無題

夜の街は、ネオンが滲んで見えるくらいには疲れていた。

仕事帰りの人混みを抜けて、李灯はいつものように少しだけ遠回りをする。
静かな裏通り。人が少なくて、少しだけ呼吸がしやすい場所。

「……今日も、遅くなっちゃったな」

ぽつりとこぼした声に、返事はないはずだった。

──そのはず、だったのに。

「そんな時間に一人で歩いてるとか、危ねぇよ」

低くて、どこか荒っぽい声。

驚いて振り返ると、そこには壁にもたれかかるように立つ青年がいた。

少し乱れた髪、鋭い目つき。
でも、その奥にあるのは敵意じゃなくて、どこか…寂しさみたいなもの。

「……ごめんね、でもここ、静かで好きなんだ」

李灯は少しだけ困ったように笑う。

その反応が予想外だったのか、彼は一瞬だけ目を細めた。

「普通、怖がるとこだろ」
「そうかな。……優しそうに見えたから」

「は?」

素っ頓狂な声が返ってくる。

それが少し可笑しくて、李灯は小さく笑った。



それが、矢戸乃上珂波汰との出会いだった。



次の日も、その次の日も。

なぜか同じ時間、同じ場所に行くと、彼はいた。

「また来たのかよ」
「うん、珂波汰くんも」

名前を呼ぶと、彼はわずかに顔を逸らす。

「……呼び慣れてんな」
「だって、名前教えてくれたでしょ」

それ以上は何も言わないけど、少しだけ機嫌が良さそうになるのが分かる。

李灯は気づいていた。

彼がこの街の人間じゃないこと。
どこか、もっと荒れた場所から来た人だということ。

それでも。

「ね、これ」
「……なんだよ」

差し出したのは、小さな紙袋。

「余っちゃったの。クッキー」
「……毒でも入ってんのか」

「入ってないよ」

くすっと笑うと、珂波汰はしばらく無言でそれを見つめていた。

やがて、乱暴に受け取る。

「……サンキュ」

小さく、ほんの小さく。

それでも確かに、優しい声だった。



一緒に過ごす時間は増えていった。

仕事の話をする李灯に、珂波汰は適当に相槌を打ちながら聞いている。

「OLって大変だな」
「うん、でも楽しいよ。珂波汰くんは?」

その問いに、彼は少しだけ黙る。

「……俺の話はいい」

その言い方で、全部分かってしまう。

きっと簡単には話せない過去。
軽く触れていいものじゃないってこと。

だから李灯は、それ以上聞かなかった。

「そっか。でも、こうして会えるのは嬉しいよ」

真っ直ぐにそう言われて、珂波汰は言葉を失う。

「……そういうこと、簡単に言うなよ」
「だめだった?」

「……いや」

視線を逸らしたまま、ぼそっと呟く。

「……嬉しいに決まってんだろ」



触れられない距離。

でも、離れられない距離。



ある日、雨が降っていた。

いつもの場所に行くと、珂波汰は濡れたまま立っていた。

「珂波汰くん、風邪ひくよ」
「別に平気だし」

強がりなのは、すぐ分かる。

李灯は少し迷ってから、自分の傘を差し出した。

「一緒に入ろ」
「……は?」

「そのままだと、本当に倒れちゃうよ」

少しだけ近づくと、彼は固まる。

こんな距離、きっと慣れてない。

「……いいのかよ」
「うん」

ゆっくりと、隣に並ぶ。

肩が触れそうで触れない距離。

雨音が、妙に大きく響く。

「……なんで、そんな優しいんだよ」
「普通だよ」

「普通じゃねぇよ」

ぽつりとこぼす声は、どこか苦しそうで。

「……俺みたいなのに」

その言葉に、李灯は少しだけ立ち止まる。

「“みたいなの”って、なに?」

真っ直ぐな視線。

逃げ場をなくすくらいの優しさ。

「珂波汰くんは、珂波汰くんでしょ」

その一言で、胸の奥が締め付けられる。

「……ほんと、ずるいな」

彼は小さく笑った。

「そんなこと言われたら、離れらんなくなる」



両片想い。

言えば壊れてしまいそうで、言えない。

でも、確かにここにある想い。



雨の中、二人は少しだけ肩を寄せた。

言葉はなくてもいい。

この時間が、続けばいい。

そう願ってしまうくらいには――

お互いを、大切に思っていた。

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