無題
次に会ったのは、デートから数日後だった。
仕事終わり。
いつもの高架下の近く。
「……おつかれ」
珂波汰が壁にもたれながら言う。
「うん。珂波汰くんも、お疲れさま」
李灯は小さく笑って隣へ行く。
自然になってきた距離。
でも、まだ少しだけ緊張する。
⸻
「……そのパーカー」
「あっ」
まだ借りたままだったことを思い出して、李灯は慌ててバッグを抱え直した。
「ちゃんと洗ってきたの。今日返そうと思って」
「……別に急がなくてよかったのに」
ぼそっと返される。
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
⸻
「……ありがとう」
丁寧に畳んだパーカーを渡す。
珂波汰はそれを受け取りながら、ふと動きを止めた。
かすかに残る柔らかい香り。
「……」
なんとなく落ち着かなくて、すぐ肩に引っ掛ける。
⸻
しばらく他愛ない話をして。
静かな時間が流れる。
でも今日の李灯は、少しだけそわそわしていた。
(……言えるかな)
指先をぎゅっと握る。
何回も迷って。
でも、また会いたいと思った時。
連絡手段がないことが、少し寂しかった。
⸻
「……あの」
小さな声。
珂波汰が視線を向ける。
「……んだよ」
「えっと……」
喉が少しだけ詰まる。
でも、逃げたくなくて。
「……連絡先、とか」
「……は?」
ぴたりと、珂波汰の動きが止まる。
⸻
李灯は顔が熱くなるのを感じながら、続けた。
「……ほしいなって」
夜風が吹く。
沈黙が落ちる。
⸻
「……連絡先?」
珂波汰が確認するみたいに呟く。
「う、うん……」
「……なんで」
反射みたいな問い。
でもその声は、嫌そうじゃない。
⸻
「……また会いたい時、とか」
李灯は視線を落としたまま言う。
「……ちゃんと連絡できたら、嬉しいなって」
やわらかい声。
でも、ちゃんと勇気を出してるのが分かる。
⸻
「……」
珂波汰は何も言わない。
ただ、妙に落ち着かなくなる。
連絡先。
そんなの、今まで深く考えたこともなかった。
必要な相手とだけ、最低限。
でも。
李灯から“ほしい”って言われた瞬間。
胸の奥が変に熱くなる。
⸻
「……嫌、だった?」
不安そうに聞かれて、珂波汰ははっと顔を上げた。
「……違ぇよ」
少し強めに返す。
「……そうじゃねぇ」
そのまま視線を逸らして、頭をかく。
「……ただ」
言葉に詰まる。
「……そういうの、慣れてねぇ」
ぼそっと落ちる本音。
⸻
李灯は少しだけ目を丸くして、それからふわっと笑った。
「……そっか」
その笑い方がやさしくて。
珂波汰は余計に調子が狂う。
⸻
「……でも」
小さく続ける。
「……私、珂波汰くんともっとお話したい」
まっすぐな言葉。
飾り気のない気持ち。
⸻
「……っ」
珂波汰は一瞬だけ言葉を失った。
そんなふうに、真正面から来られると弱い。
「……お前さ」
「……?」
「……そういうこと、さらっと言うよな」
耳が少し赤い。
⸻
それから観念したみたいに、小さく息を吐いた。
「……貸せ」
「え?」
「スマホ」
李灯は慌ててスマホを取り出す。
珂波汰はそれを受け取ると、少しだけ慣れない手つきで連絡先を入力した。
その横顔を見ているだけで、胸がどきどきする。
⸻
「……ほら」
返されるスマホ。
画面には、新しく追加された名前。
『珂波汰』
それだけなのに、嬉しくて。
⸻
「……ありがとう」
李灯が大事そうにスマホを抱える。
その反応を見た珂波汰は、少しだけ視線を逸らした。
「……そんな喜ぶことかよ」
「うん、嬉しいよ」
即答。
「……」
また心臓が変な鳴り方をする。
⸻
その時。
李灯のスマホが、小さく震えた。
「……?」
画面を見る。
“珂波汰:ちゃんと帰ったら連絡しろ”
送信時間、たった今。
⸻
「……っ」
李灯が驚いて顔を上げる。
珂波汰は少し気まずそうにそっぽを向いていた。
「……練習」
ぼそっと言う。
「え?」
「……送れるか確認しただけ」
明らかな言い訳。
⸻
でも。
“ちゃんと帰ったら連絡しろ”
その言葉が、やさしくて。
李灯はふわっと笑った。
「……うん、ちゃんと送るね」
その笑顔を見た珂波汰は、また少しだけ耳を赤くする。
⸻
連絡先ひとつ。
たったそれだけなのに。
二人の距離が、また少しだけ近づいた気がした。
その日の夜。
お風呂も終わって、部屋の灯りを少し暗くする。
ベッドに座ってスマホを見るたび、胸が落ち着かなかった。
連絡先。
本当に交換したんだ。
画面にある『珂波汰』の文字を見るだけで、少しだけ頬が熱くなる。
⸻
(……送って、いいのかな)
ちゃんと帰ったら連絡しろ。
そう言われた。
でも。
何を送ればいいんだろう。
変じゃないかな、とか。
迷惑じゃないかな、とか。
考えてばかりで、指が止まる。
⸻
それでも、勇気を出して画面を開いた。
李灯
今日はありがとう。
ちゃんとお家着いたよ
送信。
その瞬間、心臓がどくっと鳴る。
(……変じゃなかったかな)
送ったあとに不安になる。
⸻
数分。
返信は来ない。
やっぱり忙しいのかも、と思い始めた頃。
ぴこん、と通知が鳴った。
思わず飛び起きそうになる。
珂波汰
ならいい
短い。
すごく短い。
でも。
ちゃんと返してくれたことが嬉しくて、李灯は思わず笑ってしまう。
⸻
(……なんか、珂波汰くんっぽい)
そう思いながら、また少し迷う。
終わりかな。
でも、もう少しだけ話したい。
李灯
珂波汰くんも、ちゃんと帰れた?
