無題
土曜日の朝。
駅前は人が多くて、少しだけ落ち着かない。
(……早く来すぎちゃったかな)
待ち合わせの時間より、少し前。
李灯は改札の近くで、そっと立っていた。
何度も時計を見てしまうのは、たぶん緊張してるから。
服も、いつもより少しだけ迷った。
派手すぎないように、でもちゃんと“お出かけ”に見えるように。
(……変じゃないといいな)
小さく息を吐いた、その時。
「……早ぇよ」
後ろから、低い声。
びくっとして振り返ると、そこに珂波汰がいた。
「……珂波汰くん」
思わず、ほっとした声が漏れる。
彼はいつも通りの格好で、少しだけ気だるそうに立っていた。
でも。
「……お前もな」
ぼそっと言うその視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
李灯の服に。
すぐ逸らすけど、ほんの少しだけ間があった。
「……待ったか」
「ううん、私も今来たとこ」
やわらかく笑うと、珂波汰は小さく頷く。
「……ならいい」
それだけ。
でも、少しだけ空気が落ち着く。
⸻
沈黙。
人のざわめきだけが周りにあるのに、二人の間だけ少し静か。
「……」
「……」
同時に何か言いかけて、止まる。
「……行くか」
「う、うん」
結局、彼が先に歩き出す。
その少し後ろを、李灯がついていく。
⸻
歩幅が合わない。
少し速くて、少し遠い。
でも。
数歩進んだところで、ふっと彼の足がゆるむ。
ほんの少しだけ。
気づかないくらいに。
「……こっちでいいんだよな」
振り返らずに聞く。
「うん、あっちの通り」
指差しながら少し近づくと、自然と並ぶ形になる。
さっきより、少しだけ距離が近い。
⸻
「……人多いな」
「土曜日だもんね」
何でもない会話。
でも、どこかぎこちない。
それでも、嫌な沈黙じゃない。
⸻
信号で立ち止まる。
赤い光の下で、二人並んで立つ。
ふと、李灯が小さく言う。
「……来てくれて、ありがとう」
少しだけ視線を落としながら。
素直な気持ち。
「……別に」
すぐに返る言葉。
でも、少しだけ間があってから続く。
「……約束したし」
それだけ。
でも、その言い方が少しだけやわらかい。
⸻
青に変わる。
人の流れと一緒に、また歩き出す。
今度は、さっきより自然に隣にいる。
⸻
「……緊張してんのか」
ぽつりと、珂波汰が言う。
「え?」
「……さっきから、落ち着きねぇ」
見抜かれて、少しだけ驚く。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、
「……ふーん」
それだけ言って、少しだけ視線を逸らす。
「……俺も」
ぼそっと。
聞こえるか聞こえないかくらいの声。
「え?」
思わず聞き返すと、
「……なんでもねぇ」
すぐに誤魔化される。
でも。
さっきよりほんの少しだけ、空気がやわらいだ気がした。
⸻
店の近くまで来ると、人通りが少し落ち着く。
「……ここ、だよね」
「うん、あそこ」
小さなカフェを指差す。
「……へぇ」
興味なさそうに見えるけど、ちゃんと見る。
その反応が、少しだけ嬉しい。
⸻
店の前で、足を止める。
「……入るか」
「うん」
短い会話。
でも。
ドアを開けるタイミングが少しだけ重なって、ふっと目が合う。
すぐに逸らす。
でも、その一瞬だけで、胸が少し温かくなる。
⸻
まだぎこちない。
まだ距離もある。
でも。
こうして並んで同じ場所に来てること自体が、少し特別で。
⸻
(……ちゃんと、来てくれた)
李灯は、そっと思う。
⸻
(……なんでこんな、落ち着かねぇんだ)
珂波汰は、少しだけ眉をひそめる。
でも。
嫌じゃない。
それだけは、はっきりしていた。
⸻
ゆっくりでいい。
このぎこちなさごと、大事にしていくみたいに。
カフェのドアを開けると、やわらかい香りがふわっと広がった。
外のざわめきが嘘みたいに、静かな空間。
「……落ち着くね」
李灯が小さく言うと、
「……ああ」
珂波汰も短く返す。
店員に案内されて、窓際の席に座る。
向かい合う形。
少しだけ、距離が近い。
⸻
メニューを開く。
