無題
カフェを出ると、外は少しだけ賑やかだった。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、人の流れがある。
「……人、多いな」
珂波汰が眉をひそめる。
「うん、土曜日だもんね」
李灯は少しだけ周りを見渡す。
さっきより距離が近づいたはずなのに、この人混みの中だと、また少し遠く感じる。
⸻
歩き出す。
人の流れに合わせて、自然とスピードが変わる。
「……っ」
肩が誰かにぶつかりそうになって、少しよろける。
その瞬間、
「気をつけろ」
低い声と一緒に、ぐっと腕を引かれる。
珂波汰の手。
一瞬だけ掴まれて、体が支えられる。
「……あ、ありがとう」
体勢を戻しながら、小さく言う。
「……離れんな」
短く言われて、少しだけ心臓が跳ねる。
⸻
でも、すぐにまた人の流れに押されて、距離が空きそうになる。
その時。
「……っ」
今度は、手首じゃなくて。
指先に、触れる感覚。
そしてそのまま──
ぎこちなく、手を取られる。
⸻
「……」
一瞬、何が起きたか分からなくて固まる。
でも、確かに繋がっている。
珂波汰の手が、李灯の手を握っている。
しっかり、でも強すぎない力で。
「……迷うだろ」
前を向いたまま、ぶっきらぼうに言う。
「……人多いし」
理由をつけるみたいに。
⸻
「……うん」
小さく頷く。
それ以上、何も言えない。
手のひらが、じんわりと熱い。
⸻
歩きながら、少しだけ視線を向けると。
珂波汰の耳が、ほんの少し赤くなっていた。
「……」
気づかないふりをしてる。
でも、明らかに意識してる。
⸻
「……嫌なら、離す」
少しして、ぽつりと落ちる声。
さっきより、ほんの少しだけ弱い。
「……嫌じゃないよ」
すぐに返す。
やわらかく。
その言葉に、彼の指先がほんの少しだけ強くなる。
⸻
それからは、何も言わないまま歩く。
でも、不思議と気まずくはない。
むしろ。
さっきよりもずっと、安心する。
⸻
人混みを抜ける頃には、自然と足もゆっくりになる。
それでも、手は離れないまま。
「……」
「……」
言葉はない。
でも、どこかで分かってる。
今、離したら少しだけ寂しいってこと。
⸻
やがて、人通りが少なくなる。
静かな通りに出る。
それでも。
「……」
珂波汰は、手を離さなかった。
理由がなくなっても。
⸻
少し歩いてから、やっとぽつりと呟く。
「……あー……」
言葉に詰まる。
珍しく、どうしていいか分からない顔。
「……その」
でも、結局ちゃんとした理由は出てこなくて。
「……いいか、このままで」
小さく、そう言った。
⸻
李灯は少しだけ驚いて、それからふわっと笑う。
「うん」
それだけで十分だった。
⸻
繋いだ手の温もりが、ちゃんと残る。
言葉にしなくてもいいくらいの、やさしい距離。
⸻
(……なんで離さねぇんだよ、俺)
珂波汰は内心でそう思う。
でも。
離したくない理由を、まだうまく言葉にできない。
⸻
(……あったかいな)
李灯はそっと思う。
彼の不器用なやさしさが、そのまま伝わってくるみたいで。
⸻
夕方の光が、二人をやわらかく包む。
まだ恋とは言い切れない。
でも。
確かにその手は、離れなかった。
夕暮れの街は、昼間より少しだけ静かだった。
オレンジ色の光が建物の隙間に落ちて、道を長く染めている。
気づけば、かなり歩いていた。
カフェを出てからも、特に目的があるわけじゃなくて。
でも、なんとなく並んで歩いていたくて。
「……」
「……」
言葉は多くない。
それでも、不思議と沈黙が苦しくなかった。
⸻
繋いだ手は、途中で自然と離れていた。
人混みを抜けた時。
どちらからともなく、そっと。
でも。
離れたあとも、手の熱だけは残っている。
⸻
「……そろそろ」
珂波汰が、ぽつりと口を開く。
その声だけで、何を言おうとしてるのか分かってしまう。
「……帰るか」
小さく落ちる言葉。
李灯の胸が、少しだけきゅっとなる。
(……もう?)