送信してから、またどきどきする。
数秒。
今度は少し早く返事が来た。
珂波汰
帰ってる
那由汰がうるせぇ
「ふふ……」
思わず声が漏れる。
弟さんの話を、自分にしてくれた。
それがなんだか嬉しい。
李灯
仲良しなんだね
既読。
でも、しばらく返信が来ない。
(……困らせちゃったかな)
そう思っていたら。
珂波汰
普通
短い。
でも。
すぐ返信が来る。
それだけで、ちゃんと読んでくれてるのが分かる。
⸻
しばらく、ぽつぽつと言葉を交わす。
長文じゃない。
絵文字もほとんどない。
でも。
不思議なくらい、その時間が心地いい。
⸻
その時。
また通知が鳴る。
珂波汰
……今日の店
甘すぎた
李灯は一瞬きょとんとして、それからふわっと笑った。
ケーキのことだ。
わざわざ思い出して送ってくれた。
李灯
えー、美味しかったのに
珂波汰
お前甘いの好きすぎ
李灯
じゃあ今度は珂波汰くんの好きなもの食べに行く?
送ってから、はっとする。
“今度”って、自然に言ってしまった。
⸻
既読。
でも、返事が来ない。
(……あっ)
やってしまったかもしれない。
顔が熱くなる。
⸻
その頃。
部屋でスマホを見ていた珂波汰は、画面をじっと見つめたまま固まっていた。
“今度は”
その言葉が、妙に胸に残る。
⸻
「……珂波汰、顔やば」
後ろから那由汰の声。
「……うるせぇ」
「絶対李灯さんでしょ」
「……寝ろ」
耳が少し赤い。
⸻
スマホを見下ろして、しばらく迷って。
それから、ぽつりと打ち込む。
珂波汰
……考えとく
その日の夜。
部屋のベッドに腰掛けながら、珂波汰はスマホを見下ろしていた。
画面には、李灯とのやり取り。
短い文章ばかりなのに、妙に目で追ってしまう。
送信。
その直後。
「ただいまー」
リビングの方から、だらっとした声が聞こえた。
「……」
珂波汰はスマホを伏せる。
数秒後、部屋のドアが半分だけ開いた。
「珂波汰ー、アイス……」
那由汰が言いかけて、ふと止まる。
じっと兄を見る。
⸻
「……なに」
「いや」
那由汰が目を細める。
「なんか今日、機嫌よくない?」
「は?」
即答。
「別に」
いつもの低い声。
でも。
那由汰はじーっと見たまま動かない。
⸻
「……ふーん」
ゆっくり近づいてくる。
「女?」
「は!?」
珂波汰が露骨に反応する。
その瞬間、那由汰の口角がにやっと上がった。
⸻
「うわ、図星じゃん」
「ちげぇし」
「でもなんか甘い匂いする」
「……は?」
「いつもと違う」
珂波汰の服をちらっと見る。
李灯と会っていた時についた、柔らかい香り。
本人は気づいてなかった。
⸻
「……別に」
視線を逸らす。
でも耳が少し赤い。
那由汰は面白そうに笑った。
「へぇ〜」
⸻
その時。
ぴこん、とスマホが震える。
珂波汰が反射的に画面を見るより早く、那由汰の目に通知が入った。
⸻
“李灯
おやすみなさい、珂波汰くん”
⸻
「……李灯?」
ぴたり、と空気が止まる。
⸻
「勝手に見んな!」
珂波汰が珍しく声を荒げる。
慌ててスマホを掴む姿に、那由汰は一瞬きょとんとした。
それから。
「……っ、あはは!」
耐えきれず吹き出す。
⸻
「珂波汰がそんな怒り方することある!?」
「うるせぇ!」
「やば、ほんとなんだ」
「……だから違ぇって」
「絶対好きじゃん」
「は!?」
また即反応。
完全に分かりやすい。
⸻
珂波汰は眉を寄せながらスマホを握りしめる。
でも。
那由汰はからかいながら、少しだけ安心したみたいな顔をしていた。
⸻
今まで。
珂波汰は、自分以外にほとんど興味を持たなかった。
人と深く関わろうともしない。
必要以上に近づかない。
そんな兄が。
誰かからのメッセージ一つでこんな顔をする。
⸻
「……なんかさ」
那由汰がふっと笑う。
「ちょっと嬉しいかも」
「……は?」
「だって珂波汰、今までそういうの全然なかったし」
ソファにごろんと転がりながら続ける。
「その李灯さんといる時、なんか楽しそうじゃん」
⸻
「……」
珂波汰は返事をしない。
でも、否定もしない。
⸻
スマホを見る。
“おやすみなさい”
たったそれだけのメッセージ。
なのに、胸の奥が少し温かい。
⸻
「……うるせぇ」
ぼそっと呟く。
でも。
その声は、いつもより少しだけやわらかかった。
⸻
那由汰はそんな兄を見ながら、ひとり小さく笑う。
(……よかった)
少しだけ。
本当に少しだけ。
珂波汰の世界が広がっていく気がしたから。