彼の周りを野次馬がぐるうりと囲っていた。そして……最後の一手を決めた、その瞬間。見物人の群れからワァっと拍手喝采が湧き起こった。あちゃー。ありゃあ、もうダメかもしれないなあ。
 見事大幅な値切りに成功した“サングラスをかけた濃紺スーツで長身”の彼は、携帯電話2台を手にし、凱旋パレードを終えた英雄のように誇らしげに去って行ったのであった。

「ひゃー、これまた派手に買い叩かれたねえ。くわばら、くわばら」

 その一部始終を見届けていた私は、ギャラリーがあらかた捌けたのを見計らってケータイショップの“おじさん”に声をかけた。

「……いやあ、参った。あんなに粘り強いお客さんは初めてだよ。これじゃ商売あがったりだ」
「ほんと! 私たちだってそれなりに生活がかかってるのに、酷なことするよねえ。“お客さん”たち、みーんなしてこっちを敵視してくるんだもの。おじさんたら、四面楚歌もいいとこだったわよ」

 下手くそなりに何とか慰めの言葉を考えてみたものの、見ていて気の毒になるくらいおじさんはがっくりと肩を落としてしまっていた。うん、そりゃあ落ち込むわ……。
 私もこれで商売人の端くれだから、おじさんの気持ちはよーく分かる。自信を持って陳列していた商品を、安く買い叩かれてしまったときのあの虚しさ。不当な値段設定をしているわけじゃないのに、やはり安価な値段で手に入れたいというお客さんの情熱に打ち勝つことは中々に難しい。
 でも、私にもお客さん側の気持ちは痛いほど分かるんだけどね。野菜とかお肉とか、もっと安くならないかなあって思うもの。

 おじさんのプライドごと購入されていった商品は、ビートル07型であった。新機種なのだ。確かに、他の商品よりも目立つデザイン性を持っているとは思う。でも……と私は単純な疑問を口にした。

「そんなに良いのかな、ビートル07って」
「どうせなら、嬢ちゃんもひとつ持ってくかい?」
「……えぇ? 大幅に値切られたからって、そんな投げ売りみたいな真似しなくても……」
「いや、“売る”って言ってるんじゃないよ。嬢ちゃんに“あげる”って言ってるんだ。
 あんな通りすがりのニイちゃんに買い叩かれるモンなら、嬢ちゃんにタダであげた方がよっぽどマシだったさ」

 そう言っておじさんから手渡されたカブトムシ型の携帯電話は、私の手には少しばかり余る大きさだ。さすがに多機能なだけあって、ずっしりと重量もある。もしこれを分解してみたら、ネジとか、半導体とか、その辺のむつかしい部品がたくさんつまっていることだろう。別に私、カブトムシが特別好きってわけじゃないし。世界中を飛び回るわけでもないから、こんな多機能な電話なんて持て余しちゃうだけなんじゃないかなあ。もしもこれがハート型とか、リンゴ型とか、もっと可愛げのある形だったら、少しは持ってても良いかなあって思うけど。

「うーん、やっぱり良いよ。どう考えても私には必要なさそうだもん。
 こういうのって、“自暴自棄”って言うんじゃないのかなぁ。そう投げやりになるの、良くないよ」

 おじさんは、私の倍以上生きている。言わば“人生の先輩”だ。通常ならば私なんかが偉そうな口を利くのもおこがましいのだが、単純な事実なのだから、言わなくてはならないと思った。こんなところで現実逃避をしている場合ではないのだ。私が生意気なことを言ったせいで、おじさんは目に見えてますますしょげてしまった。まるでクタクタに煮込まれたほうれんそうみたい。これじゃあ、きっとポパイも復活しないだろう。

 私はこの店の近くで自作のアクセサリーや置物なんかを販売している。時期にもよるが、それなりにリピーターもいて、売り上げもそれなり。
 私には、どうしてもお金が必要だった。
 数年前の話だ。ただの小娘で、ただの初心者だった私に、商売の極意を指南してくれたのがおじさんだった。おじさんは、ちょっとうさんくさい顔をしているけど、決して私を軽んじることなく真剣に商売の楽しさについて教えてくれた。私の恩人。憧れのひと。