そう思ってしまった自分に、少し驚く。
⸻
本当は、十分楽しかった。
一緒にいられただけで嬉しかった。
でも。
(……まだ、帰りたくないな)
そんな気持ちが、胸の奥に残っている。
⸻
珂波汰が一歩、前へ出る。
その背中を見て。
李灯は、ぎゅっと指先を握った。
(……言えるかな)
怖い。
迷惑だったらどうしよう、とか。
困らせたらどうしよう、とか。
色んな気持ちが浮かぶ。
それでも。
「……珂波汰くん」
小さく呼ぶ。
彼が振り返る。
「……んだよ」
その瞬間。
李灯は、そっと手を伸ばした。
⸻
きゅ、と。
彼の袖を、軽く掴む。
⸻
「……っ」
珂波汰の肩が、小さく揺れる。
目が少しだけ見開かれて。
その反応に、李灯まで緊張してしまう。
「……あ、の」
掴んだまま、視線を落とす。
「……もう少しだけ」
声が小さくなる。
でも、ちゃんと伝えたくて。
「……一緒に、いたいなって」
夕暮れの中。
その言葉だけが、やけに静かに響いた。
⸻
「……」
珂波汰は、何も言わなかった。
ただ、袖を掴まれているところをじっと見ている。
細い指先。
遠慮がちに掴む力。
離れたくない、と言われたこと。
全部が、胸の奥に落ちてくる。
⸻
どく、と。
心臓が大きく鳴る。
(……なんだこれ)
落ち着かない。
さっき手を繋いだ時より、ずっと。
⸻
「……お前」
やっと出た声は、少しかすれていた。
「……そういうの」
言葉が続かない。
李灯は不安そうに、そっと顔を上げる。
「……や、だった?」
その表情を見た瞬間。
珂波汰はぐっと眉を寄せた。
「……違ぇよ」
少し強めに返す。
「……そうじゃねぇ」
そのまま視線を逸らして、ぼそっと続ける。
「……慣れてねぇんだよ」
「……?」
「……引き止められるのとか」
小さな声。
ぶっきらぼうなのに、どこか戸惑っている。
⸻
李灯は少しだけ目を丸くして、それからふわっと笑った。
「……そっか」
優しく返されて、珂波汰はまた落ち着かなくなる。
⸻
「……じゃあ」
少しだけ間を置いて。
「……もう少しだけな」
そう言った。
⸻
李灯の表情が、ぱっと明るくなる。
「……うん」
嬉しそうに頷くその顔に、珂波汰は一瞬だけ視線を止める。
それから、ふっと息を吐いた。
「……そんな嬉しそうな顔すんな」
「え?」
「……調子狂う」
耳が少し赤いまま、そっぽを向く。
⸻
でも。
歩き出す時。
今度は珂波汰の方から、少しだけ距離を近づけた。
袖を掴んでいた李灯の手が離れないように。
ゆっくり歩幅を合わせながら。
⸻
夕暮れは、少しずつ夜に変わっていく。
帰る時間は近づいてる。
それでも。
“もう少し一緒にいたい”
そう思っているのが、自分だけじゃない気がして。
李灯はそっと、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
夜の街は、昼間よりずっと静かだった。
人通りも少し減って、風の音が聞こえるくらい。
「……どこ行く?」
李灯が小さく聞くと、珂波汰は少しだけ考えるように視線を上げた。
「……別に」
いつもの返事。
でも、そのあと少し間を置いて。
「……歩くだけでいい」
ぽつりと付け足す。
その言葉が、なんだか嬉しくて。
「うん、私も」
李灯はやわらかく笑った。
⸻
並んで歩く。
さっきより距離が近い。
でも、まだ触れ合うほどじゃない。
その微妙な距離が、どこかくすぐったかった。
⸻
夜風が吹く。
少しだけ冷たくて、李灯が肩をすくめる。
その動きを見ていた珂波汰が、ふっと眉を寄せた。
「……寒ぃのか」
「ちょっとだけ」
「……なら言えよ」
ぶっきらぼうに言いながら、自分のパーカーを脱ぐ。
「えっ」
「着とけ」
当然みたいに差し出されて、李灯は目を丸くした。
「でも、珂波汰くん寒いでしょ」
「俺は平気」
即答。
でも、その言い方が少しだけ照れ隠しっぽい。
⸻
「……ありがとう」
そっと受け取る。
