その日、李灯は店じまいを終えて、商店街の外れを歩いていた。
 暮れかけた空は茜色に染まり、蝉の声も途切れがちになっている。
 ふとした瞬間、背筋に冷たい気配が走った。

「……?」

 振り返ると、建物の影にぼんやりと黒いもやが蠢いている。
 人の形にも見えるそれは、ゆらりと揺れながらこちらに近づいてきた。

 李灯は思わず足を止める。
 声を出そうとしたとき――。

「――李灯さん!」
 背後から駆け寄ってくる声に振り向くと、夏目が息を切らして立っていた。
「下がって!」

 その言葉と同時に、もやは牙を剥くように形を変え、李灯へ迫る。

 咄嗟に夏目が前に出るが、影の勢いに押され、よろめいた。
「夏目くん!」

「むぅっ……やれやれ、また厄介なのに好かれたな」
 丸い影が飛び出し、どさりと地面に着地する。
 ニャンコ先生だ。
「ワタシの菓子友を脅かすなど、いい度胸だ!」

 ぐわっと体が膨れ上がり、巨大な妖の姿へと変わる。
 李灯は呆然と見上げた。
 ――昨日、ただの猫だと思っていた存在が、こんな力を秘めていたなんて。

 先生の一喝に影は怯え、煙のように掻き消えた。

 静けさが戻る。李灯は胸に手を当て、深く息をついた。
「……今のは、いったい」

「……見えてしまったんだね」
 夏目は少し困ったように微笑み、言葉を探すように続けた。
「俺には……人には見えないものが見えてしまう。それで巻き込まれることも多いんだ」

 李灯は静かに彼を見つめた。
 恐怖よりも、不思議と心の奥に「納得」があった。
「……やっぱり。夏目くんは、優しいのにどこか遠いって思ってた」

 夏目は驚いたように目を瞬く。
「……怖くないの?」

「怖いけど……夏目くんが一人で抱えてるのは、もっと怖いことだと思う。だから、少しでも力になれたらって」

 その言葉に、夏目の胸がぎゅっと熱くなった。
 今まで「見えること」を知られるのが怖くて、人との距離を置いてきた。
 なのに、この人は……。

「……ありがとう」
 夏目は照れ隠しのように目を伏せた。
 傍らではニャンコ先生が欠伸をし、尾をゆらゆら揺らしている。
「ふむ。リビ、お主は案外、夏目にとって悪くない相棒になるやもしれんな」

 李灯は思わず笑い、夏目もつられて口元を緩めた。
 ――小さな秘密を共有したその瞬間、二人の距離はまたひとつ近づいていた。

 数日後の午後。夏目はニャンコ先生に引っ張られるようにして、また「ほととぎす堂」を訪れていた。
 暖簾をくぐると、李灯が店先で白衣姿のまま作業していた。

「……夏目くん」
 気づいた李灯が顔を上げ、ぱっと花が咲くように微笑む。
「また来てくれたんだね」

「えっと……先生がどうしてもって」
 横でニャンコ先生が胸を張る。
「ワタシは客だ! 今日も菓子をよこせ!」

「ふふ……はいはい。今日は試作品があるの。よかったら味見してみる?」

 李灯は盆にのせた数個の最中を差し出した。皮の焼き色が香ばしく、まだ餡は詰められていない。
「皮がちゃんと焼けてるか確かめたいんだ。夏目くん、どうかな」

 夏目はひとつ手に取り、口に運んだ。
 さくり、と軽やかな音が響く。
「……香ばしい。すごくいいと思う」

 その言葉に、李灯の瞳がぱっと明るくなる。
「ほんと? 嬉しい……。家族以外に食べてもらうの、なんだか緊張しちゃうの」

「リビ! ワタシにも寄越せ!」
「はいはい、先生には特別に二つね」
「よし、合格だ!」
 もぐもぐと頬張る先生の様子に、二人は思わず吹き出す。

 笑いが落ち着くと、李灯は少し照れたように夏目を見つめた。
「夏目くん、また……来てくれる?」

 夏目は一瞬、返事に迷った。
 これ以上距離を近づけてはいけないんじゃないか――そんな思いが胸をかすめる。
 けれど、李灯の真っ直ぐな瞳に見つめられると、自然に言葉が零れた。

「……うん。来たい」

 その一言に、李灯はふわりと柔らかく微笑んだ。
 夕暮れの光が差し込む店内。ほんのり甘い香りの中で、二人の距離は確かに縮まっていく。

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