自分の名前を呼んだのは初めて聞いた声だった。
振り返って誰か確認すると、何度か見かけたことのある初老の男の人。瞬時に何の用で話しかけられたのかを理解してしまって、隠すこともなく顔を顰めた。
私の反応を鼻で笑った男はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
……気分が悪いな。
「どうしました?」
何を言われるのかなんてわかっているけど、それでも体裁を守るようにこちらから話を振る。出来れば聞きたくないけど。というか聞き飽きたけど。
「五条家の者です」
「はぁ……」
知ってるけど?
ほとんど無理やり連れていかれた悟の実家にいた人。何度か見かけたのもその時。
男がまた鼻で笑う。
「それで五条悟の恋人が務まるとでも?」
「さあ、どうでしょうね」
聞き飽きた言葉を言われたところで今更傷付くような人間でもない。ただめんどくさいなぁ、とは思うけど。
「それだけですか? 次の仕事があるので戻っても?」
「……生意気な女が」
「人足りてないんですよ、知ってますよね?」
まさか知らないわけないでしょ。
男は少しだけ眉をぴくりと動かして、大きな大きな舌打ちをする。まさかそれで私が怯えるとでも思っているのだろうか。そうだとしたらなんて考えが浅い人なんだろう。こっちは長年呪術師やってるのに。
「お前みたいな弱い女が一人いなくなったところでなんとでもなる」
「そうですか」
もうわかったから早く解放してくれないかな。
▽
ポコポコとケトルの中身が沸騰している。カチ、と電源が切れたのを見届けて、お揃いのマグカップにお湯を注いだ。透明のお湯がゆっくりと茶色に染まったのを見て、片方にだけ粉ミルクをたっぷりと入れた。
その間も考えることはひとつだけ。
ソファでスマホを触りながらのんびりとしている悟の前にカップを置くと、ありがと〜とこれまたのんびりした返事が返ってきた。
「悟、ちょっと真面目な話でもしよっか」
いつもと違って少しだけ隙間を空けて隣に座ると、真剣さが伝わったのか悟も姿勢を正す。
こんな真面目に話をすることなんてないからちょっと緊張しちゃうな。
「……なぁに。まさか別れようとか言うつもりじゃないよね」
「それは違うから安心してよ」
「ならいいよ、なに? お前がそんな風に切り出してくるなんて珍しいじゃん」
うん。小さな声で呟いてココアを一口。ミルクは入れてないはずなのにとても甘い。ミルクたっぷりの悟のココアはどれだけ甘いのだろう。
「悟、……恋人やめよう」
意識したつもりはないけど、思ったより暗い声になって自分でもびっくりする。
ぴたり、と一瞬だけ動きを止めた悟はすぐに目つきを変えて、睨むようにこちらを見てくる。
「は? 待ってお前さっき別れ話じゃないって言ったよね?」
「お前は五条悟の恋人に相応しくないって言われたから」
「僕の話を聞いて? 誰に? 今すぐ教えろちなみに僕は別れるつもりないからね!」
「うん、別れるつもりはこれっぽっちもないんだけど」
「どういうこと」
「んー、ちょっと待ってて」
「は?」
両手で持っていたカップをテーブルの上に置く。そのまま立ち上がって、普段使いしている鞄の元へと歩いて中をごそごそと漁った。
後ろから「ちょっと何やってんの? 話はまだ終わってないけど」なんて悟が言っているけどもう少しだけ待ってほしい。どこだっけ。あ、あった。
たった一枚の紙きれを取り出して、悟に見えるように掲げた。
「籍入れて夫婦になれば恋人じゃなくなるでしょ?」
別れるつもりなんてこれっぽっちもない。なんと言われようがこの気持ちは変わらない。それならいっそ結婚してしまえば恋人≠ナはなくなるんだから、いいでしょ? 完全に揚げ足を取ってるだけだけど。
ぽかん、と口を開いた悟は慌てて立ち上がった。
「……僕印鑑取ってくるね!」
「はーい。あ、ボールペンもお願い」
勝手に決めて勝手にもらってきちゃったから、悟の返事にほっとしたのは内緒。指輪もムードもなにもないけれど、悟ずっといられるならなんだっていい。
「おっけー! あ、誰に言われたのかはちゃんと教えてもらうからね!」
……名前知らないんだけど大丈夫かなぁ。