お兄ちゃん、と呼ぶ声で目が覚めたのはいつぶりだったろう。目覚まし時計を止め、カーテンを開け、布団を思いっきり剥がされる。

いつからだろう、
この役目をすべて自分でこなすようになったのは。



旅立ちの文




妹が結婚したらしい、と知ったのは半年ぶりに母からの電話を受けとったときだった。事後報告、こんなのあってたまるかと腹が立ちそうになったが式をあげなかったらしい。まさか式に呼ばれなかったのかと焦りかけた俺の心は一応平静を取り戻した。


「あんたも一回帰ってき」


嗄れた母の声を聞いて胸が締め付けられる。もう二年、仕事が忙しく実家には帰っていなかったのだ。俺が物心ついた頃からむくむく太っていた母は、以前はもっと、その身なりに似合う太い声をしていた。姿を見ないうちに痩せたのだろうか、聞きたいが無駄口を叩いて怒鳴られたくもないので、黙っていることにする。


「そうだなぁ。」


スーツを着たまま携帯電話を握りしめる左手に力がこもる。手帳を開くとびっしりつまったスケジュールが目に入った。残業の続く一週、取引先とのやり取り、上司の愚痴や武勇伝を聞かされる飲み会。ごちゃごちゃと汚い鉛筆の字で乱雑に書かれたそれは、視界に入れるだけでもため息の1つつきたい思いに駆られる。


「....年明けごろには帰るよ」


呟くように声をもらすと、ほっと母の一息つく声が聞こえた。どうやら妹もその頃家に戻るとのことで、一度みんなで集まってきちんとお祝いをしようということになった。







「全く、いつまでも寝坊助なんだから。ちゃんとお仕事は行けてるの?」


そうだ、朝の話だ。
実家に戻り、すっかり空き家のようにガランとした一室に、俺と妹は布団を並べて敷いた。今は衝立で仕切られ小さな二つの部屋のように見えるここは、かつての子供部屋だった。この部屋を何かに使えばいいものを、幼い頃に父が他界し母ひとりで暮らすこの家には、なにぶん物がないらしい。
数年ぶりにその姿を現した妹は随分しっかりとしていた。寝ぼけていた俺には、叱りつけるようなその声色はかつての母のものかと思うほど凛としていて、だがどこか優しさに満ちていた。妻になるのだ、彼女は。


「実家に戻ると、どうもこの空気に絆されて目が開けられねーよ」


気だるく答えて布団から体を起こした。リビングから目玉焼きとベーコンを焼く音がする。あぁ、帰ってきたのだ。俺の家に、いま俺はすっぽりとおさまっているのだ。ぼんやりそう思って戸をあけた。


リビングに向かって階段を降りれば、見慣れた景色が目に映る。全員揃って朝食をとるのはいつぶりだろうか。全員と言ってもたった3人なのだけれど、今となってはこの3人でさえ揃うことは難しい。

年老いた母も、大人びた妹も食事を共にして見て取れる所作はあの頃のままだった。母は大雑把だから一つの食器におかずやご飯をまとめて詰め込む。ワンプレートといえば聞こえはいいが、汁気を含んだ煮物なんかが隣のおかずに染みるのはなんとかしてほしい。味がごっちゃになるだろうと口を出したことがあるのだが、なんてことないと一言で言いくるめられてしまった。母にものを言うのはいつだって何十年早いという気がする。
妹は猫舌で、おまけに不器用でときどき箸からおかずを落下させる。あっ、と妹の口から間の抜けた声が響けばそれが合図だ。ランチョンマットや服の上にぽろぽろと零して汚すものだから、いつも箸だけじゃなく顔も少し前にだせと口うるさく言葉にしていた。犬食いは行儀が悪いらしいが多少顔を寄せるのは、しょっちゅう服を汚すよりましだ。
今となってはなかなか想像もできないが、小学生の頃の俺は男ひとりだからととても責任感が強かったように思うし、しっかりしようと母や妹の世話をするくらいのものであった。義務感や焦燥感に当てられることもなくなった今は、この体たらくではあるが。

だけどやはり、食卓の彼女らはとても危なかっしい。

そんな風に見つめていたら呆れた俺をよそに妹はどうしてか嬉しそうにふふふ、と笑うのだった。
3人でもいつも賑やかで温かい食卓は今の俺には少し居心地の悪いような、罪悪感のようなものがあった。





「ねぇ、ちょっとお散歩しようよ」


朝食のような昼食のようなどっちつかずの食事を終え、部屋を掃除し荷物を整頓し終わって一息ついていた俺に妹は声をかけた。気がついたら西日が指している。そんなに片付けに熱中していたのだろうか。
うちの実家は海近くだから、窓の外を眺めると水面に反射した太陽の光がキラキラしている。

なんとなく海風に当たりたい気持ちもあってふたり、ふらっと歩くことにした。
結婚式をどうしてあげなかったのかとか、相手とはどうなんだとか、妹に聞いてみたかった事は沢山あったように思うけれど、こうして2人海沿いを歩いていれば、そんな普通の質問がなんだかアホらしく思えるほど穏やかな気持ちになった。おめでとうと一言口にしたいのに、何故か気恥ずかしい思いが勝って、開きかけた口をまた堅く結ぶ。一端の社会人となってマナーやら気遣いやら、仕事に必要なことは沢山学んだはずなのに、ひとたび実家に帰ってきてしまえば子どもの頃となんら変わらない自分がそこにいた。



「ここってこんなに涼しかったっけねぇ」
「海が近いから風が強いのは確かだけど」
「もー、そんなことわかってるよ。なんだかさ、毎日いたはずなのに少し帰らないだけで忘れることだらけだね」


