリ子が落ち着きを取り戻し始めるのと反比例するように、自らの鼓動が次第に早まっていくのを、レイザーは感じていた。

 それは、もう既に持っているもので。
 それは、もう貰った事があるもので。
 それは、もう自分には十分なもので。

「ムショを出て、私がやる事はそれしか無かった。それしか頭に無かった。どん底に落ちたらあとは這い上がるだけだってよく言うけど、それも前が分からなければ上も分からない私みたいな人間には、全く無用の教訓ね。私はその日から、ハンターを目指した。あなたに会うために」

 それは――紛れもない、期待だった。

 ここまで言ったら後はままよと観念したらしいゴリ子は、彷徨わせていた視線を落ち着けて、一度レイザーに寄越してから、また海を見た。

「そこからは、まぁ……死に物狂いってやつ。一回死んでんだからどうにでもなるって、死に物狂いで修行して、ハンターになって、ジンを探して、そしてここにきた。だから、私の目標はもう達成してるんだけど。あなたに実際に会ったら、あなたに聞きたかったこと、全部なくなっちゃって。どうしてあなたに会いたかったのかすらも忘れちゃって。だから、せめてお礼を言おうと思ってた。あなたから何かお礼を言われるたびに、私も言ってしまおうって毎回思ってたんだけど、どうにもうまくいかなくって」

 あの何か言いたげな態度は、そういうことだったのか、とレイザーはどこか遠くの方で納得した。近場の意識は火照ってどうしようもなさそうで、その感情は水面下で動いていた。決して表には出さず、内側だけで湧き上がるそれらをレイザーは必死に押し留めていた。
 ただの自己防衛のようなものだった。表に出した途端、それが本物になってしまうのは恐ろしく、また出さなければ自分の中で勘違いとして処理することができる。しかしレイザーにはある程度の確信があった。ゴリ子の人生に、自分が色濃く影響していることの確信が。悪い方へではない。つまり、それがレイザーの期待だった。

「私は、本当はもう満足だったんだけど。でも、あなたがジンに託されてゴンくんを待ってるって知ったから、だから私も一緒に待とうと思った。そして、それは叶った。だから……」

 その時レイザーは不思議なものを見た。ゴリ子の視線が、体が、意識が全て自分に向いて、少し潤んだゴリ子の目元が、光に反射したのだ。だんだんとゴリ子の表情が、昇る朝日を受けて色をつけていく。

「あなたのお陰で、少しだけ強く生きてこられた。ありがとう、レイザー」

 白と黒の海面、それから一筋の光しか無かった圧倒的なコントラストの世界に、ゴリ子の朱色に染まった柔らかくも鮮やかな色が、レイザーの意識を全て奪っていった。

 何か言おうとして、自分の口が情けないほど震えていることに、レイザーは気づかなかった。微かな息の音がいやに大きく聞こえてくる中、レイザーとゴリ子は、朝日が海の夜色を消し去ってしまうまで、一筋の光が無くなって尚、海面が光を反射せずに世界がすっかり透明になってしまうまで。お互いの事をただただ見ていた。

 自分にとっての一筋の光がジンだったように、ゴリ子にとってそれは自分だった。強い光を受け入れた先で、世界がたった二色ではないことを、ゴリ子の頬が朱く色付くことを知った。その事実がレイザーのあの日の記憶を揺り起こす。
 情けないと思う。自分は信じてもらえたから信じられた。けれどゴリ子は信じる事だけでここまで生きてきた。そんなゴリ子に、なにか言葉を……そうは思うのに、その前に、どうしても、どうしても聞きたいと思ってしまった。そしてレイザーは、震える声で切望した。

 ――もう一度、名前を呼んでくれないか、と。

朱が交われば朝になる


作者:梅吉