まだ彼の体温が残っていて、少しだけ胸が熱くなる。
「……」
珂波汰はその様子をちらっと見て、すぐ視線を逸らした。
⸻
しばらく歩いていると、小さな公園が見えてくる。
街灯がぽつぽつ灯っていて、ベンチが静かに並んでいた。
「……座るか」
「うん」
二人で並んで腰を下ろす。
少しだけ間を空けて。
でも、その距離も前より近い。
⸻
夜空を見上げる。
星はあまり見えないけど、街の光がやわらかい。
「……今日」
ぽつりと、珂波汰が言う。
「ん?」
「……楽しかった」
短い言葉。
でも、それを言うまでに少し迷ったのが分かる。
李灯はゆっくり目を瞬かせて、それから小さく笑った。
「……私も」
静かな返事。
それだけなのに、空気が少しだけやわらかくなる。
⸻
「……意外だった」
李灯がそっと言う。
「なにが」
「珂波汰くん、ちゃんと付き合ってくれるんだなって」
そう言うと、彼は少しだけ眉をひそめた。
「……なんだそれ」
「だって、断られるかもって思ってたから」
正直に言うと、珂波汰は少し黙る。
それから、ぼそっと。
「……断る理由、なかったし」
「……うん」
「……お前といるの、別に嫌じゃねぇ」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、それが彼なりの精一杯なのが分かる。
⸻
沈黙。
でも、気まずくない。
むしろ、静かな夜の中で、その時間が心地いい。
⸻
ふと。
李灯の肩に、何か柔らかい感触が触れた。
「……?」
見ると、珂波汰の肩が少しだけ触れている。
たぶん、わざとじゃない。
でも、離れない。
彼も気づいてるはずなのに。
⸻
「……珂波汰くん」
小さく名前を呼ぶ。
「……なんだよ」
「……近い」
そう言うと、珂波汰がぴたりと固まった。
「……っ」
一気に耳が赤くなる。
「……お、お前が寄ったんだろ」
「ふふ、そうだったかな」
少しだけ笑うと、彼は居心地悪そうに顔を逸らす。
でも。
離れない。
⸻
「……笑うなよ」
「ごめんね」
「……別に怒ってねぇし」
小さく拗ねたみたいな声。
その不器用さが、可愛くて。
李灯はそっと視線を落とす。
⸻
風が吹く。
夜の空気が、二人の間を静かに通り過ぎる。
「……なぁ」
「ん?」
「……また、こういうの」
少しだけ言葉を探してから。
「……来るか」
その声は、前よりずっと自然だった。
⸻
李灯は少しだけ目を見開いて。
それから、やわらかく頷く。
「……うん、行きたい」
その返事を聞いた珂波汰は、ほんの少しだけ安心したみたいに息を吐いた。
⸻
夜は、まだ終わらない。
でも。
この時間が、ずっと続けばいいって。
二人とも、少しずつ思い始めていた。
公園を出る頃には、空はすっかり夜になっていた。
街灯の光が、静かな道をぽつぽつ照らしている。
「……送る」
歩き出して少しした頃、珂波汰がぽつりと言った。
「え?」
「……こんな時間だし」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、その声はどこか自然だった。
「……ありがとう」
李灯は小さく笑って頷く。
⸻
帰り道は、行きよりずっとゆっくりだった。
どちらからともなく歩幅を合わせていて。
離れる時間が近づいているのを、お互い少しだけ分かっているみたいに。
⸻
「……疲れてねぇか」
「ううん、大丈夫」
「……ならいい」
短いやり取り。
でも、その一つ一つがやさしい。
⸻
ふと、前から騒がしい声が聞こえてくる。
数人の若者たちが笑いながら通り過ぎていく。
その瞬間。
「……こっち」
珂波汰の手が、そっと李灯の腕を引いた。
車道側から遠ざけるみたいに、自分の方へ寄せる。
「……っ」
近い。
肩が触れそうな距離。
「……危ねぇだろ」
低い声。
でも、守るみたいな動きが自然すぎて。
李灯は少しだけ胸が熱くなる。
「……ありがとう」
そう言うと、珂波汰は少しだけ視線を逸らした。
