鼻腔を掠める甘い香りで目が覚めた。しかし瞼がどうにも重たくて目は開けられないままでいる。いったい今は何時なんだ。枕元に置いているはずの携帯端末を探るが、そもそもここはベッドでは無いことに気が付いた。
「うおっ……?!」
ようやく抉じ開けた視界に映ったのは人の後頭部。驚いて出た声は俺らしくもなく想像以上に弱々しくて小さなものだった。鈍い痛みを訴える頭はアルコールの余韻を引きずっているが、どうにもそれだけでは無いらしい。腹のあたりまでかけられた布団、とそれと一体化しているテーブルを見て昨夜の記憶が呼び起こされる。
『こたつって気持ちよくてついつい眠っちゃうけど、だるくなるんだよね』
そう語る彼女の姿を思い出す。そうだ、これは“コタツ”とか言う名前だった。
ヴァルキリーの家でクリスマスパーティーをしようなんて話になったのはどうしてだったか。理由が何であれ酒が飲めて飯を食えて騒げるのなら、と二つ返事で誘いに乗った。好きな女もそこにいるとなれば、なおさら参加しないわけにはいかない。
シェと共にしこたま買い込んだ酒と、ミラージュが持ち寄った料理。美味いつまみにクリスマスと言う解放感も手伝って、酒の減るペースは早かった。
満腹になったあとはひたすらに彼女を見ながら飲んでいた気がする。女を酒の肴にするなんて以前までの俺だったら考えられないことだったが、いつもとメイクが違うのか、華やかな雰囲気を纏った彼女から目が離せないまま――日付が変わる頃には、だいぶ出来上がっていたと思う。
最初に脱落したのはミラージュだった。酒のボトルを片手に座ったまま寝落ちした様を、ランパートと笑いながら写真に収めたのを覚えている。その次に寝てしまいそうだったワットソンはレイスが家まで送り届けるとのことで二人まとめて去ってしまった。シェも終電に合わせて帰ってしまって、まだまだ飲み足りないというのにすっかりお開きの空気だ。
「お前らは泊まっていくか? と言っても、寝室は私とローバのものだから通してやれないけど」
そう言ってローバの腰を抱くヴァルキリーは、今にもおっ始めそうな勢いで「うげ」と声が出た。同僚のそう言った面を覗き見る趣味は無い。
幸い、ミラージュが寝落ちしたのは一人掛けチェアだったためにソファは空いている。ランパートも俺も朝まで飲むだろうから、彼女が眠たそうだったらそこを使ってもらうか、と考えていた。
ここにオビがいれば彼女を自宅へ送るだなんだと騒ぎ出すだろうが、クリスマスを家族と過ごす約束をしていたらしいあいつはここにはいないし、きっと俺が「送ってやる」と言ったところで彼女は断るのだろう。それならば彼女を潰して、朝までここで過ごした方が一緒にいられる時間は長い。そんな俺の下心を知ってか知らずか、彼女はランパートへ「どっちが先に潰れるか、飲み比べだね」なんて呑気に笑いかけている。
「そう言えば、あの襖の先にはなにがあるの?」
「ああ、あれか」
フスマ。聞き慣れない単語に彼女の目線の先を辿れば、それはリビングの奥にある壁のようなものに向けられていた。馴染みが無いので意識していなかったが、あれはドアの一種らしい。彼女とヴァルキリーは出身地が近いと言うのを思い出し、その地特有の建築なのだろうと納得した。
「あそこにはな、人を堕落させるものがある」
「人を、堕落……?」
何やら含みを持たせた言い方をするヴァルキリーの先導で“フスマ”の前まで移動する。促されるがまま彼女がそれを開けば、その先にはタタミ張りの、いわゆる“和室”が存在していた。
「えっ、こたつ?!」
「コタツ?」
「ふふ。ついに買ってしまったんだよ……」
彼女が目を輝かせて中央に鎮座するそれに駆け寄る。極端に低いテーブルだな、と思ったがそこから広がる布団を見て俺とランパートは首を傾げる。テンションの高い彼女の様子からこれがただならぬものであることは分かったが、“コタツ”と呼ばれたこれが何なのか検討もつかなかった。
「ほら、電源着けたぞ〜」
