page.1

夜の空は、昼間の暑さを忘れたみたいに冷えていた。

ぽつ、ぽつ、と。

最初は遠慮がちな雨だったのに、気づけばしっかりと降り出している。

「……降ってきちゃったな」

李灯は足を止めて、小さく空を見上げた。

折りたたみ傘はバッグの中にある。
でも、なぜかすぐには開かなかった。

──あの場所に、いる気がしたから。

少し早足で裏通りへ向かう。

いつもの角を曲がると、やっぱり。

「……珂波汰くん」

街灯の下、雨に打たれながら立っている姿。

髪も服も、すっかり濡れているのに、まるで気にしていないみたいに。

「……来たのかよ」

視線だけを寄越す。

その声は、いつも通りぶっきらぼうで。

でもどこか、ほんの少しだけ安堵しているようにも聞こえた。

「そんなに濡れて、大丈夫?」

「平気だって」

即答。

でも、唇の色が少し悪い。

「平気じゃないよ」

一歩、近づく。

その瞬間、珂波汰の肩がわずかに強張った。

──近づかれることに、慣れてない。

李灯はそこで立ち止まる。

それ以上は踏み込まない。

「……傘、あるけど」

そう言って、少しだけ持ち上げて見せる。

「一緒に、入る?」

沈黙。

雨音だけが、二人の間に落ちる。

「……いらねぇ」

少し間を置いてからの拒絶。

でも、それも予想していた。

「そっか」

あっさりと引く。

無理に押さない。

そのまま、李灯は彼の少し横に立って──

静かに、傘を差した。

「……は?」

「私は入るよ。濡れるの苦手だから」

さらっとした声。

でも傘の端は、少しだけ珂波汰の方へ傾いている。

「……入っていいよ。端っこだけでも」

「……」

視線が落ちる。

ほんの少しの距離。

触れない、けど届く距離。

「……なんでそんなことすんだよ」

「んー……風邪ひかれたら嫌だから」

軽い調子で言う。

けど、それは嘘じゃない。

珂波汰はしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく舌打ちをして。

「……ちょっとだけだからな」

そう言って、ほんの一歩だけ近づいた。

傘の中に、彼が入る。

距離はまだある。

肩も触れない。

でも、確かに“同じ中”にいる。

それだけで、空気が変わる。



しばらく無言のまま、雨を見ていた。

「……仕事、終わりか」

ぽつりと、珂波汰が言う。

「うん。ちょっと疲れた日」

「顔に出てる」

「え、ほんと?」

少し驚いたように笑うと、彼はふっと目を逸らす。

「……無理すんなよ」

小さく、ぶっきらぼうに。

でも、確かに優しい声。

「珂波汰くんもね」

その言葉に、彼は少しだけ眉をひそめる。

「俺はいい」
「よくないよ」

即答。

そのまま、少しだけ視線を合わせる。

「濡れてるし、寒そうだし」

「……」

「無理してる顔、してる」

逃げようとした視線を、優しく捕まえるみたいに。

珂波汰は一瞬だけ固まって、すぐに顔を逸らした。

「……ほんと、そういうとこ」

「ん?」

「……めんどくせぇ」

そう言いながらも、ほんの少しだけ傘の中へ寄る。

さっきより、近い。

気づかないふりをするけど、ちゃんと分かってる。



「ね、あったかいの飲む?」

「は?」

「コンビニあるよ、あそこ」

少し先を指差す。

「コーヒーとか、スープとか」

「……別にいらねぇ」

また拒否。

でも今度は、ほんの少しだけ弱い。

「私が飲みたいだけ。付き合って」

そう言って、歩き出す。

傘を少しだけ傾けながら。

「……勝手だな」

文句を言いながらも、ついてくる足音。

それだけで、十分だった。



店を出る頃には、雨は少しだけ弱くなっていた。

「はい」

温かい缶を差し出す。

「……だからいらねぇって」
「でも持ってるでしょ、手」

強引に乗せる。

じんわりと伝わる熱。

珂波汰はそれを見つめて、少しだけ黙る。

「……あったけぇ」

ぽつりとこぼれた本音。

それに、李灯は小さく笑う。

「でしょ」



帰り道。

さっきよりも、自然に隣にいる。

距離はまだある。

でも、確実に近づいている。

「……なぁ」

「ん?」

「……明日も来るのか」

少しだけ、躊躇うような声。

「うん。来るよ」

迷いなく答える。

その瞬間、彼の表情がほんの少しだけ緩んだ。

「……そっか」

それだけ。

でもその一言が、すごく大事そうで。



雨は、まだやまない。

でももう、冷たくなかった。

隣にいる温もりが、ちゃんとあるから。

index ORlist
ALICE+