「……別に」
でも、離れるまでは少し時間があった。
⸻
しばらく歩いたあと。
「……なぁ」
「ん?」
「……お前って、一人暮らし?」
突然の質問。
「ううん、弟と住んでるの」
「弟?」
「うん。高校生なんだ」
その瞬間、珂波汰が少しだけ反応する。
「……へぇ」
興味なさそうな返事なのに、ちゃんと続きを待ってる。
⸻
「すごく優しい子でね」
李灯は少し嬉しそうに笑う。
「でも、ちょっと心配性なの。帰り遅いと連絡来たり」
「……シスコンかよ」
ぼそっと言われて、思わずくすっと笑ってしまう。
「ふふ、そうかも」
「……仲いいんだな」
「うん、大事な家族だから」
その言葉を聞いた珂波汰は、少しだけ黙った。
⸻
「……お前」
ぽつりと声が落ちる。
「ん?」
「……ちゃんと、愛されて育った感じする」
夜風に紛れそうなくらい小さな声。
でも、その言葉には少しだけ羨ましそうな響きがあった。
⸻
李灯は少しだけ目を瞬かせる。
それから、やわらかく首を傾げた。
「……珂波汰くんは?」
その問いに、彼の足がほんの少しだけ止まる。
「……俺も、弟いる」
「……!」
初めて聞く話。
李灯は驚いたように彼を見る。
⸻
「……那由汰」
ぽつりと名前を口にする。
その声が、少しだけやわらかい。
「双子なんだ」
「そうなんだ……!」
「……あいつ、うるせぇけど」
そう言いながら、ほんの少し口元が緩む。
「……まぁ、悪くねぇ」
その表情を見て、李灯は静かに笑った。
「仲良しなんだね」
「……普通」
すぐに誤魔化す。
でも、さっきの顔を見れば分かる。
きっと大切なんだ。
⸻
「……なんか、安心した」
李灯がぽつりと言う。
「は?」
「珂波汰くん、弟さんの話する時、すごく優しい顔するから」
その瞬間。
「……っ」
珂波汰が露骨に視線を逸らした。
耳が、また少し赤い。
「……見んな」
「ふふ、ごめんね」
「……笑うな」
拗ねたみたいに言う声が、少しだけ可笑しい。
⸻
でも。
そんなふうに誰かの話をする彼を知れたことが、李灯は嬉しかった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
彼のことを知れている気がして。
⸻
やがて、家の近くまで辿り着く。
「あ……もう着いちゃった」
小さく呟くと、珂波汰も足を止めた。
さっきまで自然に話していた空気が、少しだけ静かになる。
⸻
「……今日は」
李灯がそっと言う。
「すごく楽しかった」
まっすぐな言葉。
珂波汰は少しだけ目を伏せて、それから小さく頷いた。
「……俺も」
短いけど、ちゃんとした返事。
⸻
沈黙。
でも、まだ帰りたくない空気が残ってる。
「……じゃあ」
珂波汰が言いかける。
その瞬間。
「……あの」
李灯が小さく呼び止める。
「ん?」
「……また、誘ってもいい?」
少しだけ不安そうに聞く声。
その表情を見た瞬間、珂波汰は小さく息を吐いた。
「……お前さ」
「……?」
「……毎回そんな顔で聞くのか」
困ったみたいに言いながら、でも声はやわらかい。
⸻
「……別に」
少しだけ視線を逸らして。
「……嫌じゃねぇから」
それだけ言う。
でも、それはほとんど答えみたいなものだった。
⸻
李灯の顔が、ふわっと嬉しそうに緩む。
その表情を見た珂波汰は、また少しだけ落ち着かなくなって。
「……だから、その顔すんなって」
「え?」
「……調子狂う」
ぶっきらぼうに呟く。
でも。
帰るはずなのに、まだ少しその場を離れられない二人だった。
夜風が、静かに吹いていた。
帰るはずなのに。
「……」
「……」
二人とも、なかなか動かない。
街灯の下で向かい合ったまま、少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
でも、それすら嫌じゃなかった。
⸻
「……じゃ、今度こそ帰る」
珂波汰がようやく言う。
「う、うん」
李灯も頷く。
それなのに。