 私のパパは、私が物心つく前に死んだそうだ。つまり、私は母子家庭の中で育てられてきた。
 私のママは、パパの分まであくせく働いて、働いて、働いて……。なーんて感動ドキュメンタリーが作れそうな事実は全くなく、ママはちゃらんぽらんに生きている、どうにも手がつけられない人なのであった。
 お嬢様育ちのママは、おっちょこちょいで、甘ったれで、世間知らずで、グズで、好きな人が出来たらすぐに貢いじゃって、だらしなくて、おバカで、本当にどうしようもない人なのだ。おかげで家計は常に火の車。貯金残高が0になるなんてことは珍しくもない。
 でも、天真爛漫でふわふわと雲のように屈託なく笑うママのことが、私は大好きだった。借金取りが押しかけてきても何も疑問を抱かず、自前の笑顔でお茶をご馳走して、身の上話まで聞いてしまうおバカなママ。そんなママを見て育った私が、幼い頃から“ママを守るためにしっかりしなきゃ!”と決意したのは不自然な話ではないだろう。
 今は学校もあって本格的な仕事は出来ないけど、少しでも家計を助けるためにも、やっぱり私にはお金が必要なのであった。
 そして、売買の難しさを勉強するためにも、私にはおじさん“が”必要だ。たくさん学ぶためにも、たくさんの恩義を返すためにも、もっともっと、おじさんの傍にいたい。

 しょぼんと小さくなってしまったおじさんの頬に、無性にキスを落としたくなってしまった。が、ぎりぎりのところで理性を押し殺す。ボインでキレイなお姉さんならともかくとして、私みたいな小娘からキスをされたって、おじさんが元気になるとはとてもではないが思えなかった。
 元々、好意的に想っていたのは間違いない。けれど、その想いが別のモノへと昇華したのはいつだったんだろう。私は誰にも伝えることが出来ない感情をつねに持て余している。学校の友達にも、大好きなママにも、天国にいるパパにも、もちろん……本人にも伝えることは出来ない。
 はじめは父親いない寂しさに“理想の父親像”を重ねているのだろう、と思っていた。私をあたたかく迎え入れてくれた懐の広さに安心感を覚えたから。同年代のおとこのこは、荒々しくって、余裕がなくって、性急で、ちょっと乱暴だから好きじゃない。それに比べて、彼は、……おじさんは、ママにもよく似たふわふわの優しい笑顔で私に接してくれる。見返りを求めないで私に親切にしてくれる。私に、大人に甘えたって良いんだって教えてくれる。
 だから、すき。おじさんが……すき。

 相関図を描いたって、きっと私とおじさんの間には何の線も引かれない。がむしゃらに線を付け足したって、錆びた鉄橋のようにぼろぼろと崩壊してしまうだけだ。
 だから私は、慎重に、慎重に、私が魅力的な女性に変貌を遂げるまで、慎重に、点と点をおじさんの元へと繋いでいけるように行動していかなければならないのだ。

「ね、ね、おじさん。ビートル07型なんていらないから、おじさん一押しの超薄型携帯を私に売ってよ」
「いや、しかし、嬢ちゃん……」
「私、携帯は軽くて薄くて持ちやすいほうが好きだもの。所在地モードもついてて、待ち合わせにも便利なんでしょう? メールなんてわずらわしくてしないし、電話だけかけられれば私には事足りるから」
「だが、嬢ちゃんからお代を受け取るわけには……」
「おじさんも知ってるでしょう? 私も商売人なのよ。世界に流通する物にお金を支払わないなんて野暮な真似はしないわ」

 おじさんにお金を無理やり手渡すと、私は3歩後ろに退いた。
 ……うん。今はこのぐらいの距離感で良い。みじめな欲は出さない。

「じゃ、学校の宿題があるからもう行くね。また明日来るから」

 そう言い残すと、私は雑踏の中へと駆け出した。“明日”までの距離が遠くて名残惜しいが、今は辛抱のときだ。
 だが、ふと胸に引っかかっていたことが脳裏によぎった。くるりと身体をひるがえし、人混みの中でおじさんめがけてめいっぱいに叫んだ。

「ねえー! おじさーん! 私の名前、ゴリ子って言うんだよー! ちゃんとおぼえててよねー!」

すると、おじさんはいつものようにクシャッと笑って「知ってるよ」と唇だけで返事をした。

輝くリンゴ・スター


作者:犬川