妹はよく笑う。
昔から、大声で笑うことは少なくともふふふ、と声に出すような出さないような、そんな笑い方をするのだった。だけど、表情変化に乏しい彼女については、俺はその顔を見る度不安を煽られるような気がしていた。その顔の裏に、全部隠されているような気がした。だから彼女が満ち足りているのか寂しいかなんか長年一緒にいたって情けないことに分かりやしないのだ。

それが分かっていたにも関わらず、俺は歳を重ねるほど言葉足らずになっていた。
俺たちのコミュニケーションは、随分と確信的なものはなく、ふわふわと頼りないものだったのだと久しぶりに言葉を交わして再確認する。


「お兄ちゃん、」


ふと立ち止った妹につられるように振り返った。ワンピースの上に羽織ったパーカーのポケットから、皺くちゃになった紙が取り出される。俺が何かと聞く前に、彼女は紙を広げて言葉を発した。


「お手紙を読みます!」
「え、」


突然の宣言に面食らう俺と、誇らしげに満面の笑みで俺を見つめる妹。


「なんだ、そのサプライズみたいな」
「感動しちゃうでしょ」
「俺の涙腺はそんなヤワじゃないぞ」
「また海っていうのがね。ロマンチストな私…」
「はいはい、ていうかなんで手紙」
「拝啓、お兄ちゃん」
「おい、」


俺の言葉なんか何一つ気にかけないように彼女は言葉を発しはじめた。突然の音読に気恥ずかしくてなんだかいたたまれない。女子じゃあるまいし手紙交換なんて経験に乏しい。妹に今更こんなことされるなんて思ってもなかったから、どんな顔で聞いていればいいのかわからなかった。


「えーと、お兄ちゃん、さいきん連絡とってないけど、元気ですか?」
「見ての通り」
「ヒゲは剃ってますか?前伸ばしてたけどホームレスみたいだからやめた方がいいと思ってます」
「.......」

「お兄ちゃんはしっかりしてるけど、自分のことになったら適当にすましてしまう気がします。だから生活習慣とか食事とかちょっと心配です。料理もできる癖にきっとしていないんだと予想しています。」


エスパーかこいつは、と正直思ってしまうくらい図星で返す言葉が見当たらなかった。全て見透かされているのかと思うと、何を言っても見苦しい言い訳になってしまいそうで。いや、手紙だから今すぐ応答する必要は無いのだろうが。


「こんな私も結婚する歳になりました。
今思えば、お父さんには悪い話ですが、私の中のお父さんの記憶はとっても乏しいです。物心着いた頃から、お母さんにベタベタでお兄ちゃんにお世話してもらった記憶ばかりです。」


思ったより真面目な内容に不意をつかれた気持ちになる。
妹は根は真面目だけれど、相談事はあまり持ちかけなかったし自分の話を進んでしない奴だっただけに、こうやって真剣に何かを語りかけられるのは初めてのような気がした。


「お兄ちゃんとはすごく仲良し!という訳でも、なんでも話した仲でもなかったけれど、家に帰ったら必ず顔出して迎えてくれるところや、力仕事があるときや怪我をしたときはいつも駆けつけて、」


日が暮れて逆光で妹の姿ははっきり見えなくなった。それでいて顔を上げないから余計に表情が窺えない。
だけど、声色が変わっていくのが僅かに分かった。


「お母さんに怒られたときも、友達と喧嘩したときも、そっと助けてくれたり、わたしをひとりにさせなかったお兄ちゃんが、大好きです。」


俺は涙腺は弱くない。
だからたとえ父親を兼ねたような目で妹を見てきたとしても、彼女がこれから実家を出て自分の新しい家族の元へ行くとしても、泣かない。


「わたし、は、」


妹の声はそこで止まった。手紙を持つ手が震えているのが分かった。2年間、顔を合わせなくなって、家族への情は薄れたんじゃないかと思っていた。


「俺を感動させるんじゃなかったのかよ」


小さく笑って手をとった。大人になってもこの小さなか細い手だけは頼りなかった。目や姿勢が凛としていても俺の手を握る彼女の力なさは、変わらなかった。


「ありがとう、」


暗さと俯きで見えない彼女の頭は大きく上下した。


「まぁ、距離的に離れてることは今までと変わらないんだし、お前が新しい家庭作ったって、苗字が変わったって、俺がお前の兄ってことは変わらない」
「うん、」
「泣くな泣くな」
「泣いてない」


説得力なさげに鼻を啜る音がした。あぁ彼女は不安で寂しかったのだ。

自分に言い聞かせるようだった。母から妹が結婚したと電話を受けたときの、あの感じ。誰よりも動揺したのは俺だっただろう。必要以上に友達を作らず、どちらかといえば家でぼーっとしていた彼女が、外に出ていくのだと感じたあのとき。先に家を出て行ったのは自分だったのに、家族とは、無条件に何も変わらずそばにいるものだと、どうしてか思っていた。
帰る場所はずっと変わらずあの家で、そこに母も妹もずっと、いるものだと。
何の約束がなくても、どこかで変わらないものなんじゃないかと。

昔からのことを振り返ったら、急に鼻の奥が痛い気がした。



「お兄ちゃん」

風が止んだのと同時に妹が顔をあげた。


「元気でね」


少し潤んだ目で硬く決心したように微笑む彼女は、どこか俺が昔から知っている妹ではなかった。力の抜けた手から彼女の丸い字で書かれた手紙が、ゆっくりと風に解かれて消えて行った。



彼女が幸せでありますように。


目を瞑り少し間を開けて、彼女の笑顔に任せるように、俺は少し乱れたその髪を梳かしてゆっくりと頭を撫でた。





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