また少しだけ間が空く。
⸻
「……李灯」
「え?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
珂波汰は少し迷うように視線を逸らして、それからぽつりと聞いた。
「……あのカフェ」
「うん?」
「……また行ってもいい」
それは確認みたいな、少し不器用な聞き方だった。
⸻
李灯は少しだけ目を丸くして。
それから、やわらかく笑う。
「……うん、行こうね」
その返事を聞いた瞬間。
珂波汰の肩から、少しだけ力が抜けた気がした。
⸻
「……じゃあな」
今度こそ背を向ける。
でも。
数歩進んだところで。
「……珂波汰くん」
また呼び止められる。
「……なんだよ」
振り返る声は、少しだけ照れくさそうだった。
⸻
李灯は少し迷ってから、小さく口を開く。
「……今日は、ありがとう」
「……」
「すごく、楽しかった」
その言葉はまっすぐで、嘘がない。
だからこそ、珂波汰は返事に困る。
「……おう」
結局、短い言葉しか出てこない。
でも。
その耳は、また少し赤かった。
⸻
「……ちゃんと帰れよ」
ぶっきらぼうに言う。
「うん、珂波汰くんも」
「……あと」
少しだけ言葉に詰まる。
「……知らねぇ男に、簡単についてくな」
「え?」
急な言葉に、李灯はぱちぱちと瞬きをした。
「……お前、危なっかしいから」
視線を逸らしたまま、ぼそっと続ける。
「……心配になる」
その最後だけ、少し小さかった。
⸻
李灯はその言葉を聞いて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「……ふふ」
思わず、小さく笑ってしまう。
「……なんだよ」
「ううん」
やわらかく首を振る。
「嬉しいなって」
その瞬間。
珂波汰が、ぴたりと固まった。
⸻
「……は?」
「だって、心配してくれてるんでしょ?」
「……っ」
言葉にされると、急に落ち着かなくなる。
視線が泳ぐ。
「……別に、普通だろ」
「そうかな」
「……普通だ」
少し強めに言い返す。
でも、全然余裕がない。
⸻
そんな彼を見て、李灯は少しだけ勇気を出した。
「……じゃあ」
そっと、一歩近づく。
「また、心配してね」
夜の空気の中に、やわらかく落ちる声。
⸻
「……」
珂波汰はしばらく何も言えなかった。
近い。
街灯に照らされた李灯の顔が、すぐそこにある。
ふわっと笑う目元。
自分に向けられる、やさしい視線。
胸の奥が、また変に騒ぐ。
⸻
「……お前」
やっと出た声は、少しかすれていた。
「……そういうこと、平気で言うよな」
「え……?」
「……ほんと調子狂う」
小さく吐き捨てるみたいに言って、顔を逸らす。
でも。
帰ろうとした足は、まだ動かなかった。
⸻
沈黙。
静かな夜。
遠くの車の音だけが聞こえる。
⸻
「……李灯」
ぽつりと、また名前を呼ぶ。
今度は少しだけ自然に。
「ん?」
「……ちゃんと、家入るまで見てる」
ぶっきらぼうな声。
でも、その言葉はすごくやさしかった。
⸻
李灯は少しだけ目を細めて笑う。
「……うん」
その笑顔を見た珂波汰は、また少しだけ視線を逸らした。
でも今度は。
ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
⸻
恋だなんて、まだ分からない。
でも。
“帰したくない”とか。
“心配になる”とか。
そんな感情が少しずつ、彼の中に積もっていく。
⸻
そして李灯も。
その不器用なやさしさに、もっと触れたいと思ってしまう。
⸻
夜は静かに更けていく。
けれど二人の距離は、確かに少しずつ近づいていた。
家の前。
珂波汰は壁にもたれながら、李灯を見る。
「うん。今日は本当にありがとう」
李灯は小さく頭を下げる。
その顔がまだ少し嬉しそうで。
珂波汰はまた落ち着かなくなった。
「……だから、その顔」
「え?」
「……いや、なんでもねぇ」
視線を逸らす。