でも、なかなか目に入ってこない。
(……近いな)
さっきまで隣だったのに、向かい合うと急に意識してしまう。
視線を上げると、ちょうど珂波汰と目が合った。
「……何見てんだよ」
「え、あ……ごめん」
慌てて視線を落とす。
「……別に」
ぶっきらぼうに言いながら、彼も少しだけ落ち着かない様子でメニューに目を戻す。
⸻
「……どれがいいんだよ」
「えっとね、このケーキ美味しいって聞いたことあるよ」
指差すと、珂波汰はちらっと覗き込む。
少しだけ、距離が縮まる。
「……甘いの、好きなのか」
「うん、たまに食べたくなるの」
「……ふーん」
興味なさそうに言うけど、そのまま同じページを見ている。
⸻
注文を済ませて、少しだけ沈黙。
でも、不思議と居心地は悪くない。
カップの音や、小さな話し声が、やわらかく流れていく。
⸻
「……こういうとこ、よく来んのか」
「ううん、そんなに来ないよ」
少し考えてから答える。
「でも、誰かと来るのは……久しぶりかも」
その言葉に、珂波汰は一瞬だけ動きを止めた。
「……そうか」
それ以上は聞かない。
でも、その一言は少しだけやわらかかった。
⸻
飲み物が運ばれてくる。
「……熱いから気をつけろ」
何気ない一言。
でも、ちゃんと見てくれてるのが分かる。
「うん、ありがとう」
そう返すと、彼は少しだけ視線を逸らした。
⸻
ケーキも運ばれてきて、フォークを手に取る。
「……甘そうだな」
「ちょっとだけ、食べる?」
自然に出た言葉。
でも言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなる。
「……は?」
珂波汰が止まる。
「……いや、その、無理にじゃなくて……」
慌てて引こうとすると、
「……いい」
短く返る。
「……ちょっとだけな」
⸻
フォークで小さく切って、そっと差し出す。
手が少しだけ震える。
「……」
珂波汰は一瞬だけ迷って、それからゆっくり口にする。
その距離が、ほんの少しだけ近い。
「……甘ぇ」
ぽつりと呟く。
でも、嫌そうじゃない。
「でしょ」
小さく笑うと、彼は少しだけ目を逸らす。
⸻
その時だった。
李灯がカップに手を伸ばした瞬間、
「あ……」
少しだけバランスを崩して、カップが傾く。
「っ、」
中の飲み物がこぼれそうになる。
その瞬間、
「危ねぇ」
珂波汰の手が、すっと伸びた。
カップを支える。
そして、そのまま──
李灯の手首を、軽く掴んで止めた。
⸻
「……っ」
一瞬、時間が止まる。
触れられている。
初めて、ちゃんと。
彼の手が、少しだけ温かい。
「……大丈夫か」
低い声。
でも、すぐ近くで聞こえる。
「……う、うん」
小さく頷く。
でも、うまく動けない。
⸻
数秒。
ほんの短い時間。
でも、すごく長く感じて。
やがて珂波汰は、はっとしたように手を離した。
「……悪ぃ」
ぶっきらぼうに言う。
でも、少しだけ視線が落ちている。
「……ううん、助けてくれて、ありがとう」
李灯はそっと言う。
さっき触れられていた場所が、まだ少しだけ熱い。
⸻
それから少しだけ、静かな時間が流れる。
さっきまでと同じはずなのに、少しだけ違う空気。
「……お前さ」
ぽつりと、珂波汰が言う。
「ん?」
「……危なっかしいな」
少しだけ眉をひそめる。
でもその声は、どこかやさしい。
「ごめんね」
「……謝るな」
すぐに返ってくる。
「……気をつけろ」
それだけ。
でも、それがすごく大事な言葉みたいに聞こえた。
⸻
カフェの中での時間は、静かに過ぎていく。
まだぎこちないまま。
でも。
少しだけ触れた距離と、やさしさの温度が。
二人の中に、ちゃんと残っていた。
⸻
(……触れた)
珂波汰は、さっきの感触を思い出す。
細くて、やわらかい手首。
守らなきゃいけないみたいな、そんな感覚。
「……」
言葉にできないまま、ただ視線を落とす。
⸻
(……やさしい人だな)
李灯は、そっと思う。
不器用だけど、ちゃんと見てくれてる。
それが、嬉しくて。
⸻
まだ、はっきりとは分からない。
でも。
確かに、少しずつ。
⸻
二人の距離は、近づいている。