和室とは靴を脱いで上がるものらしい。ランパートが二人に倣って和室へ入っていったのを見て、自身の脚を見下ろす。……義足を外せってのか? そんな俺を見かねたのか、ヴァルキリーはウェットティッシュをこちらへ寄越した。雑に義足を拭き上げて、畳を踏んだ――カーペットとはまた違う感覚に脚が縺れそうになる。
「おいで、オクタビオ」
不意に名前を呼ばれて心臓が跳ねる気がした。普段は俺がいくら頼み込んでも、頑なにレジェンドネームで呼んでくるくせに。
彼女の隣の“ザブトン”とやらに腰掛けると、満足そうな笑みを向けられて複雑な気持ちになった。床が近くて変な感じだ。
「うわ……何だこれ」
テーブルの下、そっとかけられた布団の中は暖かかった。中を覗くと、そこはオレンジ色の光に照らされている。テーブルに布団が組み込まれている変な家具だと思ったが、布団が組み込まれたテーブルに暖房が内蔵されている変な家電だったらしい。意味が分からない。分からないながらも『人を堕落させる』との言葉の意味は理解できた。こんなもの、強い意志を持っていなければ一生出られなくなってしまう。
「うわあ……こたつなんて何年ぶりだろう」
「ウィット〜、酒持ってきて……って寝てんのか」
今にも溶けそうな彼女とランパートを得意げに見ていたヴァルキリーが、ローバに呼ばれて去っていく。寝ぼけたミラージュが酒をひっくり返したらしい。見に行って面白がってやろうかと思ったが、頬を僅かに上気させてこちらを見上げる彼女のせいで動けなくなった。今更になって気がついたが、彼女が、近い。肩なんか身じろぎすればぶつかりそうな距離だった。童貞じゃあるまいし、だから何だと言う話だが。
「もう、クリスマスと言うより年末の気分になっちゃうね」
「へ……あ、そうなのか?」
「私の実家ではここでお鍋したり、みかんを食べたりするんだよ。そのまま寝ちゃうこともあって……ふふ、こたつって気持ちよくてついつい眠っちゃうけど、だるくなるんだよね」
酒のせいかコタツのせいか、やけに喋るなとその唇に目が行ってしまう。いつもと違う色が塗られたそれはどうにも美味しそうで。横目で向かい側に座るランパートを見ればすでに船を漕いでいたものだから、つい魔が差して、顔を近づけた。
「えいっ」
「おわっ!」
唇が重なる寸前で視界が揺れる。彼女に引っ張られて倒されたのだと気付いたのは、側頭部を軽く打った痛みからだった。
「な、にす」
「ふふ、オクタビオがこんなに近いのなんて、あの夜ぶりだね」
文句を言おうにもそんなことを言われてしまえば黙るほかない。彼女に“痛い目”を見せたあの夜の話を、その口から聞くのは久しぶりだった。
「……お前が、俺を避けるから」
「避けてなんか無いよ」
そんなの嘘だ、とは言い切れないのが悔しい。あの夜が特別だっただけで、俺たちの距離は元々そう近くはなかったのかも知れない。とは言えデートに誘っても言葉巧みに躱され、二人きりになりそうであればふらりとどこかに行ってしまう。これが避けられているのでなければ何だろう。最初はそんな掴みどころのない彼女が面白いと思えたが、これだけ敗北続きではさすがのオクタン様も形無しだ。かと思えば、今みたいにぐっと距離を詰めてくるのだからたまらない気分になる。
「じゃあ何で、……」
「なんで?」
「な、何で……付き合う、とかそう言う話……しないんだよ」
思いのほか情けなさを孕んでしまった声に頭を掻きむしってしまいたくなる。こんなの俺様らしくない。彼女には調子を狂わされてばかりだ、あの夜からずっと。
「私と付き合いたいの?」
「そりゃ……言ったろ、好きだって……」
ここはヴァルキリーの家で、すぐ近くにランパートだっている。できる限り声を顰めて言えば、それに重ねるかのごとく小動物のようないびきが聞こえて来たので何となく居た堪れなくなり、無意味に咳払いをした。
一緒に夜を過ごしたのだから、当然俺のものになるのだと思ってた。今までの女はそうであったし、ちょっと遊んだだけで恋人になりたがる女たちを煩わしいとすら思ったこともある。
……今の俺も、その女たちと変わらないんじゃないか?