でも、帰る気配はまだない。
⸻
「……あ」
李灯がふと思い出したように声を上げる。
「どうした」
「パーカー……」
今も肩に掛けている彼のパーカー。
返そうとして両手で持つと、
「……いい」
珂波汰はすぐに言った。
「え?」
「……今日寒ぃし、そのまま着とけ」
ぶっきらぼうな声。
でも、どこか照れ隠しみたいだった。
⸻
「でも……」
「……次会う時返せばいいだろ」
その言葉に、李灯は少しだけ目を丸くする。
“次”を、当たり前みたいに言われたことが嬉しくて。
「……うん」
やわらかく笑って頷く。
⸻
「じゃあ、おやすみ」
「……おう」
玄関の方へ向かう。
でも。
ドアを開ける前に、もう一度だけ振り返った。
珂波汰はまだそこにいる。
街灯の下で、ちゃんと見送ってくれている。
目が合うと、彼は少しだけ気まずそうに眉を寄せた。
「……早く入れ」
「ふふ、うん」
その声に背中を押されるようにして、李灯は家の中へ入っていった。
⸻
ドアが閉まる。
静かになる。
それなのに。
「……」
珂波汰は、しばらくその場を動けなかった。
⸻
夜風が吹く。
さっきまで隣にいた温度が、まだ少し残ってる気がする。
「……なんなんだよ」
小さく呟く。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
李灯が笑った顔。
袖を掴まれた時の感触。
“もう少し一緒にいたい”って言われた声。
思い出すたび、心臓が変な鳴り方をする。
⸻
「……帰るか」
ようやく歩き出す。
でも、足取りはいつもより少し軽かった。
⸻
帰り着くと、部屋の電気がついていた。
「おかえりー」
ソファに寝転がっていた那由汰が、だらっと手を上げる。
「……起きてたのか」
「んー」
気の抜けた返事。
でも、珂波汰の顔を見るなり、那由汰の目が少し細くなった。
⸻
「……なに」
「別にぃ?」
にや、と笑う。
嫌な予感がする顔。
「……機嫌よくない?」
「は?」
即答。
でも、那由汰は楽しそうに続ける。
「なんか今日、顔やばいよ。怖くない」
「うるせぇ」
「えー、だっていつもより全然トゲトゲしてないし」
ソファから起き上がりながら、じっと兄を見る。
「……なに、李灯さんと会ってた?」
ぴたり、と。
珂波汰の動きが止まる。
⸻
「……なんで名前出てくんだよ」
「図星なんだ」
「……うぜぇ」
顔をしかめながらも、完全には否定しない。
その反応に、那由汰は余計楽しそうになる。
⸻
「へぇ〜、デート?」
「……ちげぇ」
「でも遊んできたんでしょ?」
「……まぁ」
ぼそっと返す。
「わ、認めた」
「うるせぇって」
冷蔵庫を開けながら吐き捨てる。
でも。
耳が少し赤い。
⸻
「……ふーん」
那由汰は面白そうに兄を見る。
「珂波汰がねぇ」
「……なんだよ」
「いや、“誰かといて楽しい”みたいな顔してるから」
その言葉に、珂波汰は一瞬黙った。
⸻
楽しかった。
確かに。
李灯と歩いてる時間も、笑った顔を見るのも。
帰りたくないって言われた時も。
全部、嫌じゃなかった。
むしろ。
「……」
思い出すと、また胸の奥が落ち着かなくなる。
⸻
「……まぁ、いいんじゃない?」
那由汰がふっと笑う。
「そういう顔してる珂波汰、嫌いじゃないよ」
「……は?」
「なんかちょっと、人っぽいし」
「ぶっ飛ばすぞ」
「はいはい」
けらけら笑いながら、那由汰はまたソファへ倒れ込む。
⸻
珂波汰は小さく舌打ちして、自分の部屋へ向かう。
でも。
ドアを閉めて、一人になったあと。
ベッドへ座り込んで、ふと視線を落とした。
⸻
李灯が着て帰った、自分のパーカー。
今はそこにない。
その事実だけで。
「……はぁ」
変に落ち着かない。
⸻
でも同時に。
“次返す”
その約束が、少し嬉しいと思ってしまっている自分もいて。
⸻
「……ほんと、調子狂う」
小さく呟く。
でもその顔は、那由汰に言われた通り。
少しだけ、やわらかかった。