無題
夜の空気は、少しだけやわらかかった。
街灯の下で立ち止まると、足音も自然と止まる。
「……あの、珂波汰、くん!」
呼び止める声は、思ったより少し大きくなってしまった。
珂波汰は一歩先で足を止めて、ゆっくり振り返る。
「……なんだよ」
いつも通り、ぶっきらぼうな声。
でも、その視線はちゃんとこっちを見てくれる。
「……えっと、」
言葉が続かない。
さっきまで頭の中で何度も練習してたのに、全部飛んでいく。
「……なんだよ」
少しだけ眉を寄せる彼に、胸がきゅっとなる。
それでも、逃げたくなくて。
「今度、お出かけ…しませんか?」
言い切った瞬間、自分でも驚くくらい心臓が跳ねた。
「……は?」
低い声。
予想通りの反応。
でも、それでも続ける。
「……えっと、ショッピング、とか、ご飯とか、」
視線を合わせられなくて、少しだけ下を向く。
そのまま、そっと言葉を重ねる。
「……珂波汰くんと、もっと…仲良くなりたいの」
沈黙。
ほんの数秒なのに、すごく長く感じる。
顔を上げるのが怖くて、そのままぎゅっと手を握る。
「……は、…はぁ?!」
やっと返ってきた声は、思ったよりずっと大きくて。
びくっと肩が揺れる。
でもそれ以上に、その戸惑いが伝わってきた。
⸻
恐る恐る顔を上げると、珂波汰は珍しく言葉に詰まっていた。
「……い、嫌なら、その、無理にとは……」
小さく引こうとすると、
「……いや」
すぐに、止められる。
「……別に嫌とかじゃ……ねぇ、けど、……」
言葉が続かない。
視線も落ち着かない。
こんな彼、初めて見る。
「……!」
その一言で、胸が少しだけ軽くなる。
「じゃぁ、今度の土曜日、どうかな?」
少しだけ顔を上げて、勇気を出して続ける。
「美味しいカフェ屋さんもあるの」
ほんの少しだけ、笑ってみせると。
「……お、おう」
ぎこちない返事。
でも、ちゃんと頷いてくれた。
⸻
その帰り道。
並んで歩いているのに、いつもより少し静かだった。
「……なぁ」
「ん?」
「……なんで、俺なんだよ」
ぽつりと落ちる言葉。
責めるわけでもなく、ただ純粋に分からない、という声。
李灯は少しだけ考えてから、ゆっくり答える。
「……なんでだろう」
正直に、そう言う。
「でもね」
少しだけ彼の方を見る。
「一緒にいると、落ち着くの」
飾らない言葉。
「無理しなくていい感じがして」
それだけ伝えると、また前を向く。
⸻
「……変なの」
小さく、珂波汰が呟く。
でもその声は、どこかやわらかい。
「……普通、逆だろ」
「そうかな」
「……俺といて落ち着くとか、意味わかんねぇ」
そう言いながらも、少しだけ歩幅を合わせてくる。
⸻
しばらく歩いたあと。
「……土曜」
「うん?」
「……どこ行くんだよ」
さっきより少しだけ自然な声。
「えっとね、駅の近くにあるカフェでね──」
楽しそうに話し始める李灯を、珂波汰は黙って聞いている。
時々、ちらっと視線を向けながら。
⸻
「……ほんとに、行くんだな」
ぽつりと呟く。
その声には、少しだけ不思議そうな色が混じっていた。
「うん。一緒に行こうね」
当たり前みたいに返されて、少しだけ言葉に詰まる。
⸻
初めての約束。
初めての“外で会う”時間。
それがどういう意味なのか、まだよく分からない。
でも。
「……」
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
さっきからずっと、同じことを考えてる。
──なんで、あいつと行くのが嫌じゃねぇんだろうな。
むしろ。
ほんの少しだけ、楽しみだと思ってしまっている自分に。
珂波汰は、まだ気づかないふりをした。
⸻
一方で。
(……約束、できちゃった)
李灯は、そっと胸元で手を握る。
(嬉しいな)
顔に出ないように、少しだけ気をつけながら。
でも、歩く足取りは少しだけ軽くなっていた。
⸻
ゆっくりでいい。
少しずつでいい。
それでも確かに、二人の距離は進んでいく。