彼女からすれば、俺とのことは軽く遊んだつもりだったのかもしれない。そう今更ながら思い至って肝が冷えた。あの夜に見た小悪魔的な彼女ならあり得ない話では無い。もしや同じことで思い悩んでる男が俺以外にも居るのか、なんて恐ろしい疑念が浮かぶ。
顰めっ面をしてあれこれ考える俺がおかしかったのか、彼女がふっと笑ったものだから、その顔見たさに目を合わせてしまった。
「可愛いね、オクタビオ」
「は」
「可愛い」
カワイイ、だと。彼女が何を言っているのか分からない。言葉の意味はサッパリだったが、彼女が俺に向けた視線の意味は分かってしまった。キスをねだる女の目だ。誘われるままに今一度、顔を寄せる。
「オク――」
「あー……トイレトイレ……」
テーブルを蹴り上げるような激しい音が聞こえて、咄嗟に彼女に背中を向ける。ランパートが起きたらしい。別にやましいことをしていたわけでは……あるが、寝たフリをしてしまう自分がガキみたいで面白くない。遠くから「カイリ、トイレどこぉ?」と間延びした声と「漏らすなよ?!」と焦った声が聞こえて――そこから記憶が無かった。
と言うことは、目の前で寝息を立てている後頭部はやはり彼女のものだろう。あんなにも呆気なく寝落ちしてしまうなんて、俺も彼女も思っていたより酔いが回っていたらしい。いや、これもコタツとやらのせいなのか?
コタツの中を覗き込む。リビングで眠っているのか帰ったのか、ランパートの姿はない。ここにいるのは俺と彼女だけだった。
電源が切られているらしい中は少し冷えていて、低温とは言え一晩中あたっていたら義足がオーバーヒートしていたかも知れないな、など妙に冷静な部分で考えつつ、ぬくもりを求めるように彼女の背に体を密着させた。
(う、わ……)
起きぬけに感じた甘い香りは彼女のものだったらしい。シャンプーなのか、香水なのか、体臭なのか。僅かに汗の匂いもするが嫌な気分にはならない。と言うより、むしろ――
「ん……」
急に背中へ感じた存在が煩わしいと言う風に身じろぎをしながら離れようとする体が惜しくて、さらにこの身を押し付ける。鼻から抜けたような声があの夜を思い出させてどうしようもなかった。
彼女を抱きしめるように片腕を回すが、起きる気配はない。彼女を覆うニット越しに感じるやわらかさに、いよいよ抑えが効かなかった。
小窓から見える空はまだ夜の色を残している。息を殺して気配を探るが、離れた場所から男のいびきが聞こえて来るのみだった。きっと、起きているのは俺だけだ。
少しだけなら、触ってもいいよな。俺の気持ちを知ってるくせに、無防備に寝ている彼女が悪いんだよな?
そう自己正当化して、彼女の身体のラインをなぞるように手を滑らせる。
あの夜にも散々思ったが、普段は服に隠されているこの腰のなだらかな曲線がたまらない。繰り返し撫でるようにすれば自分の呼吸が荒くなっていくのが分かった。
うなじへ鼻先を埋めて深く息をする。想像以上に彼女の香りが強く感じられて目眩がした。
「ヤベェ……」
下半身に重い痺れが起きる。反応しつつあるそれを彼女の尻へ押し付ける様が、我ながら発情した犬のようで笑えた。
堪えきれずにニットの上から胸を鷲掴む。硬い布地に阻まれたそれにすら興奮してしまうからもう駄目だと思った。紛らわせるように舌を這わせた彼女のうなじはほんのりしょっぱくて甘い。
「んっ……ぁ」
ささやかながらも明確な嬌声が聞こえたのを合図に、服の中へ手を差し込んだ。
「や、めて」
腹に直接触れたあたりで手が止まる。弱い力で俺を阻もうとする彼女の腕なんかよりも、言葉の方がよく効いた。俺からのアプローチをのらりくらりと躱すことはあれど、「やめて」と直接的な言葉で拒絶されたのは初めてだったから。彼女に拒まれるのは、こうもつらいものなのかと驚いたのちにふつふつと怒りが湧いて来た。
俺を振り回すこの女を、このまま無理やり犯してやろうか。深くため息をつきながら、一瞬浮かんだ欲をぐっと飲み込んで彼女の体から離れる。
「ちが、違うの……」
彼女の手が、追うようにして俺の手を取った。
「ここじゃ、最後までできないから」
そうか細く語る耳は赤く染まっている。それだけで、もう少し彼女に振り回されてもいいかもしれない、なんて思えてしまうのだから完全にお手上げだ。熱に浮かされた頭で、他の奴らが起き出す前に彼女を連れ出す算段を立てていた。
(2022年12月26日 Privatter掲載)
(2025年9月27日 加筆修正)