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夜の空は、昼間の暑さを忘れたみたいに冷えていた。
ぽつ、ぽつ、と。
最初は遠慮がちな雨だったのに、気づけばしっかりと降り出している。
「……降ってきちゃったな」
李灯は足を止めて、小さく空を見上げた。
折りたたみ傘はバッグの中にある。
でも、なぜかすぐには開かなかった。
──あの場所に、いる気がしたから。
少し早足で裏通りへ向かう。
いつもの角を曲がると、やっぱり。
「……珂波汰くん」
街灯の下、雨に打たれながら立っている姿。
髪も服も、すっかり濡れているのに、まるで気にしていないみたいに。
「……来たのかよ」
視線だけを寄越す。
その声は、いつも通りぶっきらぼうで。
でもどこか、ほんの少しだけ安堵しているようにも聞こえた。
「そんなに濡れて、大丈夫?」
「平気だって」
即答。
でも、唇の色が少し悪い。
「平気じゃないよ」
一歩、近づく。
その瞬間、珂波汰の肩がわずかに強張った。
──近づかれることに、慣れてない。
李灯はそこで立ち止まる。
それ以上は踏み込まない。
「……傘、あるけど」
そう言って、少しだけ持ち上げて見せる。
「一緒に、入る?」
沈黙。
雨音だけが、二人の間に落ちる。
「……いらねぇ」
少し間を置いてからの拒絶。
でも、それも予想していた。
「そっか」
あっさりと引く。
無理に押さない。
そのまま、李灯は彼の少し横に立って──
静かに、傘を差した。
「……は?」
「私は入るよ。濡れるの苦手だから」
さらっとした声。
でも傘の端は、少しだけ珂波汰の方へ傾いている。
「……入っていいよ。端っこだけでも」
「……」
視線が落ちる。
ほんの少しの距離。
触れない、けど届く距離。
「……なんでそんなことすんだよ」
「んー……風邪ひかれたら嫌だから」
軽い調子で言う。
けど、それは嘘じゃない。
珂波汰はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく舌打ちをして。
「……ちょっとだけだからな」
そう言って、ほんの一歩だけ近づいた。
傘の中に、彼が入る。
距離はまだある。
肩も触れない。
でも、確かに“同じ中”にいる。
それだけで、空気が変わる。
⸻
しばらく無言のまま、雨を見ていた。
「……仕事、終わりか」
ぽつりと、珂波汰が言う。
「うん。ちょっと疲れた日」
「顔に出てる」
「え、ほんと?」
少し驚いたように笑うと、彼はふっと目を逸らす。
「……無理すんなよ」
小さく、ぶっきらぼうに。
でも、確かに優しい声。
「珂波汰くんもね」
その言葉に、彼は少しだけ眉をひそめる。
「俺はいい」
「よくないよ」
即答。
そのまま、少しだけ視線を合わせる。
「濡れてるし、寒そうだし」
「……」
「無理してる顔、してる」
逃げようとした視線を、優しく捕まえるみたいに。
珂波汰は一瞬だけ固まって、すぐに顔を逸らした。
「……ほんと、そういうとこ」
「ん?」
「……めんどくせぇ」
そう言いながらも、ほんの少しだけ傘の中へ寄る。
さっきより、近い。
気づかないふりをするけど、ちゃんと分かってる。
⸻
「ね、あったかいの飲む?」
「は?」
「コンビニあるよ、あそこ」
少し先を指差す。
「コーヒーとか、スープとか」
「……別にいらねぇ」
また拒否。
でも今度は、ほんの少しだけ弱い。
「私が飲みたいだけ。付き合って」
そう言って、歩き出す。
傘を少しだけ傾けながら。
「……勝手だな」
文句を言いながらも、ついてくる足音。
それだけで、十分だった。
⸻
店を出る頃には、雨は少しだけ弱くなっていた。
「はい」
温かい缶を差し出す。
「……だからいらねぇって」
「でも持ってるでしょ、手」
強引に乗せる。
じんわりと伝わる熱。
珂波汰はそれを見つめて、少しだけ黙る。
「……あったけぇ」
ぽつりとこぼれた本音。
それに、李灯は小さく笑う。
「でしょ」
⸻
帰り道。
さっきよりも、自然に隣にいる。
距離はまだある。
でも、確実に近づいている。
「……なぁ」
「ん?」
「……明日も来るのか」
少しだけ、躊躇うような声。
「うん。来るよ」
迷いなく答える。
その瞬間、彼の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……そっか」
それだけ。
でもその一言が、すごく大事そうで。
⸻
雨は、まだやまない。
でももう、冷たくなかった。
隣にいる温もりが、ちゃんとあるから。