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夕暮れどき。蝉の声が響く境内に、李灯は静かに手を合わせた。
持参した和菓子をお供え台にそっと並べる。
「……どうか、家族が元気で過ごせますように」
額を下げ、深く息を吐いたそのときだった。
ふわりと甘い香りに誘われるように、一匹の丸々とした猫がとことこ歩いてくる。
白い体にぽってりとした姿。瞳は鋭いのに、どこか愛嬌があった。
「わ……かわいい猫ちゃん」
李灯はしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。
「これはお供え物だから食べちゃダメだよ。……あ、こっちなら大丈夫かな」
懐から取り出した包み紙を開くと、中には手作りの最中の皮があった。
「まだ砂糖も入ってないから、どうぞ」
猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、ぱくりと口にする。
「……ふむ。なかなか悪くない」
低い声が響いて、李灯は目を丸くした。
「……しゃ、喋った……!?」
「ワタシをただの猫と侮るなよ」
どっしりと腰を下ろし、得意げに顎を上げる猫。
その仕草に、恐怖よりもなぜかおかしみが先に立って、李灯は小さく笑ってしまった。
「ふふ……やっぱりただの猫ちゃんじゃなかったんだね」
猫は目を細める。
「お主、なかなか肝が据わっているな。気に入ったぞ」
そのとき――。
「先生!」
境内の石段を駆け上がってきた少年がいた。
薄茶の髪に、どこか翳りを帯びた優しい瞳。息を切らしながら李灯と猫を見て立ち止まる。
「……その猫、君に迷惑かけてない?」
「迷惑なんて。むしろ、お菓子を食べてくれて仲良くなったの」
李灯は微笑んで答える。
少年は目を瞬き、それから少し困ったように笑った。
「……そっか。ありがとう。俺は夏目、夏目貴志」
「私は杜鵑 李灯。よろしくね、夏目くん」
その瞬間、風がざわりと境内を撫でた。
――気づけば、視界の端に黒い影が蠢いている。
「っ……!」
異形のものが李灯に向かって迫ってくる。
咄嗟に身を引こうとしたが、足がすくんだ。
「李灯さん、下がって!」
夏目が前に出る。だが妖の気配に圧され、彼の肩も強張っている。
「ぬぅん、仕方ない!」
ニャンコ先生が跳び上がり、丸い体とは思えぬ鋭さで妖を弾き飛ばした。
「ワタシの菓子を脅かす輩、容赦せん!」
影は悲鳴のような音を立て、煙のように消えていく。
呆然と立ち尽くす李灯の前で、夏目は深く息をついた。
「……ごめん、巻き込んでしまった」
「……ううん。助けてくれてありがとう」
李灯は胸に手を当て、小さく笑った。
「夏目くんと先生がいてくれて、心強かった」
その言葉に夏目は視線を伏せる。
胸の奥が、なぜか温かくなるのを感じながら。
――こうして二人と一匹の奇妙な縁が始まった。
それが、淡く切ない恋へと繋がっていくとは、まだ誰も